嫉妬心と、「よくできていたい」という念の背後にある執着心を認識
■ 印刷版
 

文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2016年5月1日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 今年、私はもっと多くの時間を割いて、わが都市で行われた神韻公演のチケット販売に参加し、その間多くの心性を向上させる機会を経験しました。

 嫉妬心を認識

 数年来、スペインの同修たちが、バルセロナでの神韻公演を毎回満席にさせるほど、神韻の宣伝を成功させたことを聞くたびに、「彼らはすごいね。私たちも頑張らないと」と思い、自分には嫉妬心がないと考えていました。数日前、ある同修から「スペインの同修たちは、別の都市でも神韻公演を開こうとしましたが、同修間のトラブルによって失敗したようです」と聞き、私が真っ先に考えたのは、「彼らにもトラブルがあって、よくできない時があるんだ」でした。しかも内心では、「私たちはフランクフルトでは良く出来ていなくても、せめてもの公演を開く劇場がまだあるからいい」と思い、平然とした落ち着いた気持ちさえ感じました。その直後、この一念は正しくないと感じました。「私は何をしていますか? 他人の不幸を嘲笑っているのではありませんか? しかも自分の良く出来ていない部分の言い訳をしているのではないですか?」という思いがありました。 

 2日間ほど、私はこの良くない念の根源を探しました。大覚者が同じことを聞けばどう思うのでしょうか? 恐らくその地方の修煉者や衆生のために悔しく思い、彼らの更なる精進を願うに違いありません。

 しかし、私は他人の良くない部分を先にみて、しかも自分と対比させ、これは闘争心ではありませんか? 闘争心により嫉妬心が生まれました。私は彼らが成功したとき、「これぐらいは、大したことではない」とは言わなかったものの、彼らが失敗したとき、「彼らもそれほど、素晴らしくはないんだ」と思いました。

 師父は説法の中でこうおっしゃっています。「嫉妬心は中国ではきわめて強烈に現われており、すでに日常茶飯事になっていて、自分でもそれと感じられないほど強烈なものとなっています」[1]

 今回のことを通じて、私は自分に深く隠されている嫉妬心に気づき、これを取り除くことを決心しました。

 「よくできていたい」の背後にある執着心

 大法をよく実証し、さらに多くの衆生を救うことは、師父の私たちへの期待であり、私たち自身が実現したいことでもあります。しかし、私の「よくできていたい」という念は、百パーセント衆生を思う善の念に由来するものではなく、その背後には自分自身を思う雑念・執着心が混ざっていることに気づきました。

 数日前、同修と交流する際、私は「11月以後、大半の時間を神韻の宣伝に配分し、残りの少しの時間だけを真相を伝えるメディアのプロジェクトに割り当てました。しかし、どっちもよくできていないと感じていて、落ち着きません」と訴えました。

 その同修は時間の配分という具体的な話を何もせず、「もし執着がなく、思想も百パーセント法に則っていれば、何をしてても落ち着かない感覚を覚える筈がないと思う」と答えてくれました。彼女の話に賛同しつつも、自分の心性には、どこに問題があるのだろうかと考えました。

 内に向けて探し、「よく法を実証し、よくできていたい」という念頭の背後に、自分は真に無私無我であるかを自問しました。「よくできているね」と他人から褒められると喜びを感じる自分は、他人に認めてもらいたいがゆえに、つい自分に高すぎる要求を課し、できない時に挫折感を覚え、さらによくできるように望みます。この執着心を取り除かなければ、どうして師父から智慧を頂くことができるのでしょうか?

 これは「自我」に対する執着心を取り除く過程だと分かったとき、気持ちが軽やかになりました。

 返本帰真の修煉の機会を頂き、師父に感謝致します。助けて頂いた同修の皆さんにも感謝します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

(二零一六年ドイツ法会での交流発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/23/327024.html )
 
関連文章