文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年2月22日】多くの同修が他人に面と向かって欠点や過ち、あるいは執着心を指摘されると、真っ先に出る反応はそれを排斥する姿、あるいはさまざまな口実や理由をもって自己を弁解し、指摘を押し返そうとする姿を、これまで嫌というほど見て来ました。本当に謙虚な気持ちで心穏やかに受け入れ、自分自身を見つめる人や、自分にはまだ人心や執着があること、あるいは自分の言動が正しくなかったことを認める人は、極々僅かでした。
なぜでしょうか? 過ちを認めれば、自分が他人より低くなったのでしょうか? それとも、よく修めていなかったがゆえに、他人よりも劣ってしまうことなのでしょうか? もちろん、メンツの心、虚栄心、自尊心など、心の傷を負って人に言われたくない心、指摘されたくない心の作用が働いていると思います。言われたくない心、指摘されたくない心はほとんどの人に見られ、しかも比較的強い人心の一つだといえます。その心があるがゆえに、たとえ自分が間違っていたとしても、人に言われることや指摘されることを許さず、言われても、指摘されても認めず、理由を探しては弁解します。あるいは、たとえ指摘を受け入れても心が穏やかにならず、気持ちが沈んで不機嫌になり、とうていそれが素直な受け入れ方、素直な過ちの認め方ではありません。
修煉者として、平然と自分の過ちを認め、言われたこと、指摘されたことを拒まず、素直に過ちを認めることが出来てこそ、まさに素晴らしいことだと思います。それがよく修めているということであり、心性が向上した表れであり、他人に劣っていることではまったくなく、よく修めていないということでもないと思います。
修煉者が素直に過ちを認めることが出来るのは、心性の向上だと思います。他の同修がそれを見ても絶対に話の種にすることはありえず、反対に、あなたが良く修めており、心性が高いと思うでしょう。それなら、なぜ一部の同修はずっと自分の誤った言動や人心のために狡猾に弁解し続けて、甚だしきに至っては嘘までついてしまうのでしょうか? それはその人の悟性が良いか悪いか、賢いか賢くないかの表れだと思います。心から、このような同修たちが真に自分の過ちを素直に認め、自分を正していくことが出来るように願っています。個人的な認識ですが、皆さんのご参考になれば幸いです。