時々刻々、一思一念を正す
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文/中国の大法弟子 常未芳

明慧日本2014年7月20日】最近、私は「修煉の中で堅実に修めることは最も重要な部分」だとわかりました。私はある出来事を通し「もう何年も修煉をしているのに、どうして自分が何か物事を行うと駄目なのだろう?」と思いました。そして、自分は堅実に修めているか、それとも、うわべで修めているか反省してみました。私は法に基づいて自分を量っているのではなく、自分の修煉状態によっては、慈悲心もありませんでした。結果、自分の感情をコントロールすることを難しく感じています…。結果、うまくやろうとすればかえって失敗したり、小さなことで騒いだり、同修を傷つけてしまう事も起こりました。

 具体的に話しましょう。

 私と同修は、街に出て大法の真相を伝える時、別々に別れて真相を伝えています。ある時、私が真相を伝え終えたというのに、彼女は遅れて、まだ姿を見せなかったので、私は他人をこんなに長く待たせるなんて、彼女は何と非常識なのだと思い、イライラしていました。恨む心も出てきて、この不満を彼女にぶつけたいとも思いました。私は、このような事は修煉者の状態ではなく、かんしゃくを起こしてはいけない事は分かっていました。もちろん、このように魔性が作用を働くような事を承知してはいけません。私は直ちに発正念し、これらのものを解体し、自分を正しました。しばらくすると、私は落ち着きました。私は「どうして自分は積極的に彼女を探す事ができないのだろう? どうして彼女に文句を言うのだろう?」と考えました。そして、私は彼女を探す事にしました。しかし心の中は相変わらず不満でいっぱいです。ただ表面は涼しい顔をしていました。当時、私は、自分の気持ちをうまく調整できませんでした。私が彼女を見つけると、彼女は私が気分を害している事に気付き、何も言わないまま、家に帰りました。

 次の日の集団学法の後、彼女への恨みが再び出てきました。私はものすごく怒り、彼女のことを責めました。「あなたはどうして他人の時間を大切しないのですか? どうして私に協力してくれないのですか? あなたは、いつもわがままで、他人の気持ちをぜんぜん考えていません」。その時、私は本気で怒りました。彼女は微笑んで私に「心を動じさせないで下さい」と言いました。

 家に帰ってから私は考えました。確かに自分はこの様にしてはいけません。常人でさえ一人でいる時に、よく自分の過ちを考えます。そして他人と話す時に、他人の悪い事を話したりしません。まして修煉者であれば、なおさらの事です。内に向かって探して見ると、彼女は何の問題もありません。どうして自分はよくかんしゃくを起こすのでしょうか? このような状態でどうして無条件で同修と協調するといえるのでしょうか? これは長く修煉している弟子のあるべき姿でしょうか? 自分のいけないところを考えてみると、自分のせいで彼女が傷ついたので、私は彼女に謝らないといけません。そして彼女との隔たりをなくし、共に法に基づいて向上します。修煉の道に時々刻々自分を厳しく要求し、うかうかしてはいけません。真面目に物事を行い、しっかり修煉の道を歩むべきです。

 確実に修煉者の基準に達したいのならば、心を修めなければなりません、修煉の中に人心を消去しなければなりません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/6/19/293634.html)
 
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