トラブルの中で内に向けて探す(二)
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 【明慧日本2014年6月1日】(前の文へ

 4、鋭い批判に直面して内に向けて探す

 翌日、私とEさんは田舎にある同修の家に行って、10数人程度の小型の交流会を行いました。Eさんは発言した時、意外にも突然私を指して、「昨晩、彼女に来るようにと頼んだが、最初、彼女は断った。今日来る途中、彼女はタクシーの運転手に真相を伝えようとして、運転手に聞いてもらえなかった」と話しました。全員の視線が私に集中してきて、私は顔が赤くなって、心がドキドキしました。名声を惜しむ心、面子を重んじる心が強く打たれたからです。その次にEさんは、昨日自分が一気に3人に「三退」してもらったことを話して、「純粋な心を持ってこそ、はじめて衆生を救えるのだ」と話しました。

 Eさんの突然の発言は自分に対する試練だと分かっていながら、私の心の底で「タクシーの中で、運転手にいくら言っても相手にされなかったのはあなたではないか! それを見て仕方がなく、あなたに手伝うつもりで私も真相を言い始めたのだ。それに昨晩、私はすでに自分の不足に気づいたので、今日は嫌々ここに来たのではなく、何をでたらめなことを言うのよ」とEさんに文句を言っていました。しかしすぐに、私は『洪吟三』「誰が是誰が非」の中の「正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」を思い出しました。そこで、私は心を静めて、自分の名に対する強い執着心を解体するように発正念しました。

 何回も発正念して、最後にその悪い物質を取り除いた後、自分の空間場がすっきり澄んだと感じました。再びEさんの顔を見ると、この上なく親しい感じがしました。実は、相手を気に入らない時は、ちょうど自分の内心の執着が膨張する時でもあるのではありませんか。突然、私はEさんの多くの長所を思い出しました。数年来、全体の向上のためにEさんは多くの努力を払っていました。例えば、迫害を逃れるために地方から当地区にやって来た同修を、Eさんは親切に自分の家に迎えて、生活の面倒を見ます。逮捕された同修の救援活動に、Eさんはいつも先頭に立って協調し奔走します。地方の同修たちが交流するために当地区に来る場合、いつもEさんに連絡して、彼女の家に泊まりますが、Eさんは面倒くさがったことが一度もありません。そして、Eさんの家族はみんな大法を支持して、大法弟子に優しくしています。それはEさんが努力して開いた環境ではないですか? 先ほど心にEさんに対して文句が浮かんだことを、私は恥ずかしく思いました。

5、地方の同修と交流する時、一念一念の中で自分を正す

 近隣の都市では、迫害の情勢がまだとてもひどくて、大半の同修は恐れて外に出て真相を伝えておらず、進んで真相を伝えているのは数人しかいません。その都市に行く前、私は心の中で師父に「師父よ、向こうに行ったら、私は清浄な心でそこの皆さんと交流して、常に内に向けて探せるように、私の正念をご加持ください。そして、そこの皆さんの心のしこりを解いて、これから向上してもらえるように、私に知恵を賜ってください」とつぶやきました。

 順調にそこに到着した後、現地の協調人と数人の同修と一晩交流しました。その中で、私は常に内に向けて自分を探して、どんな小さい一念でも捉えて自分を正しました。例えば、現地の皆さんが私の修煉状態が良いと言った時、顕示心が見つかりました。皆さんがとても親切で仲良くしてくれた時、歓喜心と情が見つかりました。皆さんがどうしても現地の特産物を私に贈ろうとした時、物や利益に対する貪欲さが見つかりました。皆さんが私に感心した時、他人を見下す傲慢な心が見つかりました。

 真相を伝えて衆生を救い済度することは修煉の一部ですが、修煉そのものに取って代わることはできません。内に向けて探して、着実に心性と境界を高めてこそ、はじめて大法に同化することができて、はじめて自分と関連している衆生と日ごろ接触している衆生を救うことができるのだと私は悟りました。大法の光を浴びて、私は心性と境界が向上した後の幸福と荘厳さを体得しました。

 私たちが日ごろ出会ったすべてのことは自分を高める機会であり、毎回の機会を捉えるかどうかによって修煉者の間でも差が出ています。大法に対する理解がいつまで経っても表面に留まるのは駄目で、法理を真に理解し悟らなければなりません。着実に修煉して絶えず自我を放下してこそ、はじめて大法の一粒子になったといえます。

 二、真相を伝える中で内に向けて探す

 ここでは、2つの例を挙げます。

 1、広東省にある取引先の会社の社員が我が社に来ました。私は彼に真相を伝えたいのですが、標準語もあまり喋れない彼と会話もできませんでした。まず彼に真相資料を一部渡せば良いかなと思ったのですが、次の一瞬、突然「広東省の人はほとんど事の是非を論じないので、彼は真相を受け入れられるか」との一念が私の頭に入りました。

 私はすぐさまその一念を掴んで、発正念してそれを解体しました。私は自分に対して「彼は私と縁があって、師父が救おうとする命でもある。今、彼は私の空間場の中に来たので、絶対に邪悪が彼を害することを許さず、私は必ず彼に真相を伝える」と言い聞かせました。そこで、私は正々堂々と彼に真相資料を渡しました。数日後の昼休みの時に彼はまた来ました。彼はまるで親友のように私と親しく多くの会話をし、私は感動しました。私は彼の変化を感じました。彼はきっと真相が分かったと思います。

 2、ある日、ある若者が我が社に来ました。私はずっと彼と会話する機会を掴んでおらず、諦めようと思いました。彼が表門の付近に行った時、今日が彼にとって唯一の機会かもしれないと私は突然思って、さっきの諦めたい考えをすぐ否定しました。そこで、私は彼に追い着いて、当時真相資料を持っていなかったため、私は簡潔に「三退」のことを話して、彼にネット封鎖を突破するソフトをあげました。彼はディスクを受け取って私に感謝しました。

 真相を伝える中で、さまざまな妨害が現れます。師父は『転法輪』で「その物質自体は作用をなさないもので、真に人を妨げるのはほかでもないその心なのです」とおっしゃいました。常に自分を正してこそ、はじめてもっと良い修煉状態を保てると思います。

 三、法理を踏まえて「内に向けて探す」ことを理解しよう

 「内に向けて探す」ことには、奥深い内包があると私は悟っています――1、自分の執着、人心と変異した観念を探し出す。2、本当の自分を見つけて、良くない念と自分を切り離して、進んで良くない念を消去する。3、修煉者の体には計り知れない衆生を収容しているため、彼らのいかなる歪んだ考えも修煉者の思想に反映される。そのため「内に向けて探す」ことはこれら衆生を正して救うことでもある。4、大法に相応しくないすべての要素を探し出して、大覚者の清浄さに達するように、修煉者として日々内に向けて探さなければならない。

 修煉者の生命は多くの空間と次元にもたくさん存在しており、彼らも長い歴史の中で変異しました。修煉者は内に向けて探して自分をしっかり修めないと、他空間にいる彼らは私たちの思想に入って私たちを妨害します。彼らがそのようにしたいわけではなく、変異した彼らはそのように存在しているからです。我々は自分をしっかり修めないと、彼らを正すこともできず、かえって彼らの妨害を受けざるを得ない境地に追い込まれます。

 内に向けて探すことは、大法に照らして、自分の大法に相応しくない部分を見つけ出して正すことです。今日まで修煉してきて、私はますます自分の不足を感じて、何かが起きるたびに、第一に浮かぶのはなんと自我を守るための私心です。私もこれがよく修められていない部分の現れであると知っています。私はそれらがすべて大法の中に浄化されると信じています。

 (完)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/2/17/287560.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/3/14/145837.html)
 
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