最後の執着を取り除き 根絶する
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文/同真

 【明慧日本2017年8月3日】私は迫害されたあと刑務所から出て、家に帰りましたが、同僚や友人たちが結構いい生活をしていると知り、私は動揺して心のバランスを崩してしまいました。「この迫害さえなければ、私は彼らよりも、もっと豊かな生活が出来ていたはずだ」と思いました。大法を修煉しているせいで自分にあるべき生活を何もかも失い、やがて大法を修煉することは間違っているのではないかと思い込むようになってしまいました。このような考えはとても恐ろしいことです。修煉の中で数年間このような考えの執着を取り除いていませんでした。

 師父は「それでは、根本的な執着とは何でしょうか? 人間は世間にあって多くの観念を形成し、観念に振りまわされ、あこがれのものを追求しています。ところが、人間はこの世に来て、因縁で人生の道と人生の得失が決められているので、どうして人間の観念で人生の一歩一歩を決められるのでしょうか? ですから、それらのいわゆるあこがれと願望も、永遠に叶えられることのない、苦痛を伴う執着の追求となっています」[1]とおっしゃいました。

 修煉してから今までのことを振り返ってみると、自分は人より優れたい、仕事上でも良い成績を取りたいなど、いろいろな執着心がありました。私はインテリの家庭で育ちました。小さいころから「天才」といわれ、4歳のときには、「3匹の猫と6匹のうさぎ、そして9羽の鶏と12匹の狐の足を合わせると幾つになりますか? 」という問題も  すぐに暗算できました。中1のとき全クラス68人のクラスメイトの成績を2分間で全部間違いなく暗記でき、高1の期末テストでは、数字、化学、歴史の三つの科目は8クラスの中で一番でした。自分は誰よりも優れていると疑うことなく信じていました。

 修煉して学法するにつれて、師父の法理に感服させられました。私は精進しようと決心しました。学法してから数カ月後、協調人から私に煉功点の責任者になるように勧められました。責任者になった私は、その時から新しい学習者だと認められます。同じ煉功場には、実際に師父の講習会に参加した人もいれば、新しい学習者の中には課長の肩書きを持つ人もいます。その時も、その人たちよりも自分の方が優れていると思っており、私は煉功場の仕事は常人社会の役職と同じだと思い込んでいました。私はまだ20代の新しい学習者でありながら、古い学習者を管理している自分にとても満足していました。だから集団学法の交流では一人芝居になっていました。常人にも及ばないこともありましたが、大法修煉の中でそれが執着であることに気付いたのです。

 私たちは修煉の過程でなかなか乗り越えられない難関があります。いつまでも乗り越えられないということは、それが根本的な執着だと思います。法を正すことが最後になった時、この根本的な執着を取り除かなければ、旧勢力はこれを利用して、大法弟子の修煉と人を救うことに干渉します。師父は「修煉者の考えが法から離れれば、邪悪は付け入ってきます」[2]とおっしゃいました。だから、法に基づいていない考えがあれば、直ぐに取り除き、根絶しなければなりません。

 同修の皆さんも師父の説法に基づいて励みましょう。師父は「最後の執着を取り除きなさい。皆さんが修煉の中で成し遂げたすべては、すでに皆さんの未来の限りなく美しい、神聖な果位を成就させています。一歩一歩をしっかりと歩み、自らすでに実証したすべてのことに泥を塗らないようにしなさい。皆さんが修めて出来上がったその部分が、さらに純正な輝きを放つようにしましょう」[3]と説かれました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作: 『精進要旨二』「円満成就に向かって」
 [2] 李洪志師父の著作: 『各地での説法二』「米国フロリダ州法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作: 『精進要旨二』最後の執着を取り除こう」

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2016/10/1/335731.html )
 
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