文╱イタリアの大法弟子
【明慧日本2018年9月10日】ある時、歩行者天国でイタリア人に法輪大法を紹介しました。通りかかりの中国人観光客もいたので、私達は彼らに追いついて真相を伝えました。私の修煉状態があまり良くないため、話しかけた言葉に重みがなく、説得力がありませんでした。どうしてこうなったのかと考えました。その後、「私はただ自分のために行なっているのではないか? 完全に自分のため、自分の威徳のために行なっているのではないか」と突然気がつきました。「だから、自分には正念がなく、他人のためという心がなかったのではないか」と分かりました。最近、この人心を取り除くべき時期に来ているように感じ、いつもどうすればこの私(し)を取り除くことができるのかと考えました。
師父は「利己は今までの宇宙の根本的な属性であり、成住壊滅、生老病死もこの属性によって必然的になったのです」[1] と説かれました。私(し)は私達の生命に深く長く根を下ろし、或いは生まれながらにして身に付いているものだと思いました。今回、師父は法を正し、そして「将来の法は圓容であり、公のためのものです。宇宙の根本的な属性の変化によって、宇宙の過程、生命の特徴にも根本的な変化が生じました」 [1] と、はっきり説かれました。
修煉を始めた当初、私は師父が法の中で他人のための生命になるようにと説かれたのを見て、心の中で、「どうして他人のための生命にならなければならないのか? 理由が分からないし、やり方も分からない」と思いました。そのため、私はこの問題をこれ以上考えませんでした。その時は、自分の私心の存在に気づかず、そうすべきであると考えていました。時間が経つに連れ、この私心がますます顕著になりました。
私(し)はすべての執着の源です。私(し)のため、闘争心が生じ、自分を顕示し、自分が得たために歓喜心が生まれ、他人に嫉妬します。全てはこの私(し)を守るためです。私(し)は心を狭くさせ、苛立たせ、人を恨ませます……、私(し)は人間を苦しめるすべての根源なのです。
この私心を取り除くには、まず観念を変えなければなりません。「他人のために考える、この考え方が素晴らしい。それは師父が私達にくださった知恵を、私は受け入れよう」と考えました。最近、修煉において、私は私(し)を取り除くことに特に注意を払い、他人のための生命になるようにと、いつも自分に言い聞かせていました。そうすると、私は生命には私心がない時の静けさが感じられました。真相を伝える時、私心がなければ、私は焦りも苛立ちもなく、言い出した言葉がすべてが理にかなっていました。ただ、今の私はたまにしかこのような状態に到達できません。他人のための生命はこれほど素晴らしく幸せになれるのです。私心は私が自由自在にできない原因になっていました。修煉の中で、私がその考えを最初に受け入れた時、その後のこの理念の偉大さを心から敬服するようになりました。
師父は「修煉によって道徳性も高められ、真の善悪、良し悪しの分別がつき、人類の次元から抜け出すと同時に、やっと真実の宇宙及び異なる次元、異なる空間の生命を見たり、それらに接触したりすることができるのです」[2] と説かれました。
現在の次元では、私は真の善悪、良し悪しの分別ができるようになりました。寝る前、私は「必ず他人のための生命になろう」と思うと、口元が自然と上に上がり、笑顔になります。それは生命が本来のあるべき姿ではないのではないかと私は理解しました。私は今始めたばかりですが、この私心を完全に取り除くには、まだまだ時間がかかります。これから、出会ったすべての些細な事においても、私はできるだけ他人のために考えるようにし、私(し)を取り除くように努力します。
個人的な体得です。不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をよろしくお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」