「神」の認識についての落とし穴
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文/未署名

 【明慧日本2014年6月25日】神について語ると、多くの人は偉大かつ超常的で、能力も優れていると思っています。「神を修める」「佛を修める」ことについて語ると、この「偉大」な目標を狙っています。

 個人的な考えですが、佛を修めることは、内に向けて探すべきです、この「偉大」な目標だけではなく、心を修めます。確かに「神」は偉大で、超常的です。しかし、修煉者はそのような思いを心から放下できなければ、常人の執着を取り除くことができません。師父は「修して執著を一つも漏らさこと無きを得れば」[1]と説かれました。円満成就に執着すること自体、放下すべきです。知らないうちに、「偉大」という目標のためだけに頑張っています。心を修めることを知っていますが、どうしても「偉大」という目標を優先して考えてしましました。神は偉大であればあるほど、能力が強ければ強いほど、超常であればあるほど、執着心はないのです。私たちは佛を修めるのですが、それでは、心を修めるべきです。外に向かって「偉大」を探してはいけません。もしそうであれば、実は「名」を求めているではないのではありませんか?

 ある同修は師父の説法を読み、自分がとても偉大である(厖大な生命体と厖大な天体空間を代表し、偉大な生命を救い済度することを行っています)と思い込んでいます。その時、「私はなんと素晴らしい人でしょう」「私は人より遙かに超えています」と「名」を求める心が生じました。それは人心なのです。「名」を求める心は「情」の一種で、歓喜心でもあります、この良くない心があると、魔の道に入ってしまいます。

 とにかく、この問題の肝心なところは、神に対する理解に問題を起こしかねないということです。神には執着心がありません、情も欲もありません。偉大さというのは、自然に与えられたものなので、最も重要なのは心性です。直接「偉大」を求めるなら、それはまるで直接功能を求めるようなものです。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「迷中修」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/3/2/288132.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/3/8/145734.html)
 
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