明慧法会|昔は辛い「反革命分子」、今は輝く大法弟子!
■ 印刷版
 

 文/中国・黒竜江省の朝鮮族の大法弟子(本人が口述したものを同修が整理)

 【明慧日本2016年4月17日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は朝鮮族の中国人で、今年75歳です。法輪大法を修煉しているので、体がとても丈夫で、歩く時も風を起こすような勢いで、精神的にもやる気十分です。親戚や友人だけにとどまらず、街で出会う縁のある人はみな、私のことをとても若いというので、そういう時「法輪大法を修煉しているからです」と、その人たちに伝えます。

 1996年4月に修煉を始めてから20年近くになり、今回はじめて大陸の大法弟子のネット法会に参加しましたので、非常にうれしく思っています。

 26歳で「反革命分子」になる

 26歳の年に、ちょうど中国共産党が「文化大革命」を発動し、周囲にいた朝鮮族の中国人はみな「修正主義(訳注:マルクス主義の敵対者)・少数民族」のレッテルを貼られて抑圧され、私の家も「朝鮮修正主義」とされ、造反派(訳注:別名「文革派」)は「朝修」と呼んでいました。

 当時、家の壁には兄が北京士官大学で学んでいた時の写真が掛けてありました。兄が着ていたのは明らかに中国の軍服でしたが、造反派のリーダーたちは、兄が朝鮮軍隊のリーダーだと言い張り、軍隊の「隊長」だと言い、私もその妹で兄と連絡を取っているはずだと言って、私に「スパイ」や「反革命分子」のレッテルを貼りました。

 夫も逃れることができず、捕まって毎日めった打ちにされ、いつも殴られて体中傷だらけになっていました。ある時、殴られて気絶すると、造反派たちは水をかけて目を覚まさせてから、また続けて殴打しました。

 1967年、3人目の男の子を生みましたが、生まれてすぐ「反革命野郎」として差別を受けることのないように、直接他の人に三男を預けました。他の子供は長男が5歳、次男が3歳でした。長男と次男も人に預け、自分は生きるのを止めようと思いました。しかし、人々はすでに長男と次男が「反革命分子」の子供であることを知っていて、誰も預かってくれなかったので、子供を連れて苦難の中、生活を続けて行かなければならませんでした。

 2人の子供も「反革命野郎」としてしょっちゅう罵られ、いつも殴られるので部屋に隠れて出てこようとせず、寒い冬には、次男はまだ幼児用のズボンをはいていたのに、夕方空が暗くなっても家に帰ってこようとはしませんでした。三男を生んで、まだひと月もたっていない時に、自分で水を汲みに行かなければなりませんでした。ある時、長男は心を痛め、私のためにこっそりと桶に水を汲みに行こうとしましたが、わずか5歳の子供なのでふらふらになりながら水を汲み、ズボンが水でびしょ濡れになり、家に着いた時には、ズボンは凍っていました。このような悲しい出来事は日常茶飯事でした。

 中国共産党の造反派たちはいつも家を捜索しに来て、「犯罪の証拠」となるものを探さなければならないと言って、カメラや発信機を探しました。しかし、家の中には造反派たちが見つけたいものなどあるはずもなく、造反派たちは、私の目の中にカメラがあり服のボタンに発信器が隠されていると言い出しました。その上、造反派たちはそんなくだらないことを言うのに飽き、あろうことか土で築いた暖房設備や暖房設備を兼ねている壁を、「発信器を探さなければならない」と言って壊しました。私たち親子3人は氷のように冷たくなってしまった部屋の中で、氷のように冷たくなったオンドル(訳注:土で築いた暖房設備)の上で眠り、それはそれは本当に寒く、心までも冷え冷えとした辛い日々を過ごしました。

 生活の苦難に加え、「文化大革命」の期間に受けた精神的苦痛が大きすぎたので、とうとう私は病気にかかってしまいました。腰椎の骨に3カ所、骨増殖が認められ、いつも痛くてたまらず、体をまっすぐにして立ったり座ったりができませんでした。さらに腰椎の痛みが神経を圧迫し、足が上げられなくなり、歩くのも不便になってしまいました。

 一日中むかむかしているためにひどい神経衰弱になり、一晩中眠れず、あの辛い気持ちにはまったく難儀し、そしてこの病気は何年も私を苦しめ続けました。しかしこれはまだいいほうで、そのうち胃の中に堅いできものができ、食事をするとしゃっくりが出て胃が痛くなり、非常に苦しみの多いい日々でした。出産直後に体を冷やしたため腎臓を悪くし、体全体がひどくむくみ、みんなは私を「太っちょ」と呼びました。一日中薬を煎じ、何年も漢方薬を飲みましたが一向に好転しませんでした。いつもぼんやりしていて気分が悪く、さらに貧血や低血圧などの病気にかかりました。

 病気にさいなまれ、長年体がだるい状態が続き、顔色がろうのように黄色い状態が続きました。これらの病気以外に、深刻な咽頭炎にかかり、話ができないほどひどく、さらに他人の質問に答える時には、いつも手真似を使わなければなりませんでした。地元に医術が優れている医師がいて、治療してもらい、たくさんの民間の処方薬を調合してくれましたが、半年治療してもまったく治りませんでした。その後、その医師は私を診なくなり、北京の大病院へ行って検査し、はっきりとした診断をしてもらうように勧め、かかっているのは咽頭炎ではなく、きっと何かよくない病気だ、とその医師は言いました。しかし、北京へ行くお金がなかったので、こらえるしかありませんでした。

 大法を学び心を勇猛にして修業に励む

 「三十年前に黄河の東にあった村が、三十年後は黄河の西になる」とよく言われます。私自身の経験からこれは嘘ではないと検証できます。「反革命分子」のレッテルを貼られてから、30年後の私の運命に非常に大きな変化が起こりました。

 1996年3月、その年、私は56歳で、すでに定年退職していました。ある日、私は職場に退職年金をもらいに行きました。すると、法輪功を学べば病気が治る、と法輪功を学んでいる同僚が教えてくれました。その時は、まったく信じていませんでしたが、1か月後、給料を受け取りに行くと、またその同僚に会い、再び法輪功を勧められました。その時、その同僚はとても薄着をしているのに少しも寒くなさそうな様子で、それに対して、私は分厚いダウンジャケットを着ていても、まだ寒さで震えが止まりませんでした。法輪功を学んでいるから身体がこんなに丈夫なんだ、とその同僚は言いました。私はこの事に心を動かされました。次の日、その同僚と一緒に煉功に行きました。

 修煉して1カ月経たないうちに体がつらくなくなり、前からあったすべての病気が気づかないうちに、いつの間にかなくなってしまうとは、思いもしませんでした。無病で全身が軽くなったことは言うまでもなく、歩く時も風を起こすような勢いで、気持ちも本当に形容のしようがないほど心地よくなりました。

 大法の素晴らしさをこの体で体験したので、自然と大法を確信しました。修煉して3か月後、私は精進し始めました。その時、ある同修が私より1年早く修煉を始めており、私は「他の人より遅れているのではないか?」と思い、追いつかなければなりませんでした! 計算してみると、同修たちはみなサラリーマンで、朝煉功し、夜学法をすることしかできません。それに対して、私はすでに退職して家におり、同修たちより時間に余裕があったので、毎日の煉功を倍に増やし、昼間も学法してなるだけ多く学法するように努めました。このように1年頑張れば、同修たちに追いつくことができると思い、そこで私は「行動」を起こすことにしました。

 煉功にいそしむ以外に、暗記した法を念じ始めました。一番先に暗唱したのは『論語』で、次が『精進要旨』で、1998年の夏までに、この2つの経文を全て暗記しました。その後、その他の師父の経文を暗記し、経文を暗記しながら孫の世話をし、というのも、孫が生まれてからすぐに、私がこの孫の世話をしたからでした。毎日、経文を書き写しては暗記し、歩きながら暗記し、バスに乗っている時に暗記し、食事を作っている時に暗記し、孫の世話をしている時も暗記しました。毎日このようにして、頑張って暗記しました。「師父の新経文が発表されたら、必ず暗記しなければならない」と、自分に要求しました。

 孫がまだ1歳の頃のことをまだ覚えているのですが、ある日、孫は床に座って遊んでいて、私はベッドに座って『轉法輪』を読んでいました。「昔、ある人がベッドに縛り付けられて、腕を持ち上げられ、血を流してやると脅かされました。それから彼に目隠しをして、腕にちょっと傷をつけて(実際は血が全然出ていない)、そして蛇口をひねり、水の滴る音を聞かせます」というところまで読んだ時、孫が突然振り向いて、幼くデリケートな口調でしたが大声で私に「彼は死んだの?」と聞いたのです。突然のことに驚き、孫を見ました。すると孫はとてもまじめな口調でもう一度「その人は死んだの?」と聞きました。ああ、孫はまだ幼いのでただ遊んでいるだけで大法を聞いても全くわからない、と思い込んでいました。ところが孫は『轉法輪』を聞いており、さらにそれが理解できるだなんて、誰にそんなことがわかるでしょうか。その後、孫が少し大きくなってから、孫と一緒に煉功するようになりました。

 孫が小学1年のある日、私がご飯を作っている時に、孫は『明慧週刊』を読んでいました。孫は『明慧週刊』を読みながら、突然走って来て私に問いただすように「おばあちゃん、人を救いに行く時に何で連れて行ってくれないの? ここに書いてあるけど、三つのことをやらないと円満成就できないって。今度人を救いに行く時は、一緒に連れて行ってよ!」と言い出しました。そこで、次に真相を伝える資料を配りに行く時に孫を連れて行きましたが、孫はとても素晴らしかったのです。さらにそれから孫も精進し始め、毎日暗記した法を念じ始めました。当然ですが、これで私はさらに怠けられなくなり、大法はこんなに素晴らしいのだから、修煉しないならともかく、修煉するのなら心を勇猛にして、修業に励まなければならないと強く思いました。

 大法の正義を勝ち取るために、北京へ陳情に行く

 1999年から中国共産党が抑圧を開始し、大法のために真相を伝えなければならないと思い、北京へ陳情に行きました。1999年と2000年に合わせて2回行きましたが願い通りにならず、不当に連行されて送り返されてしまいました。

 丸1年がたち、61歳の年にもう一度北京へ行きました。さらに5人の同修が行きたがっていることを知ったので、私たちは一緒に行く事を約束しました。私と同修が前日に切符を買い、すべての準備が整った時、電話がかかって来て「あなたは身分証明書がないから行ってはいけません。今は身分証明書の検査が特に厳しく、身分証明書がなければ行けません。私たちの地区ではすでに5人の同修が不当に連行されて送り返されました」と教えてくれました。私の身分証明書は2回目に北京へ行った時に警官に差し押さえられてしまったのですが、どうしたらいいでしょうか? しかし、それでも行かなければなりませんでした! 電車に乗る時身分証明書がないために乗れなかったら帰ろう。しかし、もし検査がなければ行こう、と決めました。そして、改札の時、身分証明書の検査は本当にありませんでした。

 こうして、2001年11月10日、私たち6人は電車で北京に向かいました。しかし、電車に乗るとすぐに身分証明書の検査が始まるとは思いもしませんでした。私たちが乗っている車両にも、隣の車両にいる乗務員の叫ぶ声が聞こえ、やかましく声を立てながら、乗客に身分証明書を出すように言っていました。私たち6人が買ったのは寝台券で、同修に正念を発してもらい、そして、目を閉じて横になり、心の中で正念を発しました。2人の鉄道警察官が目の前に立ち、その内の1人が私を小突いて身分証明書を提示するように言ったので、私は起き上がり声を荒げて「何で身分証明書が必要なんですか? 出かける時に身分証明書を持たなければいけないというのなら、もしなくしてしまった時はどうすればいいんですか? 身分証明書の番号を教えますから書き留めてください」と言いました。2人の鉄道警察官は数秒間私を見た後、番号を書きとめずに無言で行ってしまい、この関はこのようにして乗り越えました。

 私たちは北京駅に到着し、電車を降りた後、地下道を通らなければ駅を出ることはできません。地下道を進んでいくと、中はいたるところ警官だらけで、人を見れば服をつかんで身分証明書を調べていました。前後を見ると、一人一人みな服を引っ張られていたので、心の中で師父に「師父、警官らに私の服をつかませないようにしてください。私は外に出なければなりません」とお願いしました。結果、師父は本当に助けてくださり、順調に駅を出て行くことができました。

 駅を出ると、大通りの両側に警官がずらっと立っており、みな武装した警官たちでした。表情はみな冷酷で、全員銃剣付きの自動小銃を持っていて、長い隊列を組み、3歩ごと、5歩ごとに見張りが立ち、その様子からはものすごい殺気が感じられました! このような光景は、映画やテレビの中の光景でしか見たことがありません。

 天安門にはどう行くのかを通りがかりの人に、はっきりと教えてもらい、それから5人の同修に「みんな散らばって、私が前を歩くから、あなたたちは後から別れてついて来るように、そして、くれぐれも正念を発することを忘れないように!」と伝えました。そう言ってから先頭を歩き、時々振り返って、同修がついて来ているかどうかを確認しました。まるまる1時間歩いて、やっとのことで天安門に着きました。

 私たちは再び正念を発し、「法輪大法は素晴らしい」と叫ぶことを約束し、みんなその場から離れました。「警官は私が見えない! 警官たちは根が生えてしまったように動けなくなる!」と心の中で念じました。この念を発しながら、一人で人民大会堂の前まで来ると、そで口に隠してあった真相の横断幕を取り出して広げ、頭上に高く掲げた後、ありったけの力を出して「法輪大法は素晴らしい!」「法輪大法は正法です!」「私の師父は無実です!」と叫びました。この時、目の前にいた観光客や長年露店を出して観光客の写真を撮る商売をして、今では中国共産党の「監視する道具」になってしまった男性は、その瞬間、根が生えてしまったように動けなくなり、ただぼんやりと私を見ていました。その人たちの目に映っていたのは、60歳を過ぎているおばあさんが堂々と天安門に来て、自分の心の声を上げており、さらにそれは何と人を喜ばせる言葉だったのでしょうか!

 私は迅速に横断幕を畳むと、広場の前の大木の下に来て、横断幕をその大木と隣の木に貼りつけました。横断幕を貼り付けた後、近くに「三輪のバイク」と「バイクタクシー」が止まっているのが見えたので、すぐに運転手に北京駅へ連れて行ってもらうように伝えました。運転手は駅の切符売り場まで乗り付けてくれました。

 なんと切符売り場には、私一人しかいませんでした。出札係は、パソコンで席を探してから「1枚だけ寝台券が残っており、最もいい場所の中段の寝台です」と言いました。私はとても喜んで、家に帰るための切符を手に入れました。

 正に喜んだその瞬間に、厄介なことが起こるとは誰が思ったでしょうか。切符売り場から駅のホームへ行く間に厄介なことが起こりました。まず切符売り場の出口の所に進んでいくと通行禁止になっており、乗客を出させないようにしていました。切符売り場のそばにある小屋に行かなければならず、小屋の出口を通らなければ、出て行くことはできません。小屋の中には警官たちでいっぱいで、机の上には何台かのパソコンが置いてありました。すべての乗客が身分証明書を提示しなければならず、番号をパソコンに入力して検証し、警官が確認しなければ通ることはできませんでした。小屋の出口の所に2人の警官がいて繰り返し身分証明書を検査し、合格すれば切符売り場を出て行くことが許されました。その光景はまるでファシストのようでした。

 この情景を見てとても驚き、緊張しながらも先ず気持ちを調整し、自分を落ち着かせました。急いで後ろを向き、警官たちには誰も私が見えない! 警官たちはみな「根が生えてしまったように動けない!」と強い正念を発しました。そして、「私は出て行かなければなりません!」と師父にお願いしました。そして、並ばずに直接小屋の出口に向かい、体を斜めにして、2人の警官の間を抜けて切符売り場を出ました。切符売り場を出ると、また別の警官が通行人を呼びとめて身分証明書を検査していたので、体の向きを変えてホームへ向かいましたが、そこでもたくさんの警官が立っていて、身分証明書を調べていました。プラットホームに通じる入口では、2人の警官が横に並んで立っているのだけが見え、身分証を手に持って、乗客と写真とを照らし合わせていました。そこで正念を発しながら少し中腰になって、2人の警官の間を縫うように進んでいきました。そして電車に乗ってからは、無事に自分が住んでいる市の駅に着き、何事もなく家に帰りました。

 家に入ると、息子の嫁は長く息を吐き、驚いて「ああ、お母さん、どうやって帰って来たんですか!」と聞きました。嫁に聞いてわかったのですが、私が北京へ向かった後、地元の警官から電話があり、私が家にいるかどうか尋ねたそうで、警官の話によると、私たちの団地に住む法輪功修煉者が陳情しに北京へ行き捕まった(その同修は正に一緒に行った同修たちでした)ということで、警官は私が北京へ行った事を恐れていました。嫁は警官に「いいえ、母は村の人と一緒に宴会に行き、2日したら返ってきます」とはっきりと答えました。私が本当に帰って来たので、嫁は本当に村の人と宴会に行ったのだと思ったそうです。考えてみて面白いと思ったのは、「確かに、地元の同修と一緒に北京へ法を実証にしに行ったのであって、村の人と宴会に行ったのではありませんが、その2つの違いは、北京の方が場所的にみると少し遠かっただけではないか」ということです。

 こうして今回、北京へ陳情に行き、いたるところで足止めされましたが、間一髪で何事もなく戻ってきました。当時は中国共産党の法輪功への抑圧が最も狂ったように厳しい状況になっていた時期で、ほとんど逃げようにも逃げられない状況下で、身分証明書も持っていませんでしたが、意外にも天安門までたどり着いて心の声を言い表し、これが行えたのは自分の大法に対する正念と信念だけでなく、師父の慈悲なる加持を常に感じることができたからでした。数えてみると、その時から今日まで14年の間、私が北京へ陳情しに行った経験を、嫁はいまだに知りません。

 不当に拘禁される中、1カ月で34人を三退させる

 2002年4月、家にいた時に、地元の警官と「610弁公室」の人間が、理由なく家宅捜索し、私を不当に連行しました。その後、懲役1年の判決を受けました。法廷尋問されていた時、プリンターが何かをプリントしているのに気づきました。そして「これは私の前に不当に法定尋問された同修の尋問の内容がプリントされているのではないか」と思いました。そこで「プリントできない、プリンターは壊れてしまう」と正念を発すると、結果、1分も経たないうちにプリンターは壊れました。私が不当に法定尋問された時、そのプリンターは壊れたままで、プリントできませんでした。

 2006年、私が66歳のある日、同修に『轉法輪』を渡しに行くと、結果、そこで見張っていた警官に不当に連行されました。市の留置場に連行され、1カ月間拘禁されました。その1カ月間に34人を「三退」させました。私がいた監房には16、7人を入れることができ、誰か一人を三退させると、その人が出て行きました。続いて、他の人が入れられてきたので、今度はその人を三退させました。

 1カ月の刑期が過ぎましたが、修煉を放棄しなかったので、1年間の労働教養を科され、黒竜江省の労働教養所へ送られました。労働教養所に入るとまず身体検査が行われました。血圧を測った時に「ここは私がいる場所ではない、私は1日だっていられない、すぐに帰らなければならない」と考えました。そこで急いで正念を発し、血圧を高め、さらに高め、最高点にまで高めました。するとしばらくして医者が「この人の血圧は高すぎるので、収監できない!」と言っているのが聞こえてきました。そして最後に、警官は無条件で私を家に帰すしかありませんでした。

 全力を尽くして三つのことを行う

 2000年からほとんど毎日真相シールを貼りに出かけ、真相資料やパンフレットや『明慧週報』を配りに出かけました。真相シールを貼る時は、明るい場所を選んで貼りました。その道を通る人が多かったので、よく見えるようにするためでした。

 2002年の旧正月に団地で真相シールを貼るための準備をしました。大晦日の日に、一人で千枚以上を貼り、昼間から夜まで貼り続けました。四つの団地に20棟近い建物があり、1棟残らず、「法輪大法は素晴らしい」と書かれたシールを貼りました。暖房用のパイプから大通りの電柱まで、シールを貼りました。

 私はいつも同修と農村へ真相を伝えに行き、毎回、たくさんの真相資料と垂れ幕を持って行き、多くの場合、綿入りの袋に入れて持って行きました。毛糸を使って垂れ幕と石を結び、それから垂れ幕を木の上に掛けました。私は何着かの新しい毛糸のズボン下を持っていましたが、それを全部ほどき、それらの毛糸を全て垂れ幕を結ぶために使いました。大通りのわきの木に垂れ幕を掛け、上からかける時は大して力を込めたつもりはないのですが、いつも大きな木のとがったこずえに引っかかり、垂れ幕を掛けることができました。そして風が吹き、目がくらむような「法轮大法好(法輪大法は素晴らしい)」の5文字が風にたなびくと、赤に、黄色に、ピンクに、緑に輝き、それはそれは本当にきれいでした。

 『共産党についての九つの論評』の本が出た後、箱に入れて家に運び、時には2箱を自分の所に運んでから配りました。いつもは夜6時の発正念を終えてから『共産党についての九つの論評』を配りに行きました。特性の物を入れることができるベストを着て、時には20冊を懐に、ある時には30冊を懐に入れて出かけました。近くの家に配り、その後は急いで家に戻りました。集団学法に遅れないように家に戻り、戻った時はいつも同修はまだ来ていませんでした。

 69歳の年に家に資料拠点を作りました。その年の神韻芸術団の公演DVDが出た後も、私たちの団地の同修は、みな見ることができなかったことをよく覚えています。そこでパソコンとDVDレコーダーを買い、使い方を学んで自分でDVDを作りました。その後、プリンターを買って来て、同修に提供するために真相資料をプリントしました。普段、紙類、DVD、DVDケース、ビニールの透明封筒などの消耗材を買う時は、自分で買いに行きました。そして、市場が家から離れていたので、タクシーに乗って行かなければなりませんでした。行って帰って来るのにタクシーに乗っている時間だけでも、2時間以上かかりました。物を買う時間を含めると、1回出かけるのに少なくとも3時間以上はかかりました。

 この数年、十数人の同修が必要とする真相資料を請け負いました。そのために、DVDレコーダーを3台と、パソコン2台を買いました。最初は、同修が必要なものをダウンロードし、それを私が責任を負ってプリントしました。その後、同修から明慧ネットの見方を教わり、自分でダウンロードするようになりました。毎週、100枚以上の神韻公演DVDを作り、50枚以上の真相DVDを作り、200枚以上の真相チラシをプリントし、100冊以上の真相のパンフレットをプリントして製本し、さらに100枚以上の真相シールをプリントしました。

 現在まで、この資料拠点は平穏に動き始めてから、6年になります。多忙ですが、疲れたり大変だと思ったことはありません。資料を作る以外に、いつも外に出て神韻公演DVDや真相資料を配りました。この何年かはずっとこのように行っています。

 ある時は近くの町まで行って正念を発し、大法修煉者を迫害している中国共産党の刑務所の近くまで行き、近距離から正念を発して洗脳班を解体しました。いつもその町で泊まり、1週間、正念を発してから帰りました。

 何年もの間、いつも自転車に乗って大法の仕事を行い、今年で75歳ですが、自転車で走ってもまだまだとても軽やかです。地元の市やこの団地内で全体で協力しなければならず、私を必要としているのならば、どこへでも自転車で走って行きます。近距離の範囲で正念を発して、中国共産党の邪悪を解体するために、地元の市の公安局、刑務所、洗脳班の近くなど、どこへでも出かけて行ったことがあります。大法の仕事で私が必要なのであれば、私はどこへでも行きます! 特に、大法を迫害している邪悪な場所であれば、なおさら行かなければならず、邪悪な場所であればあるほど行かなければならないのです。法輪功への迫害の真相を伝え、大法を実証したことにおいて、正念の威力が現れ、多くの出来事が私の目の前で起こりました。しかし、紙面に限りがありますので、ここで全部お話しすることができません。

 結び

 この文章を終わらせる時になり、19年来の修煉過程を振り返ってみて深く感慨を覚えました。大法を修煉する道のりで、60代だった私は何度も不当に連行され拘禁されましたが、いつもそばに師父がいらっしゃり、法がありましたのでまったく怖くありませんでした。大法を実証するうえで、私ができたことはほんの少しのことでしたが、それでもそれはすべて師父が行われ、実際は助けてくださっていたからできたものです。もし師父のご保護とご加持がなければ、私にいったい何ができたというのでしょうか?

 昔は、いやというほど屈辱を舐め辛かったあの「反革命分子」から、今は、生き生きと輝いている大法修煉者となり、しかも自分の神聖なる使命を忘れずに、晴れやかに堂々と行っています。その中には多くの不思議さもありました。それらはすべて偉大なる大法のこの上ない法力の現れで、何一つとして表せないものはありませんでした。

 そして、私が最も言いたかったことは「法輪大法のこの上ないご恩に感謝を申し上げ、私たちの最も偉大で尊敬する師父に感謝を申し上げたい!」ということです。       合掌

 (明慧ネット第12回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/7/318564.html )
 
関連文章