「過ちを指摘されて喜ぶ」ことを起点とする
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年7月9日】「人が自分の過ちを指摘するのを聞いて喜ぶ」ことについては、孔子の弟子、子路(しろ)の典故があります。子路は人が自分の過ちを指摘したのを聞いて喜びました。これは一種の謙虚な態度と博大な度量でもあり、中国古代の人が身を修め聖人に達する境地です。私たちは大法の中で修煉し、その基準は常人の道徳の規準をはるかに超えていると思います。しかし同修達よ、自らに問うてください。私たちは「過ちを指摘されて喜ぶ」という、常人の中の良い人という最低限の基準に達していますか?

 実は私の観察によると、人が私たちの過ちを指摘したのを聞いて、私たちは喜ぶことなく、四つの良くない状態が現われています。

 一、過ちを指摘されて怒る。人が自分の過ちを指摘するのを聞いて、直ちに怒りがこみ上がります。さらに、言葉がきつくなったり、声も高くなります。自分の過ちを指摘する人を苦しい立場に立たせます。激しい怒りを心の中に抑えて、表に出さない人はまだ良いほうです。

 二、過ちを指摘されて言い訳する。人が自分の過ちを指摘するのを聞いて、相手の意見に反論することが良くなく、怒りを持って返事することも良くないと思っても、様々な言い訳をして反論します。自分はどうしてこのようなことをするのか、自分のほうが正しいと証明します。この点について、師父は説かれたことがあります。

 三、過ちを指摘されて落ち込む。人から自分の過ちを聞いたとき、法を正すプロジェクトを止めていまい、消極的になりました。このような状況は多くみられないのですが、たまにあります。

 四、過ちを指摘されて信用しない(白眼視、排斥)。自分の過ちを指摘する人を異分子とみなし、陰でその同修の悪口を広げていき、攻撃をかけて報復します。自分の過ちを指摘する人と付き合おうとせず、仲間外れにします。

 私も、人が自分の過ちを指摘するのを聞いて、怒ったり、言い訳をしたりしたことがあります。しかし、すぐに師父の法に基づいて修正しました。今、私は人が自分の過ちを指摘するのを聞くと嬉しく感じます。なので、私は人が自分の過ちを指摘するときに、師父は私のことを慈悲してください、私によく修煉させるために、他人の口を借りて教化してくださったことがわかりました。

 あるとき、ある同修は私に会いに来ました。私の過ちを指摘しましたが、当時それは私の身にある問題ではなく、しかもこの同修は私を苦しい立場に立たせたことがありました。それでも、私は同修に両手をあわせて合掌し、真心を込めて微笑みながら、彼に「今日は私のためにわざわざ来てくださり、本当に感謝します」と言いました。私の素直な気持ちで、同修は感動しました。同修の私に対する先入観も一瞬にして無くなったと、私は感じました。同修は私と本心をさらけ出して交流することができました。

 私の周りの多くの同修は、人に自分の過ちを指摘された時、本当に感謝して喜びの表情を見せています。

 ことわざを借りて、大法修煉者が時々刻々、内に向けて探すべきだという態度と、人心を取り除いた後の喜びについて書きました。師父の慈悲なるご加護に感謝いたします。適当でないところがあれば、慈悲にご指摘ください。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/2/12/287537.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/3/5/145697.html)
 
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