文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年6月17日】最近、『洪吟三』の「陰陽背反」を学なだとき、私はハッとして気づきました。私は正に、師父がおっしゃる「女人強剛たりて強豪ぶり、上調子、言酷薄たりて家の采配を振る」のような女性です。これらは私の変異した観念と行為ではありませんか? 私はそれらを正し、家の中では良い妻と母親になりたいです。
私は個性が強く、家では皆が私の言うとおりにしなければなりません。私のしでかした間違いについても夫に二言を言わせず、いつも彼を圧倒しています。修煉後、ある程度の譲歩をしたものの、やはり事の大小を問わず私が主権を握り、これは我が家の基準になったようです。
師父の詩辞『陰陽背反』を読んでから、私は主人に家の主導権を握らせようと試みました。最初、彼は口ごもって自分の考えを言う勇気がなく、私は彼の男児丈夫らしくなく、優柔不断なところを烈火のごとく叱責しました。師父はおっしゃいました。「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心取り去ること多し 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか。」(『洪吟三』「誰が是誰が非」)彼が強くなるのを望むのは間違いありませんが、しかし、彼に向って怒るのは魔性です。私は発正念し、その魔性を排除しました。
心を静めてから気づいたのですが、私には非常に強い一種の心があります。それは、「相手が必ず自分の望むようにならなければならず、そうでなければ我慢できない」という心です。私は早速発正念し、この心を取り除きました。振り返ってみれば、自分はこの人心に左右され、主人をいじめ、多くの人も私を敬遠してきました。修煉後、他人に優しく、そして寛容であるよう自分に要求してきて、周辺もある程度私の変化を認めていますが、しかし、やはりまだ心底からの真の善と真の忍ではありません。
師父は『轉法輪』の中でおっしゃいました。「これに対してこの宇宙の特性、真、善、忍の基準は、良い人悪い人を量る唯一の基準で、変わるようなものではありません。」(『轉法輪』)しかし、私は大多数の場合、利益の選択、他人の評価、利己的な角度から彼のやることの是と非を判断し、彼は学歴が低く、社会経歴が少なく、金を儲ける知恵がないと思い、自分の力に頼って生計を立てていると思っていました。これらの変異した観念に気づいたとき、私はびっくりしました。今まで、私は自分が金銭、地位などを重く見ていないと思っていました。しかし現実社会において、今の人々は学歴、頭脳、人脈、権利、利益ばかりを追及しているのではありませんか? これらの全てを、人を制覇、圧倒できる要素だと思っているのではありませんか? 私もいつの間にかこれらの観念に染められ、気づきもしませんでした。幸い師父が指摘して下さり、私は早速発正念し、それを排除しました。
徐々に、彼が強くなるにつれて、私は忘れ去られる対象になってしまいました。ある日の同友会で、皆が彼の有能さを称賛し、私のことに触れず、彼自身も意気揚々になりました。私は表では皆に合わせていきましたが、内心では穏やかではありませんでした。「私の工夫がなければ、今日のあなたはいません!」正に師父が仰ったように、「他人に良いことがあったら、その人のために喜ぶどころか、自分の心のバランスが取れなくなります。」(『轉法輪』) 帰宅してからも私は彼と話したくなく、彼が功労を独り占めしたと思いました。
嫉妬心、闘争心、怨む心が代わる代わるに出てきました。この家は以前無一文でした。今は工場も車もあって、全ては私の手によって得られました。私はベッドの上で寝返りを打ちつつ、鼾をかいてぐっすり眠る夫を見て、なおさら悔しく感じ、涙を流しました。「明日どこかの会社に就職して、そこで良い成績を上げ、彼に私の能力を見せる!」と思いました。
発正念のベルが鳴り、私はまだあれこれを考えていて、結印し、自分の考えを整理してから、ある程度の落ち着きを取り戻しました。うすうすと、私は自分が間違っていることに気づきました。発正念後、私は結印したまま、内に向けて探しました。私は嫉妬心、闘争心、顕示心、そして怨む心の罠に嵌っていました。これらの心があるから、私は悲しくなっていたのです。これらの心がなければ私に悲しくなる理由もありません。早速それらの人心を取り除き、その後私はぐっすり寝ました。
今は、家のことはほとんど主人が主導権を握り、私と比べ、彼の方が物事を用意周到に考え、お客さんからも多くの信頼を得ています。私は引き続き大法が求めている基準に向かって努力しています。