メディアを利用して真相を伝える修煉体験
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 【明慧日本2016年3月19日】

 ご尊敬申し上げます師父こんにちは!同修の皆さんこんにちは!

 皆さんにメディアを利用して真相を伝えることに携わった修煉体験を以下の通り語りたいと思います。2003年に学員たちが「大紀元時報」を創立してから、私はメディアは真相を伝えるのに力強い法器であり、法を正すために生まれたことに気づきました。天象の変化の下に、弟子たちは行動しなければなりません。そして私がメディアを用いて法を正す修煉の道を歩み始めたのは、大紀元の記者になったことがきっかけでもあります。

一、大紀元の記者になり、広く善縁を結び、真相を伝える

 新聞はまだ創立したばかりで、大部分の紙面は外部から提供された内容で支えられていました。一番必要なのは地元の新聞記事でした。私の任務はできるだけ地元の社団、社区の新聞記事をより多く提供し、より多くの華僑が興味を持って大紀元を見ることでした。

 常人の新聞記事に無関心だった私は、記者になるために、外界の事に無関心でいることの習慣を改めました。無理やり政治、経済、文化、教育などの英文や中国語の新聞を見ました。記者になるためには、必ず全方位の社会的知識を把握し、そして一定の英語能力を持たなければなりませんでした。このチャレンジは実に難しかったのでした。

 たくさんの資料を調べなければならなかったために、記者の仕事は本当に時間と労力を費やす仕事だと感じられました。ある時は外で1日仕事をして、夜は徹夜して、ようやく100字くらいの記事が1つ出来上がりました。このため、別の項目で真相を伝えたほうがマシだと思いました。しかし、もしひとつのメディアの内容がすべて法輪功の真相のみが記載されていたら、見る人はいなかったでしょう。

 「いいものは緑葉で飾らないといけない」

 メディアは読者が喜んで見ることができれば、初めて発展することが可能です。読者が喜んで新聞を見たくなるためには、必ずに人々の生活に接して、常人が関心を持っている生活上無くてはならないものを報道しなければなりません。私は喜んでこの緑葉になって、真相という花を引き立てるのだと決心しました。

 記者になる過程で、私は様々の社会の領域の人物と接触しました。三流の政府の議員もいれば、大企業の社長もいました。常に社会の主流と華人社区の各社団と触れることで、記者という身分は真相を伝えるために、これ以上なく便利だと気づきました。記者は「王冠のない王」で、社会のなかで、特殊な地位でした。平時学員たちが接触することが難しい階層の人物まで会うことができ、インタビューを通して縁を結び、ひいては友達になることも可能でした。その時に、ごく自然に真相を伝えました。これらの人は社会でかなり影響力を持つ人たちで、もし真相がわかれば、彼らの交流範囲で真相を伝えることもあったでしょう。

 台湾の社区と接触し始めた時、台湾の社団は本当に法輪功を理解している人が少ないことに気づきました。「自分たちは政治的意識を持っている」と思っている人が多くいました。「九評共産党」が発表されて、私は新聞を持って幾つかの台湾社団の責任者に訪問しましたが、彼らはただお茶を濁すような態度で接しました。私は失望せず、彼らの活動を報道し続けました。活動後は彼らにメールで新聞のリンクを送って、次回のインタビューの機会があれば、その期の新聞を残しておいて彼らに送りました。徐々に、彼らは大紀元新聞を見るようになりました。共産党に対する認識もだんだんと明確になりました。彼らと親しくなってから「自分は修煉のおかげで心身に受益し、なぜ共産党は迫害を行うのか」などを告げ、彼らもよく理解してくれました。その後、社団のリーダーたちは、私を彼らの各種の宴会に招待してくれました。これらの機会は真相を伝える上でいい場所になりました。この間バンクーバーの学員は集団学法する場所が見つからなくて困っていましたが、ある牧師でもある社団のリーダーは、例外的に教会の鍵を私に渡してくれ「私はあなたを信じていますので、いつでも私の教会で会議を開けますよ」と言いました。もう一人の社団の人はキリスト教会の神父でした。ある日用事があって 訪門しましたら、礼拝の時に「中国共産党がどのように法輪功学習者を迫害しているのか」を述べている様子を見ました。そして彼は全員と受難していた法輪功学習者のために祈りました。

 こうして、学びながらの過程で徐々に自分なりの道を開きました。

 「善縁を広く結び、真相を伝える」

二、新唐人に加入して、3つのメディアを組み合わせ、法を正す道を拓

 2004年の夏、全世界各地の大法弟子は続々とニューヨーク・マンハッタンの「酷い刑罰展」に携わりました。私も行き、そこで半年が過ぎました。バンクーバーに帰って、新唐人バンクーバーの記者になってから結構経ったとき、協調人が私をテレビ新聞に誘ってきました。私はその時「3つのメデイアとも記者の問題に直面していて、しかし新唐人は唯一3つのメディアを組み合わせできるメディアなので、これはひょっとしたらいいことかも知れない」と思いました。

 けれども、言うのは簡単だが、行動するのは困難であることが分かりました。テレビニュースは紙面新聞とは違い、カメラマンと協力しないといけないし、原稿を書くときは動画に合っているのかを配慮しないといけないし、音声と画面が流暢であるかも考慮しないといけません。私にはこの新しい領域で学ばなければいけないことがまだまだたくさんあって、それはたくさん時間が費やされることを意味していました。仕事量も前より増えて、更に毎回英語の分からない同修と一緒に編集を完了してから家に帰りました。普段は徹夜し、次の日はまた仕事に行かなければなりませんでした。ある時期は自分が限界になってもう持続できないと感じられ、仕事中立ったままで眠てしまう状態にまで至りました。毎回この状態が来ると私は師父の法の「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[転法輪(第9講)]を暗唱しました。「専門家が新聞を作るのではないから、一般人より多くの努力を費やさなけば、新聞はうまく行かない」と思いました。

三、新唐人総部に加盟し、難関を突破

 修煉にとって1つの問題点を乗り超えることができましたが、次の難がやってきました。2001年末のある日、ニューヨーク新唐人の人事部のマネージャーから電話があり、ニューヨークで全職記者になるよう誘われました。2008年の初旬にニューヨークで有線テレビが設置されてから、毎日必ず当地の社区のニュースを放送してこそ観衆を増やし、初めて経営の採算がとれる事ができました。けれども、ニューヨークに行くなら前職の仕事を放棄しなければなりませんでした。熟知しているバンクーバーから離れて、全く知らない都市に行き、すべてを初めからやらなければならないと考えて、固く断りました。にもかかわらず、2週間後、そのマネージャーからまた電話が来て、再びニューヨークへと誘われました。今回は「何事も偶然ではない。もしかしたらニューヨークで修煉の道を歩むべきであるかもしれない」と思いました。

 私の前におかれているのは簡単ではない難関であることは知っていました。しかし修煉の人は困難であることを知って退くことはできないので、私は前職の仕事を辞してニューヨークに来ました。でも、1日目は私に仕事の威厳を示しました。新唐人新聞部の責任者は、私達記者に毎日時間通りに1か2条くらいのニュースを出す命令を下しました。全く新聞を編集したことのない私は、1日目は記憶を頼りに(以前に同修が編集する過程を見たことがあるので)、少しつづ新聞を書き始めました。1日目の夜は、全社員がテレビの前に集まり、新唐人の初日の報道の番組をわくわくして見ました、みんなは新聞組の努力を認め、全員拍手をしてくれました。私にもすごく大きな励みをくれました。

 1日目は無事にやり過ごしましたが、その日以後の毎日は難関を乗り越えるため、体の具合が悪くなりそうでした。条件が厳しい下宿での適応、知人もなければ土地にも不案内である困難、1人で独学で撮影を勉強し、インタビューし、毎日三脚やカメラを担いで、地下鉄か徒歩で記事の現地まで行き、インタビューをしていました。広報活動の任務を担っているため、多くの新聞の場合は一番遅く離れるメディアでもありました。帰ってまた自力で原稿を書いて、吹き替え、編集を時間通りに完成させなければなりませんので、毎日戦場で働いているのと同様でした。

 ニューヨークについたばかりなので、まず当地の事情によく通じることが大事でした。毎日、大量の資料と主流メディアと中国語新聞を見て、新聞ができたらテレビ局で宿題をやらないといけませんでした。はじめの3カ月間は、ほとんど毎日夜明けになって下宿に戻りました。ニューヨークでは、新聞を作るスピードが早くて、てんてこ舞いの忙しさでした。疲れた時は本当に休みたかったのですが、私は「この一つ一つの難関は見た目には難しいが、大法が私をこの位置に置いたのは必ず理由がある。私はきっと自分の道を拓くのだ。特にこんな時こそ、学法は怠けてはいけない時期である」とわかっていました。わたしを難関から救えるのは法だけでした。師父は「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」の中で「ですから、法の勉強はやはり最も重要で、最も重要なことであり、あなたが行おうとするすべての根本的な保障なのです。法の勉強がついてくることができなければ、すべておしまいなのです」と言われていました。

  私は毎日家に帰ったらすぐ法を暗唱するようにしました。1日中忙しくて頭のた中は新聞のことばかり考えていた私は、法を写し暗唱するなどして思想を専念させるようにしました。次の日は同修と約束して一緒に練功して「転法輪」を一講を読みました。こうして4カ月間を経て、ようやく突破し、障害なく独立して報道することができるようになりました。

  新唐人が設立されてから2年目、当地の有線テレビは、はじめの毎晩1時間から1日24時間まで拡張しました。3年目にはニューヨーク地域で直接新唐人の番組を受信する定期購読者はなんと70万人を超えました。この時はある若い同修が新聞組に加盟して、カメラマンも兼務していました。はじめのうちは喜んで彼に手取り足取りして教えました。しかし、彼が熟練してから、私にあれこれとあら捜しをはじめるとは予想しませんでした。一緒に仕事をすることにともなって、いつも衝突していました。

  ある新聞会で、撮影のことで私はそのカメラマンと衝突しました。私は「専門ではない」と言って、器械を置きっぱなしにして去りました。その時はすごく腹をたてていました。従来はカメラマンが記者に歩調をあわせるのに、逆だったのでした。2人とも怒りながらテレビ局に戻りましたので、人事部のマネージャーも私たちにトラブルにあったことがわかり「あなた達がこうして作った新聞が人を済度することができると思っているのか!」と言いました。この一言は私に気づきかせてくれました。私は常に常人の理に浸っていて、常人メディアが要求していた「カメラマンは記者に従うこと」という掟を用いて他の人に要求して、同修の理不尽さに愚痴をこぼしたりしていました。新聞も他の項目と同じで、其の中で修煉しなければなりません。しかし私は内に向けて探すことを忘れていました。このことから自分にはまだ他人から言われたらダメな心が残っていました。また師父が要求されたのは、両方が協力し合って、はじめて人が済度されることができたのです。どの角度から言っても、できていたとは言えませんでした。しっかり反省した結果、表面では新人に対して納得できず、実際は他人を許さず、嫉妬心があることに気付きました。嫉妬心は一層づつ重なっていて、一層が取り除かれてもまた一層が存在していたので、絶えずなくすべきでした。

 師父は「大法弟子とは何か」の中で「私は再三に、良くできた部分を皆さんは見ることができず、その部分はすでに非常に良くなり、基準に達したと言っています。基準に達した部分はどういう状況でしょうか? 神の基準です。良くできていない部分は表面に進めば進むほど、ますます悪くなりますが、彼の修煉はすでに良くできています」と言われました。法と対照し、考量してみると、同修には、頑張り屋で,苦しみやつらさを堪え忍ぶなどいいところがたくさんありました。師父はいつも「他人のことの思いやる」ことを要求されていましたのに、私は彼が幼い頃に親がそばにいなくてできた癖に同情しませんでした。それからは私達の関係が緩和して、コンビネーションも良くなりました。

  新聞のような業務で一番難しいのは継続でした。時間が長く経つと、每日手順を踏んでいくただの仕事になるかねませんでした。時々はマイナスの考えも湧き出てきました。しかし私は師父が見守ってくださっていると感じられました。幾つかの例をあげましょう。アメリカで金融危機がはじまったばかりの時、私が1人でワルツの街頭でインタビューを行なっていたところ、本当に難しいと思いました。ニューヨークの証券取引所からでてきた人々は全員元気がなく、インタビューを受けてくれる人がいなかったのでした。たくさんの人から断れた後、私も失望してしまいました。今日はなぜこんなに運がないのかと思いました。しかし、しばらくしてこちらへ何人かの華人がやって来ました。どう見ても旅行者でした。ある人がマイクのマークを指さして「ほら見て、また新唐人だ。ここでも新唐人が見れるんだ!」と言いました。私は師父が常人の口を借りて私を励ましていることが分かりました。しばらくして、ある経済人が証券取引所から出てきて、私のインタビューを受けてくれました。もう1つは、30分かけて地下鉄とバスを乗り換えて植物園にインタビューに行きました。降りてから重いカメラや三脚などの荷物を持ちながら歩かなければなりませんでした。心のなかでは協調人に対する不満がますます増えてきました。撮影を終え、インタビューも終わった後、カメラの三脚を整えて、自分が映るようにしたところ、一人の華人女性がやって来ました。彼女は「あらま、熱心ですね。どこのテレビ局ですか」と聞きました。私が新唐人と答えると、彼女は「毎日新唐人を見ています。今夜も番組を見る予定です」と告げました。私はこれもまた師父が励ましてくださったと分かりました。バンクーバーに帰って神韻を報道をしていた時に、ニューヨーク空港で検査をうけていると、1人の華僑スタッフが来て「あなたは新唐人の記者ですよね」と聞きました。私が「あなたはなぜわかりましたか」と聞くと、彼は「いつもあなた達のテレビ番組を見ています」と答えました。

  ニューヨークでの3年半は、1つの単語で表すと「苦しい」でした。でも楽しい時もありました。9つのコンクールの報道に参加し、伝統文化を復興する巨大な影響力を検証し、アメリアやカナダなどの都市で神韻の報道やニューヨーク・フラッシング事件の報道などにも携わりました。これらの機会はいずれも貴重だと思いました。法を正すという戦場で自分の力を尽くせることは、実に幸運だと思いました。

四、多言語テレビ局を設立し、協調することを学ぶ

  去年夏、ある機縁で、私はトロントの新唐人の新聞部にやってきました。3月28日に、新唐人多言語チャンネルがカナダ西部の4つの省に設置されました。私は「トロントまで来るなんて、もしかしたらもう1つの段取りかも知れない。多言語チャンネルは新唐人が全世界制覇の最も需要な部分であり、よくやったらより多いの主流の人たちを済度できるかもしれない」と悟りました。師父は「新唐人テレビ討論会での説法」の中で多言語放送があればそれはもちろん良いことです。しかも、テレビ局が本当に着実に常人社会に立脚することができ、良性循環を実現し、ますます発展することができれば、それこそ良いことです。多言語放送をするだけでなく、どの民族の言語ももらさずに放送することができれば、それこそ素晴らしいことです。なぜなら、皆さんはすべての世の人々を対象にしており、救い済度しようとしているからです。」と言われました。

  しかしトロントの新聞部は私にとってまた新しい環境であり、ニューヨークと全く違いました。ニューヨーク総部では、1人ひとりが一手に引き受けるように要求していましたが、トロントでは、おそらくこの体制で調和ができなかった試練があったのかも知れませんでした。トロント新聞部の同修たちはみな1つの共通点がありました。個人の技術が一定の程度に達していませんでしたが、みんなは一丸となって協力していました。ここでは全体が力を合わせていることが感じられました。

  けれども編集の責任者になるためには、やはり一つの困難がありました。というのは今まで記者の仕事しかしてなくて、毎日自分の範囲内の仕事を完成すれば大丈夫でした。編集責任者は2、30条の記事を受け持ち、全紙を見渡すのでした。私にとって更に勉強が必要な領域でもありました。毎晩資料を調べ、主流新聞をたくさん見て、記事の手がかりを見つけるなどをしました。多言語新聞が加わってからすぐに仕事が多くなりました。総部との話し合いはもちろん、バンクーバーの記者たちとの話し合いもしなければなりませんでしたので、会議も多くなりました。毎日、時間が足りなくて、1人で学法する時も集中できず、他のことを考えてしまいました。私は局の古い同修が毎日学法会を開いてくれたことに感謝しました。私に一心不乱で学法できる環境をくれたのでした。

  新聞部の同修たちが一緒に学法と発正念をする時は、みんなの集中力がますます増えていくのが感じられました。この協力で、新聞部で人手が足りない状況でも、3月末以来、順調に英・仏・中・広東語の4つの言語で制作し、放送した奇跡を作りました。

  国語新聞のある責任者は、文句も言わず放送の責任を担いました。7日間24時間テレビの番組を制作するために、毎日睡眠時間が少なく、自動車の運転や他の番組の編集、資料整理などの仕事も担っていました。もう1人の責任者は英語新聞の編集の担当になって、朝の6時過ぎにテレビ局に来て、学法をしました。夜中の1時がすぎたら家に帰りました。他の国語新聞の同僚たちは2名の人手が足りない状況で、毎晩の中国語新聞と広東語の2つの新聞制作を担っていました。しかも1組は重要な記事があれば、昼に外に出てインタビューをしないといけませんでした。1人の70歳の同修が自ら夜の3つの言語の収録を引き受けていました。広東語の吹き替え組の同修は、仕事が終わってすぐ吹き替えを始めて、終わったら希望の声の番組にも携わないといけませんでした。多くの人は負担する仕事の量が超えましたが、愚痴や文句などは聞かれませんでした。

  みんなと歩調をあわせることで、自分の欠点も見つかりました。多言語の新聞は4カ月間運営していたため、携わる人員たちは前よりたくさん増えていました。あと少しの細かい部分は相談する必要がありましたが、過程は必ずしも完璧ではありませんでした。しかし、みんなが協力し合う必要がある時なのに、時々休みを取ったり、ある時は来なくなってしまった人がいました。心が揺れる時もありました。不安、疑い、愚痴などの心が全部出てきました。休みを取った同修の修煉状態が良くないと疑い、彼らの行動が他の同修に迷惑を与え、更なるストレスになるかもしれないと心配しました。毎回休みを取る時はちょうど法会の期間でした。全員が自主的にあいた穴を補って、アナウンスの補欠になるか、新聞の編集を多くやるなど、みんなが自覚して余分な仕事をやりました。ひと言の不平も言いませんでした。私はこれを見て本当に恥ずかしく思いました。協調人は莫大な包容心があるべきなのに、同修のことを思いやるのが不足していました。同修が休みを取るのはきっと原因がある、同修のことに関心を持ち、彼らの難所を理解すべきでした。1人ひとりの状況や能力に沿って仕事を分布するべきでした。

  それから休みを取る同修がいたら、まず自分の状態を調整しながら心を揺らさないようにしました。気持ちを落ち着けて冷静な態度で何の原因かを確かめて、同修に対して冷静に正念で見ると、徐々に昔の感覚が無くなりました。同修たちは全力で協力していると思うようになりました。師父は「表に現している現象はすべて心から思ったのである。大法弟子の心が落ち着いていなければ、周りの環境も変化させます。あなたが恐れているとき、衆生もおかしくなることに気づきます。あなたが清々しい気持ちで、胸襟が広くなり、明るくなったとき、周りの環境も変化すると分かります。真相を伝え、法を実証する中で、皆さんが行なっている事が困難に遭ったとき、自分を調整してみて、正念を持って問題を考えれば、かなりの効果を得られるかもしれません。」[2009年ワシントンDC国際法会での説法]と言われました。

  私は毎日新聞組が集まってする学法や、週末集合して学法や交流する場を非常に大切にしています。私心を挟まないで誠意を示す交流は、自分も浄化され、難攻不落の体制になるための肝心な点でもあります。

  最後に師父の法の一部を引用して皆さんと互いに励ましあおうと思います。「望みがなければないほど、望みが目の前にある可能性が高いのです。つまらないと思えば思うほど、あなたの威徳を築いているかもしれません。皆さんが本当に協調を取ることができ、十分な正念を持ち、問題にぶつかったら内に向けて探し、修煉を始めたばかりのときのような情熱を持ってほしいと思います。」[大法弟子とはなにか]

  師父ありがとうございます

  皆さんありがとうございます

(2012年カナダ大法会)

 
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/17/320583.html)
 
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