文/山東省の大法弟子 彩霞
【明慧日本2016年3月13日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私は明慧ネット第12回修煉体験交流会の機会を借りて、修煉の経験を師父にご報告するとともに、同修の皆さんと交流したいと思います。法に則していないところがあれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。
一、幸運にも大法と出会い、家族も佛恩を受ける
1996年、私は病気(乳房切除が必要)のために法輪大法の修煉を始めました。大法を学んだあと、1週間で病状は好転し、20日後、左右の乳房の腫れが引き、咽頭炎、神経衰弱、肩こりなどの症状も良くなり、体が軽くなりました。法輪功の修煉を始めた後の私の体の変化を見て、夫も修煉を始めると、すぐに酒とたばこをやめ、人が変わって元気になりました。母は若い時から肺結核など、多くの病気があり、力仕事はできなかったのですが、1997年から修煉を始めると、多くの病気がいつの間にかなくなってしまい、体は完全に健康な状態に戻りました。長女は1997年に癲癇を患い、発病した時は気絶して口から泡を吹き、人事不省に陥り、とても怖かったのですが、修煉を始めた後は、師父が長女の身体を浄化し、病気を根絶してくださったので、今まで、病気はまったく再発していません。そして長女は現在2人の子供の母親です。
師父は私たちに一銭も要求せず、私たち家族全員に健康な体を授けてくださいました。さらに重要なことは、学法を通して人生の目的と生命の意義を知った事でした。このような大恩に報いるために、私のすべてをささげても、万分の一も報いることができません。
二、形勢が急変、初めて魔難を経験する
1999年7月20日、恐怖の大王が天から降りて来て、この日から私の魔難が始まりました。もともと私は郊外の普通の農婦で、なんとか暮らしていくために県庁所在地の師範学校の中で軽食堂を開きました。7月20日午前、私と夫は親戚の所へ出かけました。学校の所轄地域内にある警察署の署長が師範学校の校長の運転手と一緒に私が開いた軽食堂にやって来て、娘に私がどこへ行ったか尋ねると、警察署長は車で途中まで追いかけて来て、観光地にある洗脳班に私を不当に拘禁し、洗脳による迫害を行い、1週間後はまた街に戻って迫害し、1360元を私の身につけたものから探し当てて奪い、14日間不当に拘禁した後、私を釈放しました。
1999年12月、県は3人を私の店に派遣し、修煉を放棄するよう迫り、また、私の借家が師範学校のものだったので、師範学校も人を派遣して私を監視しました。中国共産党はしょっちゅう私の店を妨害し、夜中の3時に戸を叩いて私たち2人が家にいるかどうかを確認しました。伯母がなくなった時も、郷里に帰って葬儀に参列することさえできませんでした。中国共産党は私たちが北京へ陳情に行くのを最も恐れていました。しかし、テレビや新聞、各種メディアが猛吹雪が天地を覆い隠すようかのようなデマで大法を誹謗中傷し、大法に泥を塗るような事をしているのに、私のように大法によって九死に一生を得た人間がこれ以上家でじっとしているわけにはいかず、私は陳情に行き、師父の為に正義を勝ち取り、大法の無罪を取り戻さなければなりませんでした。そこで、2000年の元旦の後、私は1人で北京へ行く事にしました。次の日の朝早く、牡丹雪が降る中、北京へ向かう街道を歩き、信訪局(陳情を受け付ける中国の国家機関)を尋ねましたが、信訪局の入口で私服警官に不当に連行され、地元政府の北京連絡所に引き渡され、地元の公安によって地元まで戻され、半月、不当に拘留されました。
2000年皇暦(訳注:昔の中国の暦)の正月に、師範学校はサインを交わした契約に違反して店を閉め、私たちを追い出しました。夫は北京に行き大法の無実を訴えたために不当に連行されて留置場に拘禁され、次女は親戚の家に送られました。私と長女は窮地に追い詰められ、行くところがありませんでした。長女は私に「お母さん、今晩私たちは道路で寝るの? 明日から学校だけど、どうすればいいの?」と聞きました。私は心の中で「どうしたらいいのか?」と自問しました。
真っ暗な夜中、布団と子供の学用品を乗せた自転車を押し、子供と共に吹雪の中を師範学校を出て街に向けて歩き出しました。道は滑り、空は冷たく、長女が「どこへ行くの」と尋ねたので、「前に向かって歩くのよ」と言いました。しかし「どこに行くのか?」と思いました。この時、子供の顔に積もっていた雪が涙で溶けだし、涙が流れ落ちるのを見て、私の心はつらくなりました。この時、私は心の中で「関という関は全て闖えるべし いたる処すべて是魔 百の苦一斉に降る 其の如何に活くかを看る 世上の苦に堪え得れば 世を出ずれば是仏陀」[1]という師父の詩を暗唱しました。県庁所在地に通じる大きい橋のたもとまで歩いて来た時、1人の同修に会い、私の情況を知ると、私たちを家に迎えてくれました。
次の日、私たちが迫害されたために病気になってしまった義母の世話をするために家に帰ると、義母は自分で点滴注射を打っていました。しかし、家に帰って間もなく、町の人がまた私を町の警察署へ送り、私は3日3晩、パイプ椅子に座らされました。警官たちは私に5カ所も手錠をかけ、パイプ椅子の足につなぎ、背中で両手に手錠をかけました。私たち家族5人は迫害され、ばらばらになってしまいました。
師範学校が私に家を貸してくれなかったので、南関村に引っ越しましたが、南関警察は私の子供を尾行して私の住まいをつきとめると、大家さんに圧力をかけて私に部屋を貸さないようにしようとしましたが、私があらかじめ暫定居住証を申請済みだったので、警官たちのいやがらせは尻切れトンボに終わりました。しかし、警官たちは私の家への妨害を緩めようとせず、いつも夜中の3時に来ていやがらせをしました。そしてあまり経たないうちに、私は再び留置場に不当に連行されたので、絶食して抗議し、9日間拘禁されてからやっと家に帰りました。
三、魔窟のような町役場で九死に一生を得る
2000年7月9日、午後4時ごろ、町の政法委員会が30人を連れて家に押しかけ、私と夫を町の家族計画委員会の職員住宅まで不当に連行しました。政法委員たちは私の頭を持ち上げ、ある者は私の腕を持ち上げ、ある者は足を持ち上げ、私を持ち上げるとトラックの荷台から麻袋を投げるように地面に放り投げ、それから2人の人間が私の腕を抱え、1人が私の頭を持ち上げて地面を引きずりました(夫も同じ対応を受けました)。私と夫のかかとは引きずられて肉がめくれ、鮮血が流れ続けました。この時、空はもう暗くなってきており、政法委員たちは私たちをパイプ椅子に座らせ、背中で両手に手錠をかけ、私たちの足を平行に伸ばし、足の下に煉瓦を置き、足の上には水がいっぱいになったたらいを置き、それから足と首を縄でつなぎ、頭が上がらないようにすると、頭はほとんど足の上のたらいの水につきそうでした。しばらくすると、たらいの中の水を私たちの頭に掛け、そして足の上のたらいに水を満たしました。
夜になって、政法委員たちは私を建物の中に引きずり入れ、私を地面に座らせ、足を伸ばさせ、両手を平行に上に挙げさせると、5、6人が私を殴り始めました。2時間近くの間、政法委員たちは狂ったように私を乱暴に殴り続け、ある者は私の靴底で私の顔をひっぱたき、ある者はほうきで殴り、ある者はナイロンの縄を折り曲げて私をひっぱたき、ある者は革靴を履いて激しく蹴り、ある者は私の足を踏んでひねり、私の両足は紫色になってしまいました。終わりのほうになってくると、痛みは感じず、痒く感じ、麻痺のような感覚で、さらに眠気に襲われると感覚を失ってしまい、政法委員たちがいつ殴るのを止めたのか、まったくわかりませんでした。
酷暑の盛夏の真っただ中の昼間に、日がかんかんに照っている中、太陽にさらっしぱなしにされました。その日、政法委員たちは庭の小さなニレの木を引き抜き、樹皮をはぎ、私の髪をつかんで後ろに引っ張り、私の顔を上に向けると、ニレの木の枝で私の顔を叩き、夫の顔もたたかれて形が変わってしまい、顔全体が紫黒色になり、目が腫れて1本の線だけになってしまいました。この2、3日で、私と夫の服は全てぼろぼろになり、夫の服に肩の血がこびりついてしまい、脱げなくなってしまいました。
ある同修の夫が同修に会いに来て、夫と私が拷問を受けてひどい状態になっているのを見て、泣きながら家に帰り自分の息子の服を持ってきて私の夫を着替えさせ、着替える時にまず服を水で濡らし、血で堅く体にこびりついてしまったボロボロの服を夫の身体から引きはがしました。私の靴はいつとられてしまったのかわからず、私はずっと裸足でいました。同修の夫は私のために靴を買ってくれました。この時のことを思い出すたびに、私はいつも感動で涙があふれ、あのような恐怖の環境下で、私の夫を助ける勇気を持っていた同修の家族に感謝しました。
その後、同修は私に水を飲ませようとしましたが、私の口はすでに腫れて開けることができませんでした。同修は小さいスプーンを探して来て、一口ずつ飲ませようとしましたが、まったく呑み込めず、水は口元から流れ出てしまいました。この状況を見て同修は涙を流し続け、「もしかして、修煉しない、と言ってしまったの?」と言いました。私は首を横に振り、「叩き殺されても、修煉しない、などと言うわけにはいかない」と思いました。
政法委員たちは次の日の晩また殴りに来て、拷問によってがむしゃらに私に修煉を放棄させようとしましたが、私は固い決意を持って、最後まで修煉しようと覚悟を決めました。今回、中国共産党の手下たちは合わせて5回、私を拷問しました。トイレに行った時、ある人が私の背中を見て「背中全体が黒紫色になっている」と言いました。足の何カ所かも紫黒色になっていました。上から下りて来るたびに、政法委員たちは私たちを別の場所に移しました。というのも、私たちを殴っている様子を他の人に見られるのを恐れていたからでした。私と夫は同時に拷問を受け、私たちはパイプ椅子に手錠で繋がれ、お互いの距離は3メートルと離れていませんでした。ある時、夫は私に「あなたの顔は殴られて変形している」と言いました。そこで私も「あなたの顔も腫れ上がって原形をとどめていない」と言いました。
私たちを屈服させるために、夜になって政法委員たちは私たちをブタ小屋に拘禁し、両手は背中で手錠をはめられたままパイプ椅子に座らされました。たくさんの蚊が顔にむらがってきました。政法委員たちは「修煉しない、と言わないなら、ここで蚊のえさになってしまうぞ」と言いました。手を動かすことができないので、蚊を追い払うことができず、全身蚊に刺され、蚊に刺された跡がつながって一つになってしまいました。
数日後、県公安局で法輪功の迫害を受け持っている副局長の呂✕✕がやってきて、法輪功の修煉を諦めるという態度を明らかにするよう私に求めてきました。私が副局長に、大法のすばらしさと、師父と大法は間違っていない、ことを話した結果、再び拷問に遭いました。今回、私は殴られて大便をズボンの中に失禁してしまいました。副局長たちは私の様子を見て喜び、「こんなに大きな大人がズボンの中に漏らしてしまうなんて、恥ずかしくないのか」と言いました。
今回の迫害は20日以上続きました。最後に、政法委員たちは強盗のように、私たちを車に押し込み、家に帰らせるにあたって1万元払うよう夫に強要し、それは「罰金」ということでした。
妹、妹の夫、母親も政法委員たちに捕まり殴られて罰金を取られ、妹は殴られて気絶したので、水をかけられたことを、家に帰ってから知りました。
四、親孝行したい時に親はすでにいない
2001年皇暦11月7日、県の「610弁公室」主任の劉✕✕と県公安局副局長の呂✕✕がまた私を不当に連行して洗脳班に入れました。数人の邪悟者を連れて来て私を囲み、邪に悟った理論で説得したり脅したりしましたが、私は邪悟者の言ったことに全く影響されませんでした。呂は、私が「修煉しない」ことに同意しさえすればすぐに家に帰すが転向しなければすぐに労働教養所に送る、と言いました。当然私は「転向」しなかったので、3年の労働教養処分を言い渡されました。
私には上は80に近いおばあさんから、下は2人の十数歳の娘がおり、私が不当に労働教養処分を受けた後、家の中は半分倒れかけていました。私が労働教養所に行ってしまった後、夫は2人の子供を連れて店を開けに行かねばならず、夫だけでは本当に話にならず、最後には身内の助けを借りてやっと生活を維持していました。
義母はいつも大通りに座って私を待ち、会う人ごとに「おらの娟(訳注:義母の孫の名前)のお母さんは帰ってきますよね?」と尋ねて私が戻って来るのをひたすら待ち望んでいました。そしてついに家に帰れる日がやって来て、夫と2人の娘が労働教養所に私を迎えに来ました。労働教養所に来る途中、家から電話がかかって来て「義母がなくなった」ということでした。夫はすぐに帰りました(「610弁公室」の人間も一緒でした)。2人の子供が労働教養所で私を迎えにきて家に向かっていた時、私と義母はすでに陰陽の別れをはたしていたのでした。
義母のいなくなってしまった部屋を見て、この何年かのことを思い出し、私が迫害を受けたために、義母の家族は不安におののき、精神的な拷問を受け、私が戻って来る情景をひたすら待ち望んでいたことを想い、3年の労働教養でも私は一滴の涙も流しませんでしたが、このときは涙がとめどなく流れ落ちました。私が親孝行しなければならない時に、義母は大きな期待と心配事を抱えながら逝ってしまったのでした。
五、劫難を舐め尽くし、金剛不動になる
2007年7月4日、私が店で仕事をしていると、県公安局から何人かがやって来て、そのまま労働教養所へ私を不当に連行しました。「どうして私を労働教養処分にするんですか」と、県公安局の人間たちに聞くと、その中の1人が「来年はオリンピックが開かれるので、早めにおまえたちを捕まえておけば安心だからだ」と言いました。
この2回目に不当に労働教養所に拘禁された2年余りの時間に、私はさらに過酷な迫害を受けました。ある時はトイレに10日間立たされ、ある時は9日間立たされました。労働教養所の警官は麻薬依存者を使って非人道的な拷問を行いました。私が転向しないと麻薬依存者も眠らせてもらえないので、かれらは大法弟子に敵対的な態度を持っており、ある時はご飯をわざとトイレに捨てて私に食べさせなかったり、2人1組になって昼と夜交代で監視して、私を眠らせませんでした。長時間眠れないために、時には立ったまま寝てしまい、頭が壁にぶつかり、1、2分して麻薬依存者たちが気が付くと、ひとしきり殴ったり蹴ったりしました。麻薬依存者たちはボールペンで私の頭を突き刺したので、頭から血が流れ出しました。両足の甲は麻薬依存者たちに蹴られて青紫になり、立ったまま気絶し、2本の前歯がぐらぐらになってしまいました。長時間立たされていたために、足から腰まで腫れ上がり、ズボンは脱げなくなり、内臓全体が痛くなりました。
寒い冬には、麻薬依存者たちはいつも私の頭の上から水をかけ、窓を開けて私を凍えさせ、服の外側は凍りついてしまいました。その時は9日間立たされ、私は本当に立っていられず、トイレの床に座り込んでしまい、麻薬依存者たちがどんなに引っ張っても起き上がれなかったので、麻薬依存者たちは床に水をまき、私は水の上に7日間座らされました。1カ月間、服を脱ぐことを許されず、ズボンを脱いだ時には、防寒靴の中は水浸しで、足全体が真っ白になっていました。
時には、「もう耐えられない、この肉体を放棄しよう」と思いましたが、すぐに「このように考えるのは間違っている、これは私が本当に思ったことではない。私は師父に付いて家に帰らなければならず、生きて労働教養所を出られるかどうかは関係なく、師父がいらっしゃれば、私はこの俗世間での大法弟子なのだ」と気づきました。極限に達した時はいつも、心の中で繰り返し「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[2]と暗唱しました。
さらにある時、私に思想道徳を養わせるための授業を受けさせようとしましたが、私は協力せず、麻薬依存者たちは事務所のドアの後ろに私を連れて行って立たせ、私が服従しなかったので、最後にドアの後ろに私を押さえつけてしゃがませ、靴を投げ捨てました。麻薬依存者たちは「修煉しない、と言わなければ、顔を洗わせない」と言いました。私は「2年間、顔を洗えなくても、修煉しない、と言いません」と言いました。こうして、私は72日間、事務所のドアの後ろで過ごすことになりました。この72日間、私は一度も手と顔を洗えず、髪は汚れて精神病患者のようになっていました。その後、警官は麻薬依存者たちに指示したので、私は食事も水も与えられませんでした。
麻薬依存者たちがどのように私を扱おうと、私は麻薬依存者たちに慈悲深く接し、機会があればかれらに真相を伝え、生活上でできるだけかれらを助けました。ある麻薬依存者に対して、私は真相を伝え、さらに60元の金券をあげ、布団を洗うとき、その麻薬依存者は自分で洗うことができなかったので、私が手伝ってあげました。私がその麻薬依存者に対して良くしてあげたことをよく覚えており、隊長と受刑者が作業場へ行ってしまうと、その麻薬依存者はこっそりと私に水を飲ませてくれました。最後の何日かは、麻薬依存者がずっと私を見ており、水を絶たれましたが、「たとえどんなことがあろうと、決して協力しない」と思いました。最後に、警官たちは私を見て、だめだ、と思い、責任を負わされることを恐れ、私に食事と水を与え始めました。28日間、私は尿しか出ず、便は1回も出ないで、体は痩せて骨と皮ばかりになってしまいました。1日24時間の間に、1回しかトイレに行かせてもらえず、毎晩12時に数メートル離れた場所まで小便桶を提げていくのですが、私は自分1人で歩いてたどり着けず、壁に寄りかかりながらゆっくりと進んでいきました。
私のしっかりとした意思と大法に対する正念と信念は、私に対して押し付けられた旧勢力の試練を否定し、警官と私を監視していた受刑者の敵対と拷問は敬服に変わり、私が労働教養所を出るまで、隊長は私に、修煉しない、と書けとか、「保証」を書けとかいうことは言いませんでした。
2年がたちましたが、私は何も書こうとしない、という理由で刑期を1カ月延ばされました。この2年と1カ月の間に、私は一度も身内と会うことはありませんでした。家族は何度も私に会いに来ましたが、私が転向しなかったために会わせてもらえませんでした。
九死に一生を得た魔難を経験しましたが、修煉する意思と大法に対する正念と信念は少しも揺らぐことはありませんでした。それは正に大法弟子が創作した歌『獄中歌』「生命の重さは山のようで、大法の大きさは天を超える。真善忍が心に存在していれば 修煉の志はさらに強くなる。今生で幸運にも法を得たので 師父に付いて家へ帰る」を歌っているかのようでした。
労働教養所を出てから、私はすぐに三つのことを行うことに集中しました。前後5年の労働教養により、旧勢力が衆生を救い済度することを私にさせなかった時間はあまりにも長すぎたので、頑張ってその分を取り戻さなければなりませんでした。
ありがとうございます、師父!
ありがとうございます、同修の皆さん!
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「苦其心志」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正念正行」
(明慧ネット第12回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)