文/中国の大法弟子 陽光
【明慧日本2017年10月25日】
一、息子が難に遭遇する中で 私は大法に出会った
私は今年57歳で、山西省の農村部に住んでいます。息子は幼いころから体調不良でよく下痢をし、非常に痩せていました。2000年に大学を卒業し、社会人になったばかりの時、法輪大法に出会いました。彼は大法がすばらしいと感じ、書籍を読み、動作をやり始めました。数日後には、再び下痢をすることもなくなり、体調が改善しました。
息子は帰宅すると私たちに「法輪功は本当にすばらしいよ。真・善・忍を修煉し、人の身体を健康にさせ、道徳を向上させます。江沢民はあまりにも悪く、善い人を迫害し、天安門焼身自殺という茶番劇を作り上げ、人に学ばせないようにさせています」と告げました。夫は息子の話を聞くと怒り出し、「君は国に反対する勇気をもっているのか」といいましたが、息子は父と喧嘩をしませんでした。彼はただ大法を学びたいだけでした。息子は私に密かに「この功法は非常にすばらしいよ。特に身体にはよく、お母さんに録音機をあげるから、自宅で師父の説法を聞いてみて、また動作を教えるよ。お父さんには知られないようにすればいい。恐れる必要はなにもないよ」と教えてくれました。私は「分かったわ、お父さんに分からなければいいわね」。そして、師父の説法を聞き、煉功しました。
息子は仕事をしながら、大法を宣伝しました。私が師父の説法をまだ一度も聞き終わっておらず、五式の功法をまだ全部学び終わらないうちに、息子は法輪功をやっていることを理由に、会社から解雇されました。息子は家族に自分が解雇されたことを知ってほしくなく、自分の仕事はあまりよくないので、前途がないから、少し大きな都市に行き、さらによい仕事を探すと言い残して、娘が大學に通っている都市に行き、仕事を探しましたが、いつもやはり長続きしませんでした。2日、3日経たない内に邪魔されて、解雇されました。村では息子が法輪功を修煉したために、解雇されたなどの情報が飛びかっていました。夫は怒りの余り、息子に電話して呼び戻そうとしましたが、息子は戻って来ませんでした。
その後、息子が帰宅すると、夫はドアを締めてから、太いスプリングロープで息子を殴りはじめました。私は部屋の中に入ることが出来ず、ただ外でオロオロして涙を流すだけでした。息子は背中を殴られて腫れ上がりました。裂けた傷口から血がたくさん流れ出て、長い間ベッドに伏せたままで、痛みの余り眠れませんでした。長年勉強だけをしてきて、あまり苦難に遭ったことがなかった息子が、これほどこっぴどく殴られて耐えられるのでしょうか。当時、常に言われている、「トラがどんなに狂暴でも、我が子を食べない」という言葉を思い出し、夫がこれほど酷く自分の子を殴ることを理解出来ませんでした。夫はなぜこれほど酷く子供を殴るのかと、私は非常にショックを受けました。当時、私は大法が非常に素晴らしいと知っており、すべては江××が悪く、善い人を迫害していると知っていました。しかし、私は引き続き学法し、煉功する勇気がありませんでした。それから、数カ月間息子はずっと家に閉じ込められたままで、家から出ることを禁止されました。私も煉功してはいけないと要求されました。
2003年にサーズが流行っていた時、娘が突然胃の出血で入院しました。退院後、身体が回復せず、毎日病院を訪れ、薬を飲んでいました。2004年のある日、親戚が私に、警官が息子を探しているから、息子に隠れるようにと教えてくれました。夫はプンプン怒りながら、「どこに隠れるんだ、共産党が息子を養ってくれたのに、共産党に反対するなんて、俺は党が息子をしっかり教育するように自ら送り出す」といいました。
後になって、娘が教えてくれましたが、息子のところで兄弟が一緒に食事をしていた時、息子が現地で知り合った友人がやって来て、息子に貰った物を返すと言い出しました。開いてみたら法輪功の書籍でした。その時、突然一群の私服警官がスタンガンを手に持って押し入り、すぐに息子を強く取り押さえました。その友人は素速く逃げて行きました。警官は大したことはない、数日後に解放されると言いました。しかし、実際、息子は留置場に連行されて、1週間監禁され、その後、わけも分からない内に1年6カ月の労働教養処分の決定書を受け取りました。当時、私は空が灰色に感じられました。私の子供達はなぜこれほど苦しい運命なのだろうか、と思いました。
私は夫と一緒に労働教養所に行きました。息子は殴られて鼻が青く、顔が腫れ上がり、はっきり見ることも出来ず、歩くこともままならない様子でした。明らかにひどい傷を負っていました。私の心は刀でえぐられたように辛かったのです。にもかかわらず、夫は息子に強いビンタを食わせ、それから床に座って泣き出しました。当時私は気絶して倒れてしまい、その後、何が起きたのかわかりません。私はこのようなプレッシャーに耐えられず、夫の強烈な反対があったため、再び師父の説法を聞き、煉功しようと思うことさえ出来ませんでした。息子は警官が家宅捜査をすることを恐れて、私に大法の書籍を隠すように言いました。私は屋根の下に大きな穴を掘り、そこにしっかり包んだ師父の説法のテープと書籍を埋めました。それ以降、我が家はずっと平穏ではありませんでした。派出所の警官が常に妨害に訪れたからです。
1年後、息子は解放されましたが、話をすることが嫌いになったらしく、私たちはみな彼が煉功をやめたと思いました。みな以前のことを口にすることなく、ただ穏やかな生活を過ごせることを望むだけでした。息子はさらに遠い都市に仕事を探しに行きました。息子が迫害された時のように心を痛めることは再び発生しませんでしたが、警官は時々やって来るので、非常に緊張しました。
2008年、警官がまた我が家にやって来ました。今安全ではないから、息子を守りたいので、夫に息子を呼んできて会わせてほしい、息子と話したいと言い散らしました。夫はそれを信じ、「私達は悪いことをしていない。警官も私達のために考えているから息子を呼び戻して、上層部にはっきりした態度を示さないといけない」と言い、1日中息子を探す方法を考えていました。それは娘や、息子の友人、同級生などを不安にさせました。しかし、私たちはやはり息子と連絡が取れませんでした。
2009年、息子はきれいな女の子を連れて戻って来て、私に気に入ったかどうかと聞き、彼女と結婚したいと言い出しました。私と夫は非常に喜び、やっと結婚して家庭を持つようになるのだから、これからはそれほど軽率な事がなくなり、これから平穏になるだろうと思いました。私たちは慌てて結婚式を行いました。その後、私の身体はますますダメになり、苦しくて耐えられなくなりました。夫は毎日私を病院に連れて行きました。最も苦しかったのは、子宮筋腫により続いていた出血のため激しい貧血を起こし、手術をしなければならないことでした。私が入院しようしていた時、息子から電話があり、嫁が間もなく出産するから、私に手伝いに来てほしいと言いました。息子の嫁の面倒を看るのは私の責任ですから、行かなければなりません。そして、入院を取りやめ、自然に任せようと思い、息子のところに行きました。
ちょうど嫁の母親もいました。その時になって、私はやっと息子は修煉を放棄せず、嫁一家はみな修煉者であることを知りました。彼らは毎日一緒に煉功し、夜は学法していました。嫁は性格が非常によく、身体は痩せていましたが、大変丈夫でした。また年長者を尊敬し、幼いものをいたわりました。嫁の母は非常に熱情あふれる人で、常に私に学法と煉功するよう励ましてくれました。しかし、私は息子が迫害されたことで常に心がふさぎ込んで、晴れることはなく、修煉する勇気がありませんでした。この状態は1年以上続きました。その後、少しずつ修煉を始めました。しかし、息子に私が煉功していることを知ってほしくなかったので、毎日密かに嫁の母から学んでいました。間もなく、数十年間私を苦しめていた不眠症、神経性頭痛、慢性腸炎と胃炎、膝の関節痛など全てなくなりました。法輪功の病気治療の効果は本当にすばらしいものでした。私はあまりにも嬉しくて、息子に「私も煉功しているよ」と告げました。息子も非常に喜んでいる様子でした。私たち4、5人は常にグループ学法と煉功をしました。子供は真ん中に座って遊び、一家は非常に穏やかな生活を送り、嫁との間に争いもなかったのです。これは本当に素晴らしいことでした。それ以来、私たちは病気にかかったことがありません。私は心より私を救ってくださった、慈悲で偉大な師父に感謝しています!
二、娘が法を得て 親子で共に精進する
体調がよくなり、私は大法が素晴らしいということは知っていましたが、どうしてこれほど素晴らしい功法を政府が反対するのか、しかもこれほど酷く迫害しているのか、理解できませんでした。師父はこれほど慈悲であり、すごい神通力を持っていらっしゃるのに、どうして弟子たちは苦難に遭い、ひいては命を失うのか。私の息子は幼いころから善良で、悪いことをしたことがないのに、どうして迫害され、苦しい日々を送らなければならなかったのか? 息子の嫁はインテリで、修煉時間が長く、知っていることも多かったのです。これらの疑問を嫁に聞くと、彼女は非常に忍耐強く私にたくさんの大法の真相を教えてくれました。私と一緒に師父の各地での説法を読み、また『九評共産党』のビデオも見ました。私は心から今回の迫害の原因は、単に人が人に対する迫害でないということを知り、嫁に私を助けて声明を発表するよう頼みました。かつて大法に対する疑いと不正な考え方、言動をすべて無効にする声明を発表するように頼みました。
一度、私は腕があまりにも痛くて、ほとんど持ち上げることが出来ず、動功ができませんでした。そして、私は坐禅をやり続けました。身体が汗だらけになり、非常に苦しかったのです。また痛みで私は一晩中、眠れませんでした。嫁の母は驚いて「あなたの息子が帰ってきたら、病院に行ってみましょうか」と言いました。私は「大丈夫です。もう少し我慢してみます」と答えました。言い終わった途端、痛みが直ちにぐっと軽減されました。少しずつ私は腕を持ち上げることができ、まるで何もなかったかのようでした。大法はあまりにも不思議でした。この数年を振り返ってみると、私は病気にかかったことがなく、薬を飲んだこともなく、非常に身体が丈夫になりました。すべて師父が下さったもので、私は心より慈悲で偉大な師父に感謝申し上げます!
私は悟性があまり優れておらず、ずっと息子が迫害されたことで気持ちが晴れず落ち込んでおり、それほど精進しませんでした。さらに外に出て大法の資料を配布し、真相を伝える勇気もありませんでした。娘は2003年に胃から出血して、それから10年後に彼女は医者になりました。しかし依然として身体は病気だらけで、自分のために薬を入れる引き出しまで用意しました。娘は常に現代の医学では病気が治療できない、自分は苦しくて仕方がない、「医者は自分の病気を治療できない」などの話をしました。しかし、大法のことを言うと話を止められました。大法に参与しないし、評価しないという態度でした。私は息子が労働教養されたことが、彼女を非常に大きく傷つけたことを知っていました。
2014年旧正月の時、娘は息子のところを訪れ、一緒に新年を過ごしました。旧暦の1月2日、同級生の家から戻って来た娘は息子の嫁に、「私の同級生の叔母は法輪功をやって、肝臓がんが治ったと聞きました。肝臓がんが治るなら、私の病気は法輪功にとって、チッポケなことでしょう。そうでしょう」と言うと、息子の嫁は驚いて娘に、「教えてあげます。試してみましょう」と答えました。娘は第二式の法輪を抱く動作をすると全身が熱くなり、手の上でものが回っていました。2日後、娘は他所に行き仕事を始めました。私は息子夫婦と相談し、嫁の母と一緒に娘のところを訪れて共に学法し、煉功しました。
初めて学法し終わった時、娘は煮たばかりの漢方スープを見ながら、私に聞きました。「私は身体が随分楽になりましたが、この薬を飲むべきですか」。私は「自分で決めなさい。どうしてもいいから」と答えました。娘は「お金を費やして買って来たし、また心を込めて煎じたから、飲まないと無駄になるね」と言いながら、一口飲み干しました。それから娘は毎日退社して帰宅すると、私達と一緒に学法し、煉功しているうちに、薬を煎じることを忘れてしまいました。娘は大法の素晴らしさに感動して、涙を流し、「この法はあまりにも素晴らしいです。多く煉功し、多く学法してもいいですか」と私に聞きました。当時、私は学法をあまり多くしておらず、悟性も優れていなかったため、「これで充分よ、煉功は1日に1回でいいし、時間があれば学法を多くすればいい」と伝えました。
私達が来ている間、娘は毎日風邪気味で鼻水を流していました。また下痢をしたり、腰には皿の大きさの疱疹ができて、2日間尿に血が混じっていました。しかし、それほど苦しいことはなく、逆に非常に楽に心地よく感じていました。私は娘の身に起きている不思議な変化を目にして、心が晴れました。週末になると娘は部屋の整理をし、漢方薬2袋と西洋薬1箱を整理し始めました。「師父が私の身体を浄化してくださったので、すでに病気はありません。これらの薬は捨てます。西洋薬は会社に持って行き、必要な人にあげます」と言いました。
2カ月後、私が再び娘のところを訪れた時、娘は「あなた達はなぜ早く私に大法の真相を伝えなかったのですか。なぜ早く法輪大法の素晴らしさを教えてくれなかったのですか。なぜ私にこの法をやれば病気が治ると教えてくれなかったのですか。これほど素晴らしい功法が目の前にあったのに、私は見て見ぬふりをし、これほど長年苦しんで来ました」と、行く度に言いました。私は「お母さんの悟性が良くなくて、またよく修めていなかったから、あなたが言わないでと言うと、さらに続けて説明する勇気がなかったの。他の言い方で大法の素晴らしさを伝えればよかった」と答えました。娘は私に「どうやったら師父の広大なご恩に応えられるのか、師父は何がお好きですか」と尋ねました。私は「師父は何も必要とされません。ただ私達が三つのことをしっかり行えば、それこそ師父に対する応えになります」と回答しました。娘はすでに会社で大法を宣伝していることや、また、1人の患者がすでに新しい学習者になったと教えてくれました。その新しい学習者は非常に能力があり、彼女らは自分で材料を購入し、昼夜を分かたず『九評』と法輪功の資料を作成していました。また時間があると一緒に出かけて資料を配布していました。学法したい人がいると、彼女らは『轉法輪』を制作し、新しい同修に提供しました。
娘は「師父は私たちに法を正す進展に追いつけるよう、真相を伝えて人を多く救うよう要求されています。『九評』はまだ読んでないけれど、私はこの資料が人を救うものであることを知っているから、まず配布し、後で読みます」と言いました。彼女はまた私をつれて外にでかけ、知らない人にも直接真相を伝えました。
娘がこれほど精進しているのをみて、私は恥ずかしくなりました。この数年間、強大な恐怖心のため、私は恐れながら大法を始めましたし、出かけて資料を配布することができませんでした。私はやっと資料配布に出かけるようになり、さらに、真相資料と『轉法輪』の制作法を教えてもらい、揺るぎなく人を救う一歩を踏み出しました。私は今では、正々堂々と資料配布が出来るようになりました。
娘にはいろんな変装法があります。いろんなカツラと眼鏡を購入し、常に私が見ても分からないほど変装して、いろんなところに行き、資料を配布します。監視カメラがあっても、怖がりません。
三、互いに精進し、協力し合って さらに多くの人を救う
息子の家に戻ると、私は娘の精進している状態をみなに伝えました。息子の嫁も非常に励まされ、優秀な新しい学習者だと感嘆しました。息子は涙を流しながら、「この数年間、妹は私のため多くの苦しみを舐めました。妹が法を得ることが私にとってはずっと非常に大きな願いだったのです。今日精進しているだけでなく、悟性が優れていて、これほど早く真相を伝え人を救っているとは非常にすばらしいです。これは私達に精進し、人を多く救うようヒントを与えています」と言いました。一度師父の説法を学んでいた時、「いくら困難な情況であっても三つのことをしっかり行うべきです。衆生を救い済度するのは大法弟子の責任です!」[1]という内容を目にしました。そうです、法を正す時期に生まれたのに、人を救わなくてどうしましょうか。これは師父のお話を聞いていないことではないでしょうか。私は最低でも出かけて資料を配布すべきだと思いました。
私達も設備と材料を購入しました。私は家で食事を作り、子供の面倒をみながら、資料を印刷し、大法の書籍を制作しました。息子たちが休みになるとみな一緒に資料配布に出かけました。はじめて息子夫婦、嫁の母と一緒に資料配布にでかけた時、私は緊張のあまり、資料を手に持っていると両脚が震えだし、それから手も震えだし、話すことができませんでした。私は「私は人を救うために出かけてきたのに、これほど緊張してはいけない」と思い、すぐ発正念しました。まもなく私は穏やかになり、資料の配布も非常に順調でした。帰宅後、私は非常に嬉しくなりました。清々しくなり、身体は浮き上がるように軽くなりました。
息子の嫁の忍耐強い指導の下で、私は資料を印刷することを学びました。お昼に息子たちが出社すると、私は自宅で家事をやり、子供の面倒をみて、資料を印刷します。週末になると、嫁の母親を呼んできて、子供も連れて一緒にでかけます。息子夫婦が車を運転し、一緒に資料の配布をしました。それから、私たちはずっとこのような状態を続けています。平日に私が資料を印刷し、週末になると皆一緒に出かけて配布します。子供は車の中でとても静かで、騒々しくありません。私たちは非常に良く協力しあって、毎回配布する資料もますます多くなりました。人を救うことは私達の重大な責任であり、私が最もやりたいことでもあると、しみじみと感じました。
田舎で数十年間生活する中で、私と息子の善良さや情熱、誠実さは村の人々に非常によい印象を残しました。その間、村のすべての人が息子が迫害されたことを知っていたため、私は故郷に戻っても真相を伝える勇気がありませんでした。しかしこの数年間、学法を強化し、家族で集団学法をしっかりとしてきたので、ますます私達一家は故郷の村民らが救われる唯一の希望であり、彼らは皆救い済度することを待っていると感じました。
長い間、息子は家に帰ると幼い時からの友人や親戚らに法輪功の真相を伝え、三退を勧めました。この2年間、師父の加持の下で、私も人々に直接真相を伝え始めることができ、故郷に帰ると相次いで友人や隣近所の人たちに会い、三退を勧めました。私は話ベたな人間ですが、彼らに会うと多くの真相がすらすらと口から出てきます。知らない内にたくさんの人を三退させました。彼らが三退した時、私はよく涙を流しました。また1人の生命が救われました。これらはすべて師父がやっておられるのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文: 『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』