安逸に陥り、悔やみきれない
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2017年2月8日】私は三つのことを毎日実行しているものの十分ではありません。例えば、学法煉功発正念は毎回、予定通りに行うことができていません、甚だしきにいたっては、意識を冷静に保ち、集中することすらできません。真相を伝え、法を実証するプロジェクトに参加していますが、学法、煉功、発正念が足りなければ、どのようにベストコンディションで臨めるでしょうか?

 常に三つのことがよくできていないため、常人の中の良くない要素に妨害されました。長い間、自分は睡眠不足だと思い込み、暇さえあれば仮眠を取っていました。しかし、実際はもう十分な睡眠を取っていたのです。そして、目が覚めると、何もせずに、頭は3回の食事のことしか考えられませんでした。毎日、何もすることがないまま過ごしながら、時間が足りないと嘆息していました。明らかに、私自身の師と法に関する位置づけは根本から正さなければなりません。安逸を求める要素にしっかりと牽制され、私の法を得た一面が主導権を握ることができず、瞬く間に過ぎ去っていく所謂「安逸」の背後にある代価とは何かを、認識することができませんでした。

 数日前に、夢を見ました、その夢は今でもありありと目に浮かびます。私は家族と一緒に学法をしていました、全員が輪になって絨毯の上に座っていました、私は輪から少し離れたところにいました。突然私の左前から体格の大きな人が現れ、私に背を向けて私の前方に座りました。不思議なことに、その方の上半身は衣服を着けておらず、広い背中に新しい傷跡と古傷の跡が縦横に交わっていました。その時、心の中で、なぜこの方の上半身が衣服を纏っていないのかと疑問に思いました。それと同時に、胸が震えました、見知らぬその方のことがなぜかとても懐かしい感じがしました。胸に秘めていた千言万語が口から飛び出しそうになり、どこから話せばよいのかはわからない思いでした。

 私は驚きのあまり、自分の考えをまだ整理できないまま、その方は振り向きました。その方のお顔はほかでもなく、正にあの慈悲に満ちた師父のお顔でした。その方は師父だったのです! 師父は微笑みながら私に「あなたは相変わらず悠々自適で、以前と変わらないね」と話されました。師父の声が終わらないうちに、私はその場に倒れて号泣しました。悲しい気持ち、悔しい気持ち、無念な気持ち、自分の無力さに恥じ入る気持ち等々、万感の気持ちが自分の身と心に蔓延っていました。自分はまるで過ちを犯して、捕まった子供のように、床をのたうちながら「私は間違いました、私は間違いました、師父」と泣き叫びました。

 今、私はこの文章を書きながら、涙が溢れています。あの夢の中の光景は鮮明に目の前に映され、夢の中で、表面からミクロの身体まで、すべての粒子に浸透していた痛恨の感覚を依然として、感じ取ることができるのです。あの瞬時に過ぎ去る「安逸」の背後で、師父が私達の代わりに耐えられていたのです。師父の背中の新旧の傷跡がその証なのです。しかし、師父は私を責められませんでした、一つの譴責の言葉もなく、相変わらず、慈悲をもって接してくださいました。その師父の慈悲なお気持ちに私はどのように応えれば良いのでしょうか? その時、私にできることは、悔やみきれないほど号泣する他ありませんでした。

 夢から目が覚め、これは師父が再び私に下さった機会であり、改める機会であると分かりました。これほど貴重な時間は、師父がこの意気地なしの弟子の為に度重なる犠牲を払って得たものです。このような機会はますます減っていくはずです。安逸に浸り、こんなに無責任な自分はどのように師父の御恩に応えればよいのでしょうか?

 この夢を書き出した目的は、自分を奮い立たせて精進させるためですが、更に、もっと多くの私のような同修が奮起し、師父の偉大なる御恩を大切にする為でもあります。同修の皆さん、最後になればなるほど精進していきましょう。個人の認識と悟りにつき、不適切なところは慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/1/16/340944.html)
 
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