同修よ いまだに意気消沈していますか?
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文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2017年5月12日】今なお意気消沈している同修の皆さん、あなたも私と同じく一時期非常に精進していて、会社や家庭の中で常人に認めてもらい、多くの人があなたの伝える真相を聞いて素晴らしい未来を選んだのではありませんか?

 そしてその後もまた私と同じように、徐々に怠惰になり、ついにある日の夜、我慢できずにインターネットで映画を探して見てしまい、見た時はとても興奮して見終わった後に咎めを感じ、恥ずかしさのあまり学法する勇気さえも失い、師父に合わせる顔がないと思ったのではありませんか。頭には映画のシーンがいっぱいでは、どうして心を静めて学法することができるでしょうか。そこで、その日の学法を一旦やめて早めに寝て、翌朝目が覚めればまた新しい一日が始まり、新たに始めることができると思いました。しかし、翌朝の煉功時に起きられず、発正念もできませんでした。通勤途中、衆生に真相を伝える勇気もなく、「学法もしていないし発正念もしておらず、頭にあるのは常人のものばかりで、こんな状態で真相を伝えても、相手の邪悪によって注ぎ込まれた誤った思想などを排除する力があるはずがない。やはり家に帰ってよく法を学んでからにしよう」と考えました。しかし、夜になるとさらに不安になりました。師父は説法において私たちに執着を取り除き、三つのことをしっかり行うように説かれています。しかし、私は何一つできていないので、師父に合わせる面目がありません。このような自責の念から抜け出すために、私は2日目の夜からさらに映画や微信などの常人のもので自分を麻痺させ、どんどん悪循環のサイクルにはまっていきました。

 意気消沈している同修の皆さん、以下の点においても私と同じではありませんか? 心の中では大法弟子がたとえ間違いを犯しても、すぐに改めれば良い事で、意気消沈すれば邪悪が喜び、師父が悲しむだけであるということを知りつつも、精進する日が長続きせず我慢できずに微信を長く見てしまえば、またも自分を罵り、どうしてこんなに意気地がないのかと自分を責めてしまうのではありませんか? そして、自身に愚痴を言いつつも、やはり時間を少しずつ浪費してしまいまたも学法できませんでした。あるいは完全に自分を投げ出して見たい映画を全部見終えて、今後一切見ないと決心しつつも、結果としてさらにアンコントロール状態に陥ってしまったのではありませんか。

 その状態が長引けば長引くほど、精進の状態に戻るのもどんどん難しくなります。師父の説法内容がどんどん厳しくなるにつれて、各種の天象の変化や明慧ネットの同修の交流文章をみても、本当に時間があまりなく正法がまもなく終わると感じています。焦り、後悔、自責……、さまざまな気持ちが心の中でひっくり返っています。同修よ、あなたも私と同じ気持ちですか? あなたも私のように以下の考えを抱いたことがありますか?

 師父は大法弟子が皆それぞれ一つの巨大な天体を代表しているとおっしゃっています。他の同修は一刻も無駄にしていないのに、自分はどれだけの時間を浪費してきたでしょうか。どのようにして自分の宇宙を正せるのでしょうか? 他の同修はあれだけ多くの衆生を救ってきたのに、長い間真相をまったく伝えて来なかった自分は、どのようにして先史の誓いを果たせるのでしょうか?

 学法の際、師父の次の説法を読みました。「今日良く行うことはできませんでしたが、旧勢力がまだ迫害を続けているのではありませんか? 明日もう一回行い、必ず良く行うようにさせます!」[1]。これを読んだのはまだ2003年で、まだまだ時間があると思っていました。しかし、もうすでに2017年に入り、今になってよく行うことができても、過ぎ去った時間をどのように補うことができるでしょうか? 師父はこのように教えられています。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」[2]。私は道を聞きましたが、修煉を通じて圓満成就できなければ、次の機会もない中で、「古人の夕べに死す」が私にとって何の意味があるのだろうと思いました。

 私はきっと将来師父について家に帰れない1人で、次の修煉の機会がなく、前途に望みもありません。しかし、このような結果を招いたのは自分自身で、他人を咎めるわけにはいきません。しかし私は大法を諦めたくありません。師父は世間のすべてを法の中ではっきりと説かれました。それを知った以上、常人のように仕事や生活のために没頭して生きていくなら、私は死んだ方がましだと思っています。そこで、約2年の間、私は果てしなく終点が見えない中で意気消沈していました。

 最近、ある同修と交流してからやっと、なぜ自分は長い間、意気消沈しそこから抜け出すことができないか分かりました。原因は、法理がよく分からなかったからです。

 師父の説法から分かるように、旧宇宙の理は成住壊滅で悪くなれば自ら円融できず、ますます悪くなって消滅に向かいます。新宇宙は以前の不足を健全にし、生命が悪くなり始める時、大法はそれを円融する効果を発揮して、その生命を新たに良い生命に戻すことができます。つまり、たとえ新宇宙の生命でもずっと素晴らしいままを保つわけではありません。師父はいつも大法弟子が偉大で、素晴らしいとおっしゃっています。しかし、私たちはまだ人間として修煉しているため、間違いを犯さないことはありえません。

 師父は私たちを地獄から掬い上げられました。たとえ大法弟子に間違いがあっても、どんなにめちゃくちゃでも、最後に大法の指導によって過ちを改めてよくなれば、それこそ大法を実証し、師父と大法の計り知れない知恵を実証していることではありませんか! 法を実証するとは、ずっと平穏に修煉の道を歩んでいくことではありません。人間が修煉している以上、それはありえません。法を実証するとは、過ちを犯した私たちが法に従って自分自身を改め、良い生命に生まれ変わることだと思います。師父はこのようにおっしゃっています。「間違いを起こしてしまったことを寛容に見るべきであり、間違いを改める機会を与えなければなりません。これがわたし達の法の偉大なところです」[3]

 ですので、私が犯した過ちは大きな問題であろうと、小さな問題であろうと、それがどんなに犯してはならない問題であっても、自分がいくら悩んでも何の役に立つでしょうか? 修煉においてどうしても過ちを犯します! 師父はこのようにおっしゃっています。「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」[4] 。「佛法には果てがないというのはどういう意味でしょうか。方法がいくらでもあり、個々の事情を配慮しながら人を済度することができるということです」[5]。この宇宙において、師父ができないことはありません。師父は「『佛性がひとたび現れると、十方世界を震わす』という言葉があります。覚者がそのような人を見ればひとしく救いの手を差し伸べ、無条件に助けてあげようとします」[6]とおっしゃっています。肝心なのは、私たち自身が自分を諦めないことです。西洋のことわざが言うように、神は自らを助ける人だけを助けます。

 まだ十分な時間があるかどうかを本当に考える必要はありません。一時、『轉法輪』を書き写そうと考えました。しかし、正法がじきに終わると思うと、本を書き写すより、『轉法輪』をもっと多く読んだ方が良いと思いました。しかし、その時からもし1日にわずか1ページの『轉法輪』を書き写しても、今ごろは2回ほど書き写し終えたでしょう。私はもうすぐ終わると感じていても、それは自分の感じに過ぎず、時間は従来、師父の掌にあります。時間が緊迫する中で、私たちは時間を大切にすべきですが、また別の極端に走ってはなりません。たとえ本当に時間が足りないとしても、努力し続ける方が退くよりずっと賢明でしょう。

 さらに深く考えてみると、師父の説法があれだけ明白に説かれているのに、なぜ私は自暴自棄になり、自分の人生を投げ出したのでしょうか?

 30年余りの人生を振り返り、私は常に勝ち気で自分の間違いを容認せず、学生時代に良い成績を取れなければ大泣きし、逆に両親に気にしないように慰めてもらいました。小さい時から、私は他人に称賛される中で成長し、いかにも自分のすべてが素晴らしくて優秀であるかのようでした。大法を学んでから、どこにいても良い人であることに努めることを師父から教わり、人と付き合う中で私は自分の振る舞いに注意し、常人に大法を誤解させるようなことをしないように、特に気をつけました。さらに、私は自分が過ちを犯すことを許さず、一旦間違えば、それが師父が説法の中で明確に言及されていることなら、たとえば腹を立ててはいけないこと、常人の映画やテレビを見るべきではないこと、早朝の煉功時に起きられないこと、発正念を堅持できないこと、真相を伝えに出かけていないことなど、これらの方面において自分がしっかり行っていなければ、自分が大法弟子になる資格がなく、師父や大法に泥を塗ってしまった自分が許されるべきではないと考えていました。

 兵法の中に「城を攻め取るなら強行は下策で、民心を先に攻め取るのが上策だ」という話があります。邪悪は私に自分がダメだと思わせ、しまいに一から頑張って行こうとする勇気さえも失わせました。新たに頑張って行こうとする勇気もないなら、どうして再スタートできるでしょうか。またよくできていなければ、さらに自分が無用の長物だと感じてしまい、ずっと意気消沈の状態から出られませんでした。言い換えれば、旧勢力はずっと私のこのような万事においてきちんと行い、まったく間違いを起こさない完璧主義を強めていました。しかし、修煉する中で過ちをまったく犯さないことってあり得るでしょうか? これこそが旧勢力の手段で、徹底的にあなたの修煉の自信をなくさせ、あなたが自ら諦め、自ら退くことをさせています!

 今なお、意気消沈の状態にいる同修の皆さん、まだ私と同じですか? もしそうなら、どうかその消沈の状態から抜け出して下さい! 私たちは確かに多くの機会を逃し、多くの時間を浪費し、ほんのわずかの衆生しか救っておらず、多くの過ちを犯したかも知れません。しかし、今日、私たちは勇敢に自分に直面し、大法を持って自分を正すことこそが法を実証することであり、師父と大法の計り知れない知恵と能力を実証することです! 二度と旧勢力の手段に惑わされないでください! 師父は確かにこのようにおっしゃっています。「実は、皆さん自身よりもわたしは皆さんのことを大切にしているのです!」[7]

 個人的な認識ですが、同修の慈悲なるご指摘をお願いします!

 

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」
 [5] 李洪志師父の著作:『米国法会での説法』「ニューヨーク座談会での説法」
 [6] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [7] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/21/345469.html)
 
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