厳しい批判に直面する時、心を正しく持つべき(二)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年12月23日】(前の文へ

 一、自分が「よく修煉できている」と思う部分は、ちょうど向上を必要とする要素がある

 私の性格は修煉する前から、比較的穏やかだったので、私と付き合う人は皆、私のこの長所を好んでいました。しかし、私を良く知る友人たちは、よく私の事を「外は丸いけれども、中は四角い」人だと言います。彼らから見た私は、性格は良いのですが、内心では自分の考えを固守しているのです。修煉してから、私はこの面をもっと重視して冷静さを保ち、常に穏やかでいられるように工夫していました。同修たちもこの面の努力を認めてくれました。不法に邪悪な労働教養所に監禁された時も、何人かの同修に「あなたは本当に性格がいい、監禁された同修の中には個性が強い人が多く、彼らはみんな反省していますが、あなたにはこの面の問題が無さそうですね」と言われました。

 残念なことに、修煉の中で同修の褒める言葉に対して自らを冷静に保ち、内に向かって修めるべきと私に分かっていました。しかし、法の基準で自分の「性格」を測るべきと認識できなかったため、自分がこの面での行いはよくできているとは言えなくても、やはり同修たちに認められたという自己満足感がありました。

 周りの同修間のトラブルを見ても、いつも「これくらいのことで争う必要があるのでしょうか?」と思ったりもし、私は自分の態度に気を使っているから、同修と不愉快なことが起こらない。もし違う考えがあれば自分の中で保留しておけばいいと思っていました。私の知らない、ちょうどこの一念が深く隠して自覚しにくいものを暴露しました。「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです。」[1]衆生を救い済度する中で絶えず自分を正し向上する事こそは修煉の過程であり、修煉は和気藹々で、そこに座っているだけで、何の衝突もなく、心を乱されることが起こらないことではありません。トラブルに触れず、直視せず、解決もしなかったら、どうやって心性を向上させるのでしょうか? どうやって大法弟子が行うべき事をよく行うのでしょうか?

 考えてみると、自分はすでに何回も、同修からもらった自らを向上させる機会を逃しました。この件の前にも、ある同修が私に意見を申し出て、私は誠意を込めて、謙虚に聞くことに気をつけたのですが、内心ではあまり重視していませんでした。その後、自分も努力して不足を改めたのですが、そのうち自分に意識できた不足は改め、まだ認識できていなかった、同修が先に言ってくれた問題については深く探究せず、まして改めることはしませんでした。これだけではなく、心の中は更に「私は同修の批判をどれほど受け入れているのでしょう! 私は同修と争ったりしていません!」という満足感がありました。その自慢する態度の中に、自分自身がどれほどの人心や執着を表していたのか、自分はまだそのことを知らずにいました。

 諺に「響きのいい太鼓は強く叩かなくてよい」というものがありますが、鈍い私は何回叩かれても悟りませんでした。悟性が低かったため、重く叩くしかありませんでした。重く叩いても、どういうことか最初は分からなくて、最後になってやっと目を覚まし、このことを無駄にしませんでした。修煉の中で、つまりこれらの自分を向上させない良くない要素を取り除いていくことになります。

 二、嫉妬心は必ず取り除かなければならない

 以前、自分には嫉妬心がないと思っていましたが、しかし今回の心性の試練の中で、はっきりと強烈な嫉妬心を見つけました。同修Aさんと私は知り合って何年も経っていて、互いの性格は違うですが、修煉の道でずっと互いに助け合ってきました。私は自分に「なぜ彼女の今回の言行を、こんなに受け入れられないでしょうか」を尋ねてみると、その一つの重要な原因に嫉妬心が見つかりました。

 それ以前のしばらくの間、私はいつも同修Aさんに現われた「状況」を耳にしており、彼女自身も自分が出遭った色々な事を私に聞かせていました。だんだんそれに慣れてくると、思わず「古い学習者なのに、どのようにして、ここまで修めて来たのか」と心の中で思うようになりました。本来この言葉は自分に問うべきだったのです。なぜなら私たちが目にし、耳にしたすべての事は、自分が修めるべき事だからです。しかし私は悟らず、かえって同修の問題だと思い込みました。

 私が同修によくない見方を持っていたからこそ、彼女が私に意見を申し出た時、心のバランスを失ったわけです。嫉妬心により自分は冷静でいられず、それに伴って各種の人心が動かされました。私の嫉妬心は主に二つの面で現われています。一つ目は、彼女自身もそんなによく修煉できていないのに、私を批判する時には、こんなにも意気揚々で、また言葉使いも厳しく批判したと思ったこと。二つ目は、彼女には知り合いの同修が多く、必ず私を批判する言葉を同修の間で広めていくだろう、そうなった時、他の同修が私をどう見るかを想像したからです。ここまで書いて自分も恥ずかしくていられません。当時の自分は一体何を考えていたのでしょうか! 頭の中は自我のことばかり、嫉妬心にここまで操られて、あまりにもおかしいのです。

 嫉妬心は修煉者が必ず取り除かなければならない心です。師父は「すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです。」[1]と説かれました。私は今後の修煉の中で、必ず嫉妬心を取り除いていくと決心しました。

 三、口を修め、軽々しく同修を傷つけないように気をつける

 今回のトラブルの中で、自分はなぜ同修の態度をそんなに気にするのかをずっと考えていました。褒める言葉を聞きたく、叱る言葉は聞きたくない心以外に、自分もこの面であまりよく行っていないと注意しているのではないかと思いました。考えてみれば、やはりその通りでした。

 この何年か、法を実証するプロジェクトを行う中で、徐々に何人かの同修と知りあいました。同修たちとの付き合いの中で、往々にして交流の形で、他の同修の状態と現われについて自分のいくつかの認識について言及します。この時、私は時に法に基づいておらず、甚だしい場合、常人のように日常生活のこまごましたことを話したりし、また時には主観的な推測で同修に結論を下したりしました。見せびらかしたい心の誘惑で、時に同修が教えてくれた事を他の同修に伝えたりして、これらの事を話していいかどうか、当事者の同修を傷つけないかどうかは考えもしませんでした。

 つまり、私たちにとって同修に存在している問題に言及するべきかどうかは問題ではなく、自分が話す過程でどのような心理状態で話しているのかが問題です。真心で同修のために思い、全体が法に基づいて共に精進し、向上するためなら、その事はよいことであるから、完全に問題がありませんが、もし心理状態が純正ではなく、慈悲に同修を対処できず、当然のように自分の意志を同修に強制を加えたり、同修に結論を下したりする行為は正しくないので、同修のことを傷付けてしまうはずです。私は自分の過ちを恥ずかしく思い、今後同じような過ちを犯さないように自分に警告しました。

 文章をもって自分の少しの心得を報告いたしました。不適当なところ指摘を願います。

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/21/300543.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/12/3/147141.html)
 
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