進むか退くかは一念による
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年4月15日】最近、歯が痛くなって、胃も痛く、ご飯が食べられず、睡眠もよく取れませんでした。それから膵臓も痛くなって、たいへん辛い毎日でした。しかし、どんなに痛くても、私は心を動ぜず、恐れず、家族を慰めました。夫に「私に何が起きても、心配する必要はありません。絶対大丈夫ですので、病院にも行きません」と伝えました。

 私は今年79歳になりました。2年前にも一度、病業の関を乗り越えましたので、今回も大丈夫だと思いました。体の痛みは体の浄化だと思って、相変わらず大法弟子の三つの事を行っていました。1人の病院を定年退職した同修が痩せた私を見て「膵炎は死ぬほど痛いから、同修たちに正念を発してくれるように呼びかけます」と言ってくれましたが、肝心なのは自分次第なので、私は同意しませんでした。ほかの同修もやはり「検査してみたほうがいいよ」と勧めてくれましたが、私は「検査して何をするのですか?」と聞きました。同修は「あなたは真に師父と大法を信じているのですね」と言ったので、私は「師父と大法を信じるというのはスローガンではありません」と言いました。

 魔難に直面した時、念を正しく保つことはとても大事だと分かっています。師父は「どんなことがあっても、正念を持ち、正しく行うことができれば、乗り越えられない関はありません」[1]と説かれました。私は師父と大法を固く信じて、我慢の限界に達した時でも、心が動じませんでした。ある日の夜、膵炎の痛みがさらにひどくなって、最後に全身が突然爆発したように振動しました。その一瞬に「そうだ、いくつのことをまだ家族に伝えていない」との一念が浮かびあがってきて、意識を失いました。数秒後、目が覚めると「絶対乗り越えられると信じるているのに、なぜ遺言を残そうとしたのか」と、すぐにその一念が正しくないと意識できました。それで、正念を強め、旧勢力を否定し、彼らの如何なる按排も認めず、師父のお迎えでなければ、絶対についていかないと意志を固めました。

 この一念が生じた途端、痛みが消えました。数日間、よく眠れず、食べられなかった私は、その夜ぐっすり眠りました。翌日ご飯が食べたくなって、それから飲食と睡眠が全部正常になりました。師父の助けで、私は再び関を乗り越えられました。

 魔難に遭遇するのは偶然ではないと思って、内に向けて探すと、苦を嘗めるのを恐れているのが見つかりました。私は古い学習者ですが、修煉してから煉功するのを恐れていました。動功を煉ると全身が汗まみれになって、とても疲れました。座禅も痛くて我慢できず、なかなか堅持できませんでした。それで、心性をよく修め「心を修める苦しみ」で煉功の痛みに代えようとしました。結局、痛みを恐れれば、痛みがやってきて、妨害を招いてしまいました。私もこのような自分に自信を失いました。ある日の夜、煉功の時間になりましたが、私はテレビに夢中でした。突然、テレビの画面が布に覆われたように、何も見えなくなって、数秒後また正常に戻りました。師父が私に催促していらっしゃると悟り、情けない自分を恥ずかしく思いました。それから煉功を堅持するように決心し、いくら痛くても頑張りました。少しずつ時間を延長していくうちに、変化がありました。以前は30分しか座禅できなかった私は、今では1時間座禅しても平気になって、煉功を恐れなくなりました。

 この魔難を通して、私は問題が起きた時、前へ進むかそれとも向上を諦め退くかは、魔難に対して生じる一念で決まると納得しました。そして、何より再三にわたって法を正す時間を延長してくださり、補う機会を与えてくださった師父に感謝いたします。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/9/326451.html )
 
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