古今の天象から正法修煉の延長について考える(3)
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孔明より李淳風に予言文化を一脈で伝承する 

文/ 聖縁  

 【明慧日本2017年3月12日】修煉の時間は、師父に何度も延長していただきました。多くの弟子はそれを大切にし、絶えず精進していますが、一部の人は時間が経つにつれて緩み、正法修煉の時間が延長されることに半信半疑になり、怠惰するうちに中士まで落ち、甚だしきに至っては圓満成就に対しても動揺し、正法修煉を放棄または大法に反対する側に走りました。————これらはすべて師父や法を完全に信じていないことによる結果です。遡れば、その根源は旧勢力が中華神伝文化を破壊し、現代人の大法を認識することに妨げをもたらしたからです。

 当シリーズの文章は天象文化の玄妙な正確さを公開し、法を正す時間が一回一回延長されていることを証明し、同時に関連する偽りの歴史を暴露し、初めて封じられた歴史の真相を公開します。様々な誘惑から引き起こされたことによって、大法から離れた昔の同修を再び大法に戻らせ、このかつてない歴史の本当の価値を表す時期に、人間が存在する本当の目的を認識させ、これらに惑わされている人はこの妨害を乗り越え、精進されるように願います。————本当の素晴らしさは、全て大法の中で真に修煉する中で現れます。


  前文に続く)  

 前文で我々は天象の角度から、『推背図』の予言の正確さを明らかにしました。当文章では予言文化の源を探求し、『推背図』の作者・李淳風の開祖・諸葛亮について、今まで公開されていない真相や、諸葛亮の本当の姿を初めてここで公開します。 

  1. よく知られている半人半神諸葛亮は神通力で痕跡を隠す  

 「鞠躬尽力(きくきゅう じんりょく)し、死して後已まん」(この身を捧げて死ぬまで全力でやり続ける)。1700年以来、歴代のすべての帝王や将軍および文人は諸葛亮を称賛しています。近代の小説および演劇は、諸葛亮を中華民族の智慧の化身と見なし、素晴らしい能力を持っており、忠実で義を重んじ、道徳的模範人物に描いています。諸葛亮は後世に広く知られており、彼に関する故事成語、ことわざ、小説、演劇が多く、演劇だけでも500種類余りがあります。例え予言文化を信じない人でも「事後諸葛亮」(事が終わった後で偉そうなことを言っても何にもならない)と予言をけなします。ということは誰でも諸葛亮の占いが優れており、後のことを事前に知っていたことを分かっています。 

 諸葛亮は本当に言われているほど優れているのでしょうか? 慎重な科学者たちは、諸葛亮が描かれれば描かれるほど大げさになっていると思っています。科学者は「実際、諸葛亮が天象を読めることは事実で、史書にも記されている。輝かしい文才を持っていたことも事実で、多くの有名な文章が世の中に伝わっている。占いができることも事実だが、世の中で言われているほどではない、小説や伝説で神話化されただけだ」と思っています。この結論は紛れもなく偽りの歴史が人々に与えた誤解によるものです。 

 私は慧眼通の功能を通して歴史の映像を見ました。真実の諸葛亮は神話化されているどころか、逆に偽りの歴史に覆い隠されています。諸葛亮が五丈原で病のために死んだというのは正しくありません。彼は得道した人なので病に罹るわけがありません。彼は天象に応じ、54歳で仮死を使って俗世から抜け出しました。その後、山林で隠遁して25年間修行しながら、中華の予言文化を築くという重大な使命をやり遂げました。諸葛亮の智慧や能力は、世の人々の理解とかけ離れているため、このような多くの奇跡を創造し、世の人が解けない謎を残しました。 

 2. 八陣図の中に鬼神の技を隠し、天数によって志が実現できなかった 

 八陣図 
 功蓋三分國,名高八陣圖。  
 江流石不轉,遺恨失吞吳。 

 功が三国を超え、名が八陣図より高まり。 
 江は流るるも石は転ず、遺恨なり呉を呑むを失せしこと。 

  唐の時代の杜甫(と ほ・中国の詩聖)のこの八陣図の詩は、当時の魚腹浦という場所の八陣図の遺跡を表現しています。八陣図は重慶市奉節県の長江の岸に1700年にわたって存在し、1964年に破壊されました。 

 それは諸葛亮が作った八陣図なのでしょうか? 誰にもわかりません。『三国演義』によると、この八陣図は江東(呉)の三軍大都督・陸遜が率いる軍を封じ込め、そして恐れさせ軍を撤退させたと記されています。人々はこれが芸術で作られた内容と見なし、古代でも諸葛亮の八陣図はそこまでの玄妙さはなく、ただの八卦陣であると言う人もいました。さらに現代学者は、諸葛亮の八陣図が普通の方陣だと言いました。諸葛亮の軍事才能について、古代から現在まで、普遍的に平凡だと見なされ、司馬懿(しばい)には及ばないと思われています。 

 この認識について後世の人々を責めることはできず、すべては偽りの歴史によるものです。このシリーズの中で述べている偽りの歴史は、完全な嘘の歴史ではなく、人為的に装飾や誤魔化された部分がある歴史です。偽りという文字は「亻+為」でそもそもの意味は人為的、世の人々がわざわざしたという意味です。 

 魏蜀吳の三国は晋に滅ぼされました。『三国志』は晋の時代に作られ、皇族・司馬氏の面子のため、司馬懿をできるだけ高く持ち上げ、諸葛亮を高く持ち上げる勇気がありませんでした。そして三国時代の魏と呉の史料は、自分たちの評価を高めるため、当たり前のように諸葛亮の輝く才能を隠していました。蜀は劉備の方針に基づいて史官(訳注:歴史を記録する官職)を設けておらず、諸葛亮本人も謙虚で自分の能力を誇示しなかったため、多くの真相は逆に史書以外の伝説の中に残っています。 

 時空を超えて諸葛亮の八陣図を見てみると、外観はごく普通のように見えますが、注意深く見ると威力がこの上なく、身の毛がよだちます。それは古代兵家の最高傑作で、神伝文化の精華の中の精華です。もし、諸葛亮が時空を超えて現代に来ることができ、現代で八陣図を作ったとして、10万人の現代兵器を持った陸軍が入れば必ず封じ込められ、その八陣図の中で死んでしまいます。 

 このように言っても少しも大げさではありません。古代の魚腹浦の八陣図の石陣は諸葛亮が作ったのではなく、蜀の将軍が記憶に基づいて八陣図を復元しただけです。本当の八陣図は諸葛亮が荊州から成都へ行く前、蜀に入るために必ず通る山の間に、山や川の地形に基づいて作りました。それは諸葛亮の修煉によってできた一つの龍状の護法で、山の間に臥(ふ)せていました。諸葛亮の道号「臥龍(がりゅう)」の由縁です。十年後、劉備が負けてここから逃げた時、主公(劉備)を救いました。 

图:诸葛亮当年以这一带山岭为依托,开路设垒,把自然地形变成了八阵图(谷歌地球软件截图)
図:諸葛亮が当時この山の地形に基づいて作った八陣図(グーグルアース) 

 劉備が全国の兵を率いて呉を討伐した際、江東の陸遜に火で兵営を燃やされ、逃げる途中にこの陣を通りました。諸葛亮は主公を通らせ、陸遜の軍が入った後、成都にいた諸葛亮は八陣図を起動させ、巨大な龍は頭と尻尾を接し、10万の江東軍をすべて包み込みました。八陣図は黄泉の兵を呼び寄せることができるだけでなく、人間の思惟をコントロールできます。互いに殺し合わせることもでき、永遠に出口を見つけられないようにもできます。ですから現代の陸軍が入ったら出られなくなり、思惟が完全にコントロールされ、武器がいくら最先端でも、電子機器がいくら発達していても、八陣図が宇宙の巨大なエネルギーを集約しているため、すべて使えなくなってしまいます。 

 陸遜は10万の江東軍の精鋭を率い、軽装備で急行しましたが、八陣図の中で思惟がコントロールされ、ぐるぐる回っても出口が見つかりませんでした。人類はある程度の人が、先天的に天目が開いおり、古代ではこの比率がさらに高かったのです。当時、陸遜の10万の兵の中の多くは、昼間に黄泉の兵や鬼などが見え、夜になるともっと多くの人に見え、呉軍の兵は怖くてたまりませんでした。彼らは空腹や疲労の中、3日間ぐるぐる回って元の道に戻ろうと思っても戻れず、印を付けても役にたちません。黄泉の兵の邪魔によって古代の伝説の「障眼法」を設けることができ、さらに空間自体を動かすこともでき、山の形や道は絶えず変わり、印もなくなり…… 

 『三国演義』の中に「諸葛亮の義父が陸遜を救い、陣から出た」と記されていますが、実はそうではありません。八陣図は諸葛亮以外に人間は誰も破ることができません。数百年前に按排されてここで修行していた精霊がこの十万人を率いて入った所に戻らせました。諸葛亮はこれが天意であると分かっており、止めようとはしませんでした。江東にとってこれは恥なので、史料には記されませんでしたが、民間で伝わっていました。 

 その後、諸葛亮は広野で戦う際、兵を使って変幻自在な八陣図を作りました。そしてその兵の中に黄泉の兵を設置し、宇宙のエネルギーを調達することができ、強大な威力を持っていました。諸葛亮はかつて「八陣図が出来上がったら、これからの戦で負けることはないでしょう」と話したことがあります。この言葉は300年後の『水経注』[1]に記されています。しかし定められた天象の下で、中々発揮することができませんでした。 

 諸葛亮は最高レベルの易学の達人であり、毎回出兵する前に、勝敗が定められていることを知っていましたが、必ず失敗すると決まっている戦に対し、彼は天の時に従い、その失敗を演じなければいけませんでした。それは文化を作り上げ使命をやり遂げるためです。 

 3. 一生涯二つの命で俗世を去り、再び輝かしい大唐風を造り上げる  

 魏蜀呉の三国の正史にも、諸葛亮は最後の出兵で魏国を討伐する際、苦労が重なって病にかかり五丈原で死んだと記されています。「出師未捷身先死,長使英雄淚滿襟」(兵を出し、まだ成功していないが天命が尽き、後世の英雄は思い出すと涙で襟を濡らしてしまう)。これは唐朝の杜甫の名詩であり、常に人に深い感銘を与え、思わず涙を流させます。しかし実のところ、諸葛亮は死んでいませんでした。諸葛亮は最後の出兵に全てを按排し、仮死を使って山に隠遁(いんとん)し、彼と親しい人もそのことを知りませんでした。俗世の諸葛亮が死に、山林の中で修行する大道隠士が一人増えました。 

 その後、諸葛亮は二人の子供の弟子を取り、全ての技能を伝えました。この二人の弟子に与えた教科書の一つが『馬前課』[2]です。この著名な予言書は、三国時代から現在まで予言されており、確かに諸葛亮本人が書いた作品です。 

 しかし二番目の弟子は全ての人心を取り除くことができず、修行が完成しませんでした。輪廻転世の中で修行したり、しなかったりしましたが、常に『馬前課』が心にありました。生生世世で彼はいつも『馬前課』と出会いました。清の時代に『馬前課』が伝承された守元和尚[3]は、諸葛亮の二番目の弟子です。 

 諸葛亮の一番目の弟子には少し由来があります。彼は大禹の重臣・伯益が転生し、そしてイエスの12弟子の中のシモンに転生しました。また、前世は諸葛亮の姪でその後、養子になった諸葛喬であり、南方へ遠征した時に戦場で犠牲になりました。その後、転生して再び諸葛亮の弟子になりました。彼は精進して圓満成就になり、この道家の一門の正統な伝授を受けました。後の幾世もの転生の中で、全てこの門の中で修行し、伝承を受け、向上し、隋の時代になると李淳風に転生しました。 

 李淳風は10歳の時、家族に従って引っ越し、13歳の李世民と友達になりました。その後、李淳風は前世で修煉していた一門の伝承者に弟子入りしました。そしてこの門で道を修めて16歳の時、ある程度のレベルまで修めることができました。師の命に従って李世民が天下を統一することを補佐し、表では李世民の「記室参軍」(訳注:軍の中での記録や文書を書く係)となり、実のところ「秘密軍師」でした。 

 師父の教えによって、私は諸葛亮が李世民と一体の生命であることがわかりました。つまり諸葛亮は自分の神通力を約400年かけて演煉し、また李順風を通して李世民を助け、大唐の新紀元を切り開こうとしました。『馬前課』と『推背図』を読んだことがある人は、この二つの予言がとても似ていることに気付くでしょう。『馬前課』は非常に単略であり、『推背図』はまるで『馬前課』を広げているようです。三国の後、400年を打ち立て、歴史上の最盛期──唐朝で、予言文化を最高の輝きにまで推し進めました。 

 4. 李淳風:数学家、易学家、天文学家、天象学家  

 このシリーズは天象を切り口としています。天象を基礎として展開するならば、例証として天象の目盛りである『推背図』は欠かせません。ですから皆さんに李順風を紹介しなければなりません。 

 李順風は中国の歴史で最も著名な易学家、屈指の天文学家、また唐朝の著名な数学家、文学歴史学家です。 

 【渾天儀を改善する】 

 我々が今見ている古代の渾天儀(こんてんぎ)は、張衡の作った二重環結構の上に、李順風が改善し発明した三重環の渾天儀です。これは古代で天象を観測する最も精妙で、最も基本的な機器です。 

图:台湾高雄国立科学工艺博物馆的三重环古浑天仪,始于李淳风。
図:李淳風の三重環古渾天儀(台湾高雄国立科学工芸博物館)

 【正史の記録によると、初めて日食を正確に計算】 

 史料によると李順風が新暦を校成してから、太宗に日蝕(食)が発生すると報告しました。古代で日食が発生することは天子に対して、不祥の兆しだと認識されています。そして当時は予測することができませんでした。唐朝の第2代皇帝・太宗(李世民)はその話しを聞いて機嫌が悪くなり、李順風に「もし日蝕がなければ、あなたはどうしますか?」と話しました。李順風は「もしなければ、私を死なせてください」と答えました。その日になると太宗は、庭に立って天を見て、日蝕の兆しが中々見えないので、李順風に冗談で「あなたは家に帰って、奥さんと子供に別れを告げてください」と言いました。 

 李順風は「まだ一刻早いです」と言いながら指で日時計の影を指して 「ここまで来ると日蝕が発生します」と話しました。果たして「如言而蝕、不差毫髮」(言った通りに日蝕が発生し、髪の毛一本のズレもない)[4] となりました。

 今、天文ソフトを利用して古代の天象を再現し、史料と結合して私たちはこの日食の時間が、639年(貞觀十三)9月3日であったと定めました。これは貞觀年に長安で見えた最も大きな日食です。(全食に近づく) 

图:长安城贞观十三年(639年9月3日)日全食示意图,李淳风准确预测,为历史记载的首次。
図:唐貞觀十三年(639年9月3日)長安の日食の見取り図、李淳風が正確に予測し、初めて歷史に記録された 

 【卓越した数学家】 

 李順風は『周髀算経』、『九章算術』、『海島算経』、『孫子算経』、『五曹算経』などの十部の数学の専門書を主催し、編集と注釈をしました。彼が詳しく式を展開することを通して、難解だった古代の算経が分かり易くなりました。後の唐代国子監算学館の教科書にもなりました。[5] 

 李順風が注釈している算経は、当代および後代に大変な影響を与えました。彼はイギリスの学者ジョゼフ・ニーダム博士に「中国の歴史上最も偉大な数学の著作注釈家」と評されました。 

 【文史学専門家】 

 修史、これは古代で文人の最高の成果と見なされています。唐太宗の時代には大量の史書の修訂や編集が行われました。李順風も担当した部分があり、『晋書』、『五代史』の中の『天文志』 『律歷志』、『五行志』を整理して執筆しました。そして『梁書』、『陳書』、『北斎書』、『周書』、『隋書』などの中の天文部分の執筆にも携わりました。 

 【天文学、易学の専門書『乙巳占』を執筆】 

 李順風の『乙巳占』(おつみせん)は現在まで伝わっています。古代の天文学と易学の専門書で、その中に詳しく渾天儀の構造が記されています。また、冬の太陽の運行の早さと、夏の太陽の運行の遅さを正確に推算できます。中国の有名な天文学家「僧一行」よりも早かったのです。本の中で初めて風力に等級を定めました。 

 『乙巳占』の中には大量の占い、陰陽、予測などの内容があり、近代では価値がないものと見なされています。実はこれこそが神伝文化の精華の一つです。この精華を通して、李順風は髪の毛一本のズレもない日食の時刻を推算し、そして暦法の作成や未来を予言することができます。 

 5. 天象文化が大成し、予言文化が最盛期に入る 

 ニュートンの全ての科学の成果が、彼の神学の成果への道を開いたように、李順風の学術の造詣は彼の『推背図』への道を開きました。 

 【作者の発現】 

 一般的に『推背図』の作者は、袁天罡と李順風の2人で作った作品だと認識されています。しかし史料の中に「唐李順風作『推背図』」[6]と記されています。私は歴史の映像を調べて見ましたが、この記録は正しいものです。『推背図』は袁天罡と関係がありません。李順風一人で作成しました。ただ、その中のイラストは李順風が友人に頼んで詩の意味に基づいて描かれました。そのイラストは彼が設けた一つ一つの絵による謎かけです。『推背図』の最後の一象の二人は彼らの後ろ姿です。 

 【旧勢力の破壊】 

 『推背図』の予言の全ては、朝代の大事件と朝代の切り替わりに関することです。千年以上の検証によって、その正確さが各王朝の統治者に恐れられ、禁書になっていました。しかし禁じれば禁じるほどより広く伝わり、北宋の時にはほぼ全ての世帯にある程になっていました。[7] 

 岳飛の孫、南宋の史学家・岳珂が執筆した『桯史』には、朝廷が『推背図』の偽物を混入したと記録されています。北宋の初代皇帝・宋太祖は占いなどの書籍を禁じた時、民間に多く収蔵されており、禁じても禁じきれませんでした。趙普は「『推背図』を収蔵している人が多すぎて、関わっている人も多すぎます」と上奏しました。太祖は「厳しく禁じなくても、偽物を混入すればよい」と答えました。古いバージョンの『推背図』に基づき、すでに的中した各象以外は、象の順番を逆にして、100部の偽物の本を作り出し、民間に伝えました。そうなると皆はどちらが本物で、どちらが偽物なのか分からなくなり、手元に『推背図』があっても当たらないので収蔵する価値がなくなりました。 

 私は神通力でこの歴史を調べました。実のところ、偽物の『推背図』を作って民間に広めたは宋太祖・趙匡胤ではなく、彼の弟で兄(宋太祖)を殺して帝位を奪った趙光義がやったことです。北宋の朝廷によって破壊された結果、北宋以降の予言を解読することが難しくなり、これで伝統文化を破壊することになりました。 

 前に話しましたが、『推背図』は予言文化の最高峰であり、諸葛亮が自ら按排したことで、その中には法輪大法の予言が多く、そして具体的で直接的な予言でした。1300年の検証によって、『推背図』は信用できる資本が多く蓄積されており、その中に邪悪が大法を迫害し、最後には失敗することについて詳しく述べています。聖人が法を正すことは必ず成功します。もし北宋の破壊がなければ、今の人々は容易に大法を認識することができるでしょう。誰が天に逆うことを選択するでしょうか。多くの人は大法を破壊することを恐れるはずです。しかし相生相剋の古い宇宙の理によって『推背図』は破壊されました。 

 【偽物を取り除き、本物が浮かび上がる】 

 今最も広く伝わっている『推背図』の源は、清朝の金聖嘆が注釈した『推背図』です。私が調べてみるとそれは本物に一番近いバージョンです。時間の検証によって大量の偽物を淘汰しました。最後に本物に近くて順番が逆のバージョンが浮かび上がりました。 

 もし順番を正しく並び替えれば、当代や未来の予言が見えます。しかしそれは予言された事が発生した後になって、初めて皆が対応している予言の本当の意味が分かります。それは「事後諸葛亮」であり、誰が事前に正しい順番を知っているでしょうか? 

 幸い私たちには天象の補助があり、連続的な時間を座標とし、『推背図』の各事件の予言を天象の座標に並べ、時間の順番通りに法を正す部分だけを切り取り、現代の人々が目覚めるように警告します。 

 (続く) 

 次集の目次   

 古今の天象から正法修煉の延長について考える(4)  
 ——天数に予想外のことが起こり
、天象が華やかさを現す  
 1. 五星が集まり、吉か凶か  
 2. 967年五星が連珠し、宋太祖の寿命が9年延長された 
 3. 古今縱橫に盛世を見れば、現れた現象の背後に根源がある 

 


 [1] 酈道元(北魏)『水経注』:「因曰:八陣既成,自今行師庶不覆敗。皆圖兵勢行藏之權,自後深識者所不能了。」

 [2] 『馬前課』:中国の歴史上最も有名な三つの大予言書の一つ。『推背図』より400年早い。清朝の嘉慶年間、86歳の僧侶守元から伝わってきた。この予言は時間順に十四課があり、毎課は四言詩で、簡単で分かり易く、三国から未来までの各王朝を予言し、現在まで100%的中している。 

 [3] 守元は『馬前課』の前に「孔明《馬前課》乃軍中閒暇之時,作此以示後人趨避之方。此十四課為《馬前課》中之別裁,每一課指一朝。其興衰治亂可得諸言外,至十四課止者,兩次來復之期也。殿以末濟,以見此後又一元矣。」 

「天道循環,明者自明,昧者自昧,又烏可以坐而致哉?」 
「八六老僧白鶴山守元志。」と記しています。 

 [4] 『隋唐嘉話』:唐の時代の集賢殿学士・劉餗が執筆した書籍で重要な史学価値があり、後世の史書によく引用されている。 

 [5] 『旧唐書﹒李淳風伝』 
 [6] 『桯史』:岳飛の孫、南宋の史学家・岳珂が執筆した史料の随筆。 
 [7] 「家家都有『推背図』」(全ての家庭が『推背図』を持っている)北宋神宗の話より。北宋莊綽の『雞肋編』によると、王安石の改革の時、政敵を倒し、忠実で率直な大臣は全て排除された。彼は諫官・范純仁(范仲淹次子)を倒し、さらに家族全員に罪を着せるため、理由が見つからなかったが、口実として范家に『推背図』という禁書があると言いがかりをつけた。宋神宗はひどく理屈が合わないとみて、「この本は誰でも持っており、家族の連帯責任にはならない」と言った。 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/1/29/341943.html)
 
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