文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年11月14日】今日師父の著作『轉法輪』を読んでいるときに、師父は「利口な人の場合、悟性がかえって良くありません。賢すぎる人は、人目につくような仕事にたけているので、上司、上役から褒められます。しかし実際の仕事は他人がやらなければならないのではないでしょうか? そこで彼は人に借りを作ってしまいます。利口で、要領がいいので、たくさん利益を手に入れますが、他の人はそれだけ多くの不利益を蒙らなければなりません。利口なので、損をするようなことはしませんし、不利益を蒙ることもめったにありません。そこで他の人が不利益を蒙る羽目になります。現実の利益を重く見れば見るほど、彼の心はますます狭くなり、常人の物質的利益を何よりも大事だと思えば思うほど、彼は自分こそ現実を重視する人間だと思い、ますます損をしない人間になります。」と説かれました。
前から、この法は常人社会のことを説かれているとずっと思い込んでいました。自分とは無関係だと思ったことがあります。幼い頃から今まで、周りの人は、私のことが堅実で、一生懸命な人だと褒めてくれました。しかし今日、心を静めて法で自分を照らした時に、私はこの法は完全に自分に対して説かれたものと口づきました。自分は人からの評価と賛嘆を気にし過ぎます。なので、堅実に仕事をしています。大法のプロジェクトを行うときに、トラブルの中で、揉めないように、責任を負いたくないので、どんなプロジェクトでも補助の仕事しかやらないのです。何かあった時でも、批判の声が私には向かず、面倒なことがもたらされることも出来ません。念が不正なので、同修に問題があった時、同修が向上してないことを心配しているではなく、まず自分にはこのような問題がないと陰で喜ばしく思いました。常人の表面のことを重んじているので、長年修煉しても、「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず」[1]をやり遂げられず、心が狭くて利害や損得にあくせくしています。
師父のおっしゃったことは法であり、博大で奥深い意味があり、人間の観念で量ってはいけません、しかも、自分がその中にいないと思い込んではいけません。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』