以下は農村の女性が迫害の元凶である江沢民を告訴する告訴状である
【明慧日本2016年11月5日】私は今年で38歳です。河北省保定市蠡県蠡吾鎮南関村に住んでいます。私の父・呉瑞祥は、以前は気性が荒く、毎日タバコを吸い、酒を飲み、ギャンブルをしていました。家庭はとても緊張しており、父を怒らせないために言葉をかけることもできず、意識的に避けていました。父自身も生活が楽しくないと思っていたようで、生活に対して自信を失っていました。
父は1996年から法輪功の修煉をはじめ、酒やタバコをすぐ止めました。話し方も穏やかになり、仕事にも身が入り、家庭が睦まじくなりました。我が家には3畝(せ)の畑があり、野菜の種まきから収穫、販売まで父1人でこなしていました。周りの人々は父がとても良い人間になったと話しています。父の変わりようを見た私たちは本当に内心から喜び、父が法輪功に出会ったことを素直に喜び、我が家はやっと幸せな日々を迎えることができました。
呉瑞祥さんの遺影
2001年1月7日、村の共産党書記・李永、村長・李得永昌、会計士・李洪如の3人が突然我が家に押し入り、父を強制的に連行して7日間拘留しました。7日間で与えられた食事は蒸しパンが1個、おかずは数口分だったのです。しかし、食事代として200元を請求されました。罰金の名目で金をゆすろうとしましたが、失敗に終わったためその後、度々家に来ては私生活を妨害されました。この時、元書記で村長代理の李文平(女性)も来ていました。
2012年4月23日夜8時前後、警官・韓金鎖は7、8人を引き連れて父が住む家に不法侵入しました。ドアを開けた父に対し、警官は「蠡県はあなた達を教育させることになった。2日で帰れる」と言い、有無を言わさず強制的に連行しました。続いて家宅捜査を行い、法輪功創始者の写真1枚と、法輪功書籍1冊、4、5枚のDVDが見つかりました。警官は見つかっていない真相資料とDVD47枚をリストに加え、母に捺印するよう強要しました。
彼らの野蛮な行為が80歳を過ぎた祖母や子供を驚かせました。その後、祖母はつじつまの合わない言葉をよく口にします。「お父さんは家に帰ったの? なんで帰ってこないの? 人を捕まえに来たの? また大勢の人が捕まえに来たの?」などなど。父の帰りを日夜待ち続け、精神的に大きな打撃を受けたため、数日後、父のことを心配しながら亡くなりました。母と家族は毎日涙にくれていました。未だにその時の苦しみから立ち直っておらず、この心を引き裂かれたような痛みを誰が理解できるでしょうか?
拷問のイメージ図
後に村の人に聞いた話によれば「病院に診察へ行ったとき、あなたのお父さんと多くの人が手かせや足かせをかけられたまま、強制的に身体検査をさせられていました」と話しました。村の人が「あなた達は何をしているのですか? 彼は良い人ですよ。なぜこのような刑具をかけているのですか?」と聞いたそうです。警官は「あなた達には関りのない問題だ、余計なことを言うな」と怒鳴ったそうです。このように23日の夜、父は公安局や610弁公室の警官ら10人によって強制的に連行されました。私たちが派出所に面会に行った時は、父が手かせや足かせ(イメージ図のように)をかけられていました。家族は警官に「どのような罪を犯して、このような重刑具をつけたのか?」と聞きました。警官らは答えられずに刑具を外しました。食欲のない父は私たちが持参した食べ物を周りの人に分け与え、私たちを心配しないよう慰めました。警官らが理屈の通らないことを言っていたので、私たちは午後、再び派出所に行きましたが、父はすでに移送されていました。どこに行ったのか教えることができないと言われました。そして食事代を払えと言われましたが、母は「主人はここで食事をしていません」と言ったにもかかわらず、「払わないと返すことができない」と、看守の李大力に言われ、無理やり100元を支払わされました。
母は父の釈放を求めて公安局を尋ねました。公安局の人は韓に尋ねなさいと言い、局長の王軍昌は「よく知らない。私が連行したわけではない。派出所に行きなさい」と言われ、母は泣きながら「あなたは連行しに来ていないかもしれません。しかしあなたの指図、あなたの命令がなければ、彼らは大胆にも人を連行しに来ますか? あなたは認めなくても、認めなければなりません。主人はギャンブルをやめ、酒とタバコもやめ、喧嘩もしなくなりました。村人に頼まれたことは断ることなく手伝っています。すべての家が彼の手助けを求めたことがあります。主人がいなくなれば畑仕事をする人がいなくなり、80歳を過ぎた母が彼の介護を必要としています。あなたが本当の話をしなければ、私は帰りません」と問い詰めました。局長の王は仕方がなく、テーブルの引き出しから、父に6カ月の労働教養を科するという判決書を渡した。この書類は本来ならば父を連行する際に、家族に渡すべき書類です。しかも彼らはなり振りかまわず、家族が知らないうちに、検察院と裁判所は結託し、法律を知っていながら法を犯し、善良な人を欺き、陳情の機会も与えず、秘密裏に裁判を進めていました。
1カ月が過ぎたころ、邯鄲労働教養所から電話があり、父に修煉を放棄させる「転向」の協力を求められ、協力しなければ父からの家族への電話、面会を禁止すると脅迫されました。母は慌てて「主人は良い人で、人との付き合いもよく、言葉数が少ないのです。私の家族に害を与えないでください。彼は村で有名な良い人です」と話しました。相手は「彼は何もしゃべらない、私たちの要求に協力してくれない。あなた達が説得できなければ」と電話を切りました。
電話を切られた後、数回かけ直しましたが取ってくれませんでした。私たちは慌てました。父が彼らに拷問されるのを心配していました。そして私と主人は教養所が指定した日に、現地に向かいました。何重もの検査を受け、携帯電話も取り上げられました。父に会うと目が赤く充血しており、薄い膜が目を覆っていたように見えました。顔が痩せ細り土色でした。父はいつものように慈悲に溢れ、精神が安定していました。私は耐えきれずに声を出して泣き崩れました。父に泣かないようにと言われ、母の面倒をしっかり見るように、心配しなくてもよいと言われました。私は小窓越しに父にお金を渡しましたが、こんなに要らないと数十元しか受け取りませんでした。私は父に無理やり300元を渡しました。父は「他の人たちが待っている。時間をとりすぎると、彼らが話す時間が無くなるからもう帰りなさい」と言いました。私は名残惜みながら父が立ち去るのを見ていました。父はいつも人のこと先に考え、機会をいつも人に譲っています。わずか数分でしたが、この一瞬の出来事を帰りの道中で思い出しては涙を流していました。大好きで尊い父よ、今でも生きていることをどれだけ望んでいるでしょうか。
その後、教養所から電話があり、その日のうちに父を迎えに来るように指示されました。母が大隊長に何故かと聞くと、父の肺に水が溜まり、体調がよくないと言われました。用事があって送ることができないので、家族が迎えに来るように言われました。担当者の李小民に交通費を出すと言われ、これで父は自由になれると思いました。
私たちは何も考えずに希望を持って邯鄲へ迎いました。道中で教養所から何度も電話があり「出発したのか? いつ到着するのか?」と聞かれました。彼らは何故私たちよりも急いでいるのか? と不思議に思っていました。到着した時にはもう日が暮れていたので旅館に一泊しました。教養所は「昨日着いていたのに、なぜ言わなかったのか。夜のうちに連れて帰ってほしかった」と言いました。私は父に会わせてくださいと求めましたが、身分を確認して、手続きの書類に記入し捺印してからだと言われました。書類には納得のいかない釈放の理由が書かれており「釈放後は煉功してはならない。肺の病気により、治療のため仮釈放し、治療費は自己負担とする」などと書かれていました。しかも書類には関係者のサインがありませんでした。
父は2人に抱えられて出てきました。衰弱して自力で歩くことができない父を見て、私たちは頭を抱えて泣き崩れました。父は何日も食事をしていないと言い、食べると吐き出していたそうです。教養所は帰宅したら病院でしっかりと検査をしなさいと言い、慌てて教養所の鉄門を閉めました。父は「迎えに来るべきではなかった。私はこのようになってしまい、帰っても何ができるのか?」と話しました。
帰りの道中、父に何か食べさせようとしましたが、おかゆを飲み込むのも難しく、のどがねばねばしており、水分しか飲めませんでした。時々吐き出し、顔の色は土色をしていました。父は迎えに来ることに賛成していなかったようで、迎えに来るべきではなかったと時々口にしていました。父は私たちが迎えに来ることを教養所から知らされていませんでした。父は帰るのを頑なに拒んでいましたが、最後に重病の所長からの電話で説得されました。父は荷物をまとめ、私が買っていった食べ物を、自分で食べようとせず、周りの人に分け与えました。父は「教養所の中に若者がいたが、家族が一度も面会に来ておらず、とても可哀そうだった」と話しました。父の言動はいつも真・善・忍を体現していました。
家に戻った父に、村の人々が見舞いに来てくれました。しかし父を強制連行した村の幹部と加担した者は来ませんでした。
父に「私が連行されたときに、服のポケットに386元が入っていたが、返してもらいましたか?」と聞かれ、母は「返すように求めましたが、数枚の札に『法輪大法は素晴らしい』と書いてあったので、返してもらえませんでした」と答えました。母は職員らに「このお金はあなた達が使いなさい。いい思いしたつもりかもしれませんが、人を陥れておいて良い報いがあるわけがない」と話したそうです。
父は教養所で非人道的な苦しみや侮辱を受けました。父は受けた迫害の状況を少しずつ思い出していきました。
父は邯鄲労働教養所第二大隊に収容されました。父の話によると最初は長時間の労働を強いられ、製造されたトイレットペーパや歯ブラシなどが市場で売られ、低賃金の人たちが買っていくそうです。教養所は転向率を100パーセントに達成させるため専門管理大隊を作り、転向する時期を定め、手段を問わず、転向率の100パーセントを達成させなければなりませんでした。そのため所長の張修平は、父を転向させるためにチンピラの高飛を雇いました。高は「軍隊は殺人のために存在する。教養所は人に暴力を振るうために存在する。転向に応じない人は教養所にあるあらゆる拷問器具を使わせてもらう。それでも転向に応じないというのか?」と言ったそうです。収容されていた他の人は「時々悲惨な声が聞こえ、とても陰湿で恐ろしく、拷問に連れて行かれた人に再び会うことはありませんでした」と話したそうです。
父は転向に応じず抵抗したため、専門管理大隊に移され、ここに移された人は重点的な迫害の対象となっています。悪辣な警官は父に対してあらゆる迫害手段をし尽くしました。24時間以上睡眠をさせない、上半身をまっすぐに伸ばして小さな長椅子に長時間しゃがませる、侮辱、罵り、恐怖を与え、強制的に洗脳を行うなどの手段を用いて父を転向させようとしました。
炎天下の中、長期にわたり風呂に入らせず、衣服を着替えさせず、家族との面会をさせませんでした。警官は火花が飛び散るスタンガンを持ち、父に強制的に過ちを悔い改める「始末書」を書かせようとしましたが、拒否されたため、今度は彼らが書いたものを父に無理やり捺印させようとしました。しかし父が拒否したため、気の狂った警官は、父を地面に押し倒して指を電撃したり、熱湯を入れたグラスを顔に押し付けたり、動くと暴力を振るわれ、偽経文を読み聞かせていました。
拷問のイメージ写真 灌食
父は断食で抗議しましたが、警官らは父を押さえつけ、太い管を使って灌食をしました。父は精神的に耐えきれなくなりました。警官らは父に毒を注射したり、押さえつけて不明な薬を強制的に飲ませていました。父は彼らに「私は病気がなく、修煉して十数年になりますが病気になったことはなく、薬を1錠も飲んだことがありません。あなた達はなぜ私に強制的に薬を飲まそうとしているのか?」と聞きました。彼らは何も答えませんでした。その後、父の体は衰弱していき、何も食べられなくなりました。カビが生えている蒸しパンを水に溶かしても、飲み込むのが難しかったそうです。
拷問のイメージ写真 毒薬注射
数日後、教養所は父を病院に連れて行き検査を受けさせました。検査の結果を知った担当者は顔色が変わり、慌てて父に「あなたは大丈夫だ、至って健康だ!」と話したそうです。そして父を迎えに来るよう私たちに連絡してきました。私は父の診断書を要求しましたが、一部しかないとの理由で渡してもらえませんでした。そして警官は「村の幹部が来ることになっているのになぜ来ていないのか?」とも聞きました。このように収容所と610弁公室は責任逃れのため、急いで父を釈放したのです。
2012年9月5日、私たちは家に戻りました。一緒に来た監視の話によると警官は「どのような人が治療のために仮釈放されるのか? それは大金を積む人、または五臓六腑が衰弱した人、教養所の中で死んでもらったら困るので家に帰すのだ。家に帰ったとしても数日しか生きらない」と話したそうです。さらに警官は「毎年数人の死刑囚を死なせる特権を与えられており、もう1人死なせることができる」とも話したそうです。
その後、教養所は二度にわたって父の容態を電話で確認してきました。私は「父に何をした? どんな毒薬を注射したのか? どんな毒薬だ?」と聞きました。彼らは何の返事もせずに電話を切りました。教養所から電話があったことを知った父は体が震えていました。父の怯えた様子から、父や学習者に行われた残酷な拷問の酷さを察しました。
私は教養所の人たちを憎んでいました。父は私に「実は彼らにも家庭があり子供もいる。ただ世を欺く虚言に毒害されている。彼らも善良な一面があり、上層部の圧力と指示で行っており、内心では恐怖を感じているはず。だから彼らを恨んだり、憎んだりしてはならない。私たちはそうなってはならない」と話してくれました。これが私の父です。自分の生命を惜しまず、江沢民が製作、監督した「天安門焼身自殺」を暴露しています。師父は『轉法輪』の中でこのように説法されています。「修煉者は決して殺生してはいけないのです」。『シドニー法会での説法』の中では「ですから自殺は罪なのです」と説かれています。
父は2013年月1月18日、冤罪を被ったまま迫害によってこの世を去りました。このように50歳代のとても健康で、善良な人が共産党に生命を奪われたのです。息を引き取った父は目が開いており、とても穏やかな表情をしていました。当日の夜、ガチョウの羽のような大きさの雪が降り続けました。そして遺体を火葬する日まで父の身体は硬直しませんでした。葬儀に参列した人々はこのことを奇跡だと言っていました。「佛法を修煉した人はやはり違います。修煉は無駄になっていません!」と村人は話していました。
葬儀に日には村人が皆来て下さり、皆が同じようなことを口にしました。「彼を見送りに来ない訳にはいかない。とても悔しかったはずだ! 天でさえ彼を見送っています」。ほかの村にも迫害によって殺害された人が多くいます。中には父と同じ症状で帰らされ、多額の治療費をつぎ込みましたが、最後にはやはり死亡したのです。棺桶の前で母は父の服をめくり「皆さん見てください、胸部からお腹までこんなに多くの赤色の斑点があります」と話しました。村人は「これは中毒の表れです。このような真面目な働き者が逝ってしまうとは」と嘆いていました。私は舞い落ちる雪を見ながら父に語りかけました。「お父さん、天が私たちのために無実を訴えています。今の世はどうなっているのでしょうか?」
父が強制連行された際、病院で受けた検査ではすべて健康的な状態でした。教養所に収容された際も、検査を受けましたが、やはりすべてが健康でした。しかし数カ月の拷問によって多くの苦痛を被っただけでなく、不明な注射や飲まされた薬によって、私たちを残して逝ってしまいました。
私の母方の祖母も同じような迫害を受けました。私の家族に限りない悲しみや、数えきれないほどの苦痛をもたらしました。私がこの告訴状を書こうとしたとき、夢の中で父が現れ、世間の人々を見ていました。父は、私が父の無実を晴らすことを知っていたようでした。尊敬に値する検察官、善良な人が多ければ多いほど良いことではありませんか? 父はかつて軍人でした。二等功績賞、三等功績賞などの、多くの勲章を授与されました。村の人が父を村の幹部に推薦した際、父は自分の学力が低いため、皆に迷惑をかけてはならないと思い、何度も断わりしました。お聞きしますが、このような名誉や権力、金銭に執着しない人が、江沢民の権力を欲しがるでしょうか?
父は生前に言っていました。「1人が煉功すれば家族の皆が恩恵を受けます」。まさに『轉法輪』に書いてある通り、私も恩恵を受けました。私は交通事故に遭い、車輪が指の上にのしかかりました。指が砕けるはずでしたが、私は無事でした。私は服に付いた土を叩いて、当事者を許しました。ある日、2歳になる子供がはしごに上り、軒先の高さまで上ったとき、突然落下しました。テレビにぶつかって子供の頭の上に倒れ、ブラウン管が粉々に割れていたのに、子供はかすり傷さえ負っていませんでした。また、主人と妹はスクーターに乗っていました。突然2台の車に挟まれ、スクーターが大破したにもかかわらず、2人は怪我をしていませんでした。他にも多くありますが、これ以上を挙げないことにします。
そして王立軍、薄熙来、周永康、徐才厚、李東生、蘇栄、万慶良・・・らが失脚し、彼らを待っているのは「善悪には報いがある」という天理で裁かれることです。2011年8月14日、河南省で車両が事故を起こし、3人の裁判官が死亡し、10人以上が負傷しました。遼寧省の裁判官・鄒東輝、鄂安福、柳曄走の3人は歩いている途中に急性脳性麻痺で突然死亡しました。南鄭県の公安局長・斉建文、眉県の公安局長・蘇良謀、黒竜江の公安局長・李大明らが惨死しました。さらに明慧ネットに多くの実例が報道されていますが、彼らは冷静に考えず、真相を知ろうとしませんでした。その結果、彼らの温かい家、可愛い子供や孫たちの和やかで温かい家庭を失ったのです。
そしてこれらすべての犯罪を江沢民が一手に指揮し、公安、検察、司法をコントロールして行われたのです。父を殺害した張本人は、610弁公室の張躍進賢と教養所の関係者らですが、それも江沢民の指示によるものです。江沢民は約1億の人々を迫害し、社会秩序を混乱に陥れ、経済を崩壊させ、道徳の急激な滑落をもたらし、司法を混乱や暗黒に導き、法輪功の創始者や学習者に濡れ衣を着せ、罪に陥れて人身を攻撃しており、これは16年間の大災難です。
私は2015年6月5日、この迫害の元凶である江沢民への「刑事告訴状」を提出しました。
最高検察院や裁判所が英明なる判断をされ、この案件を追って調査し、包公(身内の犯罪も法に基づいて裁いた人)が在世中のように、後人に称えられるような正義のある行動を願っています。私は涙ながらこの告訴状を書き上げました。私たちの正義のある呼びかけに耳を傾けてください。よろしくお願いします。