固定観念を修正し、絶えず執着を取り除く
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 【明慧日本2016年6月6日】観念は生まれてから後、現実の生活の中で形成したものであり、人が千年の輪廻の迷いの環境の中で形成した偽りの理屈です。一部の観念は今生で形成したもので、その中の一部は完全に人の脳の中に溶け込んで、習慣的な考え方になります。何かを考える時、思わずその習慣になった観念に従って考え、自分では気づきません。そして、この固定観念が法理に合っているかどうかを全然考えません。

 師父は何回も説法の中で「修煉の気持ちは最初から最後まで変わらず」[1]の法理を説かれました。そして、弟子に「時間を無駄しないように」と戒めておられます。修煉の中で、絶えず固まった観念を修正することは、私が最近の修煉過程で次第に悟った理です。例えば、三つのことをきちんと行うことについて、大法弟子は皆知っています。私も常に自分が師父の要求通りに行うように戒めています。しかし、このような時間を無駄にしないという考え方が、すでに固まってしまった観念に陥り、全然気づきませんでした。

 学法を例にすると、ある日わたしは学法中、ある境界の法理を悟った時、やっとこの理を悟ったと思って、この理だけが正しいと執着してしまい、自分がこの認識の枠に留まり、人為的に自分の向上を妨げていました。その後、いくら法を勉強しても、あまり向上することを感じなくなりました。実際の修煉中に、関を乗り越える時、その執着を認識して取り除くと、再び法を勉強して、新たな悟りが現れました。私は学法する時、思わず人の観念に陥っていると気付き、いつも努力して学法していますが、それは人間の努力であり、法に要求されている「心を勇猛にして修業に励む」のではないと思いました。

 私は今学法の過程で、何を悟っても、放下できます。その放下は常人の状態に陥るのではなく、継続的に敬虔に学法する状態を保ち、純粋な心で学法しています。多くの時、学法して何か悟ったと思った時、その悟りを抱いて、自分が偉いと思って、歓喜心や自分自身に執着する心などが出てきます。それに気づけなくなり、心が歪みますと、もっと多くの法理が開示されなくなります。

 学法の過程は、絶えず内に向かって探す過程です。学法の過程で自分の一思一念の根源はどこなのかと、内に向かって探す過程です。これは私個人の認識です。実際に、私たちはまだ修煉してできていない部分は、一思一念が人間の変異の観念から出てきて、人間の面が、正常な思想と認識して間違いと思わないのです。しかし、修煉の人は、法理で自分の一思一念を測っており、法理に合わなければ取り除きます。それは辛い修煉の過程でもあります。

 昔の修煉方法は、修煉者を常人の中に置くことをしませんでした。その修煉者は、自分の一思一念をコントロールできないため、次第に自分を常人と混同してしまいます。その修煉法は、修煉者を複雑な環境から解脱させることができません。修煉者が一思一念を生じて絶えずこれを貯め、普通の修煉方法では、このような良くない物質を消すことができません。人のいない山奥などに修煉者が集まって、思想より生じるよくない物質を生じないようにします。

 しかし、師父が伝えられた宇宙大法は無辺な威力があり、弟子が精進の心を持つと、全ての問題が解決できます。弟子が自分の執着に気づき、且つ大法の要求に従って修煉すれば、あっという間に、全てのよくない物質が消えてしまいます。特に正法時期、師父は弟子に発正念の強い法力を持つことを授けられました。大法弟子は発正念を通して、自分に生じたよくない物質を解体できます。肝心なのは、大法弟子は大法に照らして厳しく自分の一思一念を修正し、良くない物質を生じさせないように努力することです。この程度にまでたどり着くことは、なま易しいことではなく、学法する時、このような物質に気づいたら、すぐに取り除いていくことで、法の真の内涵が見えてきます。

 以前の生命の本質は私のためであり、この私は一層一層の空間を突き抜けています。人間の本質は名・利・情への執着です。ミクロ空間まで修煉すると、この執着ははっきりと感じないが、その一念を掴み、もっと深く掘り出すと、やはり名や利のためです。それは生命の奥深いところの私が果たしているのです。法を基本にして正すことは、私を取り除き、大法に同化し、本質を変える過程です。修煉は非常に厳粛であり、最後には全てを正し、本質まで変えることです。「修して執着を一つも漏らすこと無きを得れば」[2]圓満成就できます。

 注:
 [1]李洪志師父の著作『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』
 [2]李洪志師父の
執着を『洪吟迷いの中で修める

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/5/30/329356.html)
 
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