文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年12月1日】ある日、私は真相資料作りの準備に取り掛かろうと、あまり気が進まないままプリンターの横に座りました。心理状態がそんなに良くないので、私はプリンターの電源を入れず、座ったまま静かに考えました。「なぜ気が進まないだろうか? もうこれ以上したくなくなったのか? 何回も誰かが引き継いでほしいと考えた。しかし、周囲の同修たちの修煉状態を見てみると、本当に一言では言い尽くせない。ある同修はいまだに迫害の中にいる。ある同修は出獄してから修煉環境から離れた。ある同修はすでに長い間だらけていた。ある同修は自分の商売に忙しく、ある同修は高齢になっている。どうしようか? 私は堅持していかなければならない。何回も弱音を吐いたが、引き継ぎがいない状況の中で、私は退くことができず、今までの通りやるべきことをきちんとこなしていかなければならない」。そう思っているうちに、知らず知らず涙がこぼれました。
私は自問しました。「なぜ涙を流すのだろう? 悔しいと感じたからなのか? そうではない。修煉者は常人と比べることができないと知っている。それなら、苦しいと感じたのか? 少しあるが、もっともな原因は、自分の人間の一面がこの事に対して疲れを感じている。しかし、自分の命は師父から授かっていて、師父から終わったと告げられない限り、私はだらけてならず、放棄をしてはならず、引き続き頑張っていくべきだと心底から知っている」
そう思うと、涙がもっと流れてきました。そうです。大法弟子である私は師父のお話を聞き、どんな理由もいらず、多く道理を言う必要もなく、ひたすら師父のお話に従い、できるだけ三つのことをしっかりと行っていくべきです。
ここまで考えて、私は両手を合わせ、師父に続ける自信と強い意志の加持を願いました。
修煉は難しいことですが、17年間続いている迫害、寂寞の中で三つのことをきちんと、持続的に行うことはさらに難しいのです。当初の好奇心や新鮮味がなくなり、良くできたときの高揚感がなくなり、一時的な激情がなくなり、功名心がなくなり、残ったのはずっしりと重く感じる誓約を果たす責任だけです。それが私たちの世に下った願であり、今は思い出せないかもしれませんが、実質はそうです。ときどき自問しますが、私の忍耐力はもうこれで限界でしょうか? いずれにせよ、自分は大法によって造られた生命なので、大法の要求に従い、完璧にはできなくてもベストを尽くして、この貴重な時間を無駄にしてはならないと思います。
自分と同修たちが根気よく三つのことを持続して行っていけるよう、願いを込めて、これを書きだしました。