自分を修めることは素晴らしい
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年4月28日】長い間、私は修煉の向上が少なく、学法のときも法の内涵が見えなくなりました。原因が分からず、「修煉は表面に来ているから、向上が遅くなるのは当然だ」と自分を慰めるしかありませんでした。

 ある日、私は妻が怠けて、私をそそのかして家事をやらせてばかりいると愚痴をこぼしました。私はため息をついて、我慢してやろうとして、突然「あれ、このような状態は数年あったような気がする」と思いました。妻との結婚生活は10年経っていたのです。当初からずっとこの状態で、この一面で真に自分を修めたことがなかったのです。

 振り返ってみると、私は成長の過程で細かいことにこだわるという良くない習慣に慣れてしまいました。他人が私を一尺敬えば、私も相手を一尺敬います。仕事中もみなでやる分は均等であってほしいと思いました。妻に対しても、彼女が料理をつくったら、私は皿を洗い、彼女の家事の量が少ないと、なぜ私に家事をやらせるのかと思いました。

 私は人との言い争いが嫌な人間で、普段いつも心の中で愚痴をこぼし、外に発散しないのです。ですから、長い間自分が愚痴をこぼすことを気づきませんでした。今日、気づいたので、今後修める中で取り除かなければなりません。

 翌日、会社で会議用の資料を急いで書いていたところ、生産現場の責任者から電話があり、技術問題の解決を頼まれました。本来は、部下を派遣してこの仕事をやってもらうのですが、その部下は仕事で外出していました。仕方なく、私は自ら解決に行きました。1時間後に会議があるのに、資料がまだできていませんでしたが、生産現場のことを断わってはいけません。私はどうしてこんなにタイミングが悪いのか、なぜやらねばならないことが集まったのか、部下がどうしてあいにく外出したのかと、また愚痴をこぼすところでしたが、これは私の愚痴をこぼす心を取り除くためではないかとすぐ気づき、今回は自分を修めようと考えました。私は落ちついてまず生産現場に行き問題を解決し、終わったとき時間を見ると会議を遅らせることなく、よかったと思いました。自分を修めることができたことは素晴らしいことです。

 今朝、自閉症の子供はわけが分からずに涙をこぼしました。妻はイライラして子供に文句を言いました。私は「子供に病があるのは知っているだろう、そんなに怒らないで」と言いました。妻はすぐ私に怒り、何やかんやと不合理なことを言いました。以前なら、私は我慢できず、必ず怒りましたが、今回は怒らず、これも私の愚痴をこぼす心を取り除くためだと思い、心性を守ることができて、とても嬉しかったのです。

 書き出したこれらのことは小さいようですが、私にとっては小さくありません。時間が長引くと、私は修煉の楽しさを体験できなくなりました。修煉し始めたときと比べると、千里のような差があります。当初は、毎日いつも楽しくて嬉しかったのです。

 今日のお昼、同僚とおしゃべりしました。この同僚は「卓球をするには技術を研究しなければならない。技術を研究しない人はしばらくしたら、レベルが低いところに停まってしまう。時間が長引くと、面白くないと感じ、興味がなくなってやらなくなった。技術の面でも研究する人は研究の中で絶えず向上し、ますます興味が深くなるのです」と話しました。これを聞いて、私は悟りました。私たちの修煉も同じです。修煉し始めのとき、大法書籍の超常の理を知って、人生の中の疑問が解けて大変感動し、嬉しかったのです。身体も健康になり、毎日元気いっぱいでした。時間が経って、根基の働きが過ぎて、心性のさらなる向上が必要なとき、なかなか難しくて進む事ができなくなります。自分の変化があまり見えないとき、さらに内に向けて探し、自分を修める必要があります。法の上で法を認識し、さらなる高次元へ進めば、修煉の楽しさをまた体験できます。そうでなければ、一つの次元で徘徊し、自分の変化が見えず、精進の意志を消耗してしまうのです。

 この体験文章を書き出したのは、私のように長い間徘徊し、苦労して修めている同修に注意を与えたいからです。私たちは真面目に内に向けて自分を見て、長期に気づいていない人心と執着を見つけ、自分を修め、修煉のはじめのように精進しましょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/19/345844.html)
 
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