文/海外の大法弟子
【明慧日本2016年4月18日】一部の同修は毎年の毎回の神韻公演を必ず鑑賞します。一部の同修は他の同修に神韻公演を見るよう強く勧め、まるで神韻公演を見なければ大法弟子にはなれないような感じでした。一部の同修は神韻公演の演目を法とみなし、この演目で何を悟り、あの演目で何を悟ったとか言っています。個人的には、大法弟子は神韻公演の鑑賞を学法、すなわち「三つのこと」の一つとして考えてはならないと思います。もちろん、特殊な個人の事情のある同修、または神韻を宣伝する第一線の営業にあたる同修は感性的認識を高め、神韻を広く推し進める販売能力を強めるために見るなら問題ないと思います。
根本的には、神韻は大法の資源であり、衆生を救うためにあります。私達は師父から宇宙の大法を伝授され、修煉を直に見守って頂いているので、神韻によって救い済度される必要はありませんが、縁のある常人たちが神韻を鑑賞することによって救い済度されることを切に待ち望んでいます。神韻会場の座席の一つ一つが師父によって衆生に按排されています。大法の資源は有限です。大法弟子が神韻を鑑賞すれば、主観的意思はともかく、客観的にみれば大法の資源を占有してしまうことになります。
一部の同修は、開演直前にチケットが残っていれば大法弟子が購入して見ても構わないと言っています。チケットが残るという事実はもう変えることができないので、この時に大法弟子がチケットを購入すれば間違いないでしょう? しかし、これは常人の理だと思います。修煉者は問題を逆に考えるべきです。なぜチケットが残ったのでしょうか? 背後になにか問題が存在しているかもしれません。たとえば、もしあなたが神韻を絶対にみたいという強い執着心を持っているならば、邪悪はこの隙に乗じ、縁のある常人を阻み、チケットを最終的にあなたに残したとしましょう。あなたの求めによって、衆生がチケットを手に入れることができなくなったなら、これは問題です。
神韻鑑賞は師父が要求されている三つのことではなく、修煉ではありません。また、神韻は師父自ら大法弟子を率いて行われているプロジェクトだからといって、法にはならないと思います。神韻鑑賞に熱中する同修の皆さん、神韻を必ず見ようとする心の背後に何があるのか、また、それが人心かどうか自問してみて下さい。
以上は個人的な認識で、次元に限りがありますので、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。