師父がおられるから、私は怖くない
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文/中国の大法弟子が口述し、同修が整理

  【明慧日本2019年2月5日】

 私は1998年に法輪大法の修煉を始めた弟子で、今年68才です。法輪大法の修煉を始める前は、人間関係の複雑さや名利の場での言い争いがいやになり、私は仏教に帰依しました。その5、6年間、密教、浄土宗など全てを学びましたが、どれも何の変化もなく、心の中で自分が本当に欲しいものではないと感じ、正法を求めてあちらこちら探し続けました。

 ある日、法輪功学習者が私に『轉法輪』の本を見せてくれました。本を開いて『論語』を読んでみると、今までに無い震撼を覚え、一昼夜をかけて寝ずに一冊全てを読みました。私の心はとても満たされて嬉しかったのです。今回、やっと本物を見つけました! これこそ正法のものであり、宇宙の法であるとわかり、過去の全てのものを放棄て大法の修煉を始めました。その時、五台山の和尚やラマ僧は、私が法輪大法を修煉しているのを知り、大法修煉を止めるようにと忠言しましたが、「誰も私を止めることは出来ません。私は法輪大法を必ず修めます!」と言いました。

 昔は侠婦(きょうふ)で、今は大法弟子

 私は公務員の家庭に生まれ育ち、父は地元の武装部の部長で、母は婦女連合会の主任です。環境が人を造るという話がありますが、森の中で育てられた私は度量が広く、生まれつき豪放で正義感が強く、男の子のような性格の持ち主だと自負していました。子供の中でも一番年長で、4人の弟と1人の妹がいるため、私はまるで雌鶏が我が子を守るように弟と妹の面倒を見てきました。 弟や妹が誰かに少しでもいじめられると、私はすぐに闘争心丸出しで争い、誰も怖いと思う人などいませんでした。当時、父親は森に狩りに出かける時、よく私を連れて行き、射的を教えてくれました。父は大きな銃を持ち、私は小さな銃を持ち親子ともに威風堂々としていました。

 そんな私は中国共産党には少しも好感が持てませんでした。特に文化大革命の後、父は一夜の間に「反革命者」の汚名を着せられ、車の上に押さえ付けられて引き回され、つるし上げられました。それを見た私は「お父さんはこんなに良い人なのに、なぜつるし上げられるの?」と思い、中国共産党を疑い始めました。当時、私はまだ16才でしたが、大きなこん棒を持って車の後ろに付き添いながら、「誰がお父さんを殴れるものか! 私は命がけで守るぞ!」と叫びました。結果的に、父を殴る者は誰もいませんでした。

 私は地元の侠婦になり、よく弱い者の味方になり、強い者をやっつけたりし、怖いと思う人は誰もいませんでした。学校に通う時、私の集団と他の集団の者達が何か言い争いになり、そこで集団のトップ同士が言い争う時、私は頭にきて椅子相手に向けて投げたら、よけそこねた彼はたちまち血だらけになりました。

 私の両親はとても善良で温厚な人なので、当時、勝ち気な私は両親の悩みのタネでした。母は、「うちの家族は皆まじめなのに、なぜあなたみたいな子が生まれて来たんでしょう」といつもぼやいていました。

 負けず嫌いな私は結婚後、他人の家に何か珍しいものがあると聞くと、それを欲しがっていました。他人の家が大きかったら、我が家も大きくしないといけませんでした。仕事の便宜上、家には少なからず板やガラス、レンガ等の建設資材がたくさんありました。後に街で火災が起きて、風向きが悪くこれらを全て焼き尽くしました。当時、私はすでに修煉を始めていたので、すぐに「これらは全て不義の財だ! 私が所有すべきものではなかったのだ!」と悟りました。

 修煉を始めると、私はすぐに別人のように変わりました。過去の私は男まさりで、誰一人怖いと思うものがない強者で、侠婦とか女実力者などと呼ばれていましたが、実は道からだいぶはずれ、宇宙の特性の「真・善・忍」からかけ離れて、毎日笑顔すらありませんでした。

 私は大法の中で自分を正していき、常に「真・善・忍」に従うように自分に求めました。数年後に故郷に戻った後、仲間と同僚の皆が「あなたはこんなに良い人に変わったのね、いつも微笑んでいるし、心根も優しくなったわね、法輪功は人をこんなにも良い人に変えられるんだね」と言いました。私は笑いながら彼らに「昔の私はどんな人だったのか?」と聞きました。「本当のことを聞きたいの」と言うので、私は「もちろんよ」と言うと、彼らは「過去のあなたはまるで精神病患者みたいだったわ。すぐにむやみにごねたりするので、誰もあなたの気を損なうようなことはしなかったのよ」と言いました。

 師父は私を生き返らせてくださった

 息子が海外で商売をしていましたので、私も海外に行きました。その時は常人の生活に追われて、修煉を緩めてしまいました。そのため、1999年の年末に不治の病で癌の末期だと診断され、また敗血症等の合併症を伴い、瀕死の状態でした。その時、私はまるで元神が体から離れ、病院の天井に吸着されたように感じ、娘が「お母さん、死んじゃだめ!」と泣く声が聞こえました。

 私はすぐ自分は法輪功修煉者であることを思い出し、「私には師父がおられます。死にたくありません。師父、助けてください!」とお願いました。こう思った途端に私の元神は戻り、すぐ座り、子供たちに「帰ろう、お母さんはもう大丈夫だよ。家に帰ろう。煉功しに行くよ」と言い、それからは、勇猛邁進し、体もすぐに回復していきました。

 その時、中国共産党の法輪功に対しての弾圧はエスカレートしていて、中国全土は恐怖に包まれ、多くの大法弟子は北京に実情を訴えに行きました。私は大法弟子の1人として、師父は私に第二の命をくださったので大法のために公平なことを話すべきだと思いました。そして正法修煉の道のりを歩み始めました。ここでは主にどのように生死を放下し、正念で関を乗り越え、旧勢力の迫害を打破し、師父が按排してくださった修煉の道のりを歩んだ体験を話したいと思います。

 正念で関を乗り越える

 私は、2000年11月に法を実証しに北京に行きました。天安門に着いたら1人の警官に止められ、「お前は法輪功学習者ではないのか?」と聞かれ、「そうです!」と答えると、ただちにパトカーに乗せられ、天安門公安局の後ろの園庭に連れて行かれました。そこで、1人の警官が70才ぐらいの年配の学習者を殴っていましたので、私は警官の警棒を奪って投げ捨てました。警官は「お前とは関係ない」と怒鳴りました。私は「彼女はあなたのおばあさんくらいの年齢です。それでも殴るのですか」と言いました。

 その後、私は密雲刑務所に連れて行かれましたが、少しも怖がらず警官に「私は元々末期癌の患者で死にそうだったのです。師父が私の命を救ってくださいました。法輪大法は実に素晴らしいです」と伝えました。警官に地元の住所を告げろと言われましたが、私は「地元の警察署の警官を巻き添えにしたくありません。それに警官が処分を受け仕事を失うのを見たくありません。今仕事を探すのは大変です」と言いました。たぶん警官は私自身が迫害を受けている時にも他の人のことを思い、善心が現れ、ある年配の警官は感動したようで「彼女を釈放しろ。ここはとても邪悪な所だ、もう来ないように」と言って、若い警官に家に帰るチケットを買って来るように指示しました。

 私には恐怖心がなく、心理状態が良かったため、師父のご加護の元でこれらの関を乗り越えることができました。

 間もなく電話の盗聴により、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の警官らは、私を公安局に連行しました。警官が私を取り調べる時、黙ったり、あるいは「知らない!」と答えたり、何を聞かれても「知らない!」と答えました。同修が私を探しに行く時、待ち伏せしていた警官らに捕まえられるのを恐れ、同修に電話をかけて彼女に私が連行されたと伝えました。同修が分からないようなので「私は公安局にいます」と話したら、ある警官が不意に私を殴り「お前が公安局にいることは教えないと言ったではないか」と怒鳴りました。

 私も頭にきてテーブルを叩き「道理をふまえて容赦なく話を聞くはずがないし、なぜ人を殴るのですか。どんな法を犯したのですか。私の話が間違っているのですか。ここは公安局ではないのですか。ケンネル(犬小屋)なのですか」と聞き返しました。警官らは私に揺れ動かされ呆然として、長い時間誰も喋りませんでした。私は、また警官ら真相を伝えました。私たち法輪功を修煉する人は全て良い人で、師父は私達に「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで」[1] と教えてくださったので、殴り返さなかっただけです。過去の私だったら命懸けで向かっていっています。私も昔は姉御(あねご)と呼ばれていて、誰も逆らう者はいませんでした。

 警官らは、私が絶対に警官らの言うなりにならないのが分かり、私を釈放しました。

 しかし警官らは引き下がろうとせず、我が家に来て家から出ないように監視し、また私を拘置所に入れると脅迫しました。私は「末期がんの患者で、法輪功を修煉して病気が治ったのです。私を拘置所に入れると何かあった場合、私の娘は絶対訴えます」と言うと、ある警官も「今まで他の人の家に行って、任務を遂行したことがない」と言いました。私を監視しに来た4人の警官に真相を伝えました。真相がわかると警官は「おばさん、なぜこんなにやさしい人なの」と言いました。19日以降、私が全く言うことを聞かなかったため、警官らも手詰まりで撤収するしかありませんでした。私は、師父の慈悲が、他の空間の苦難を溶かしてくださったと分かりました。

 2001年、私はまた海外の息子の所に戻りました。私はそこで毎日真相の新聞を配りに出かけ、中国から来た中国人に真相を伝え、あっという間に10年が過ぎました。この期間、真相を理解していない人に通報され、国内安全保衛部門に指名手配されました。

 2009年に、この国により送還されました。その時、息子はある人に誣告(ぶこく・わざと事実を偽って告げること)され、訴訟に巻き込まれ、訴訟の危機に直面しました。私は度重なる苦難に陥りました。家族のことも私に向かって来たものだと分かっていますので、ずっと正念を発し、師父にご加護をお願いしました。同修も私のために発正念をしました。クリスマスイブの日、息子から突然朗報があり、「もう大丈夫だよ、例の訴訟の件は撤回されたよ!」と嬉しい知らせがありました。ずっと私を手伝ってくれた同修達からも「アメリカに行くか、中国に戻るか、二つの選択肢がある」と教えてくれました。私は感動し涙が出て、師父の慈悲に感謝しました。師父が、中国は正法の主戦場だと説かれたことがあり、帰国することを決意しました。

 法輪功学習者として、またいわゆる特殊な人物として、税関を通ることは何を意味しているかを知っていました。また、中国での邪悪な迫害はまだまだ続き、情勢は依然として厳しく、立ち向かうのがどんなに厳しいことかを知っていました。息子は私を見送る時、私を抱きながら「お母さん、怖がらないで、僕がいるから」と言いました。息子は口では慰めているのですが、心の中ではとても怖がっていることを知っていました。「私には師父がおられるのよ! 師父が守ってくださいます!」。息子はすぐに察して「そうだ、そうだ、師父が守ってくださるよ!」と言いました。

 2009年の年末、師父のご加護の元で、私は無事に帰国することができ、中国の大法修煉者達の正法修煉の仲間入りをしました。帰国して間もなく、私は重要人物を救うプロジェクトを担当しました。

 但し、他の空間の邪悪は、私に対して依然として虎視眈々と機会を狙っていました。帰国してすぐに私を迫害しようと企みました。

 翌年の春の終わり頃、国内安全保衛部門の警官らは私の家族を通じて、私を探しました。その前にも、警官らは3力月間私を探しており、私の家族を騒がしたり脅迫したりしました。私は師父が説かれた「困難にぶつかったらそれを避けて通ろうとしてはいけません」[2] を思い出し、家で警官を待つことにしました。

 国内安全保衛部門の警官ら数人が我が家にやって来たので、警官らに真相を伝えました。「あなた達は私に会うのは大変です。なぜそんなに苦労して私を探すのですか。法輪功を修煉する人は皆良い人です。良い人なのになぜ捕まえるのですか。あなた達警官は、悪い人を捕まえるべきではないのですか。今日ここへ来たからには皆座って聞いて下さい。なぜ私が法輪功を修煉するのか、法輪功がどんなに素晴らしいものかを話します」

 警官は「あなたに何もするつもりはない、我々の仕事に協力してもらいたい」。私は、「法輪功を修煉する人は皆賢い人です。賢い人は愚かなことをしますか。地球を丸ごとくれても、私は自分の魂を売りません」

 最後に警官は私にご飯をおごってくれた後、家まで送ってくれ、私と友達になりたいと言いました。「警官として友達になるのは不可能です。普通の人として友達になるのであれば、我が家は24時間あなたのために開いています」と答えました。

 2001年の秋、私の電話が監視されたため、他の省の国内安全保衛部門は、また私を連行しようと企みました。私は心の中で師父に「本当の試煉がまた来ました。私はしっかりとこの関を乗り越え、生死を放下します」と言いました。尋問された時、心の中はとても平然としていて「常人の心を放下できるかどうか、これは真に常人を超えることに向かっていくための至難の関なのです」[3] という師父の法を暗唱しました。

 尋問する人に対して「私は元々末期癌の患者で、もうすぐ死ぬところでした。師父が私の命を救ってくださったから、私の命は大法からいただきました。あれから10年も多く生きてきたので、死ぬのは怖くありません。私達をそう簡単に侮(あなど)らないでください。 法輪功を修煉する人は皆いい人です。いい人を侮るのも犯罪です。私が見つからなかったら、私の娘と娘婿を追求するから娘婿は恐ろしくなり、娘と離婚しようとしています。もう二度と我々の生活を妨害しないで下さい。あなた方の行動は土賊の行為です。私に何を協力しろとと言うのですか。あなた方に協力して土賊になれというのですか!」と言いました。私は話し終わった後、心の中で、「警官らを動けないようにして!」と念じると、2人は本当に動けなくなりました。私は言い訳をして出ようとし、真相を知っている警官の助けの元で、無事にここから出ることができました。実は、これは師父が再度、私を危機から救ってくださったのだと分かっていました。

 師父、ありがとうございます! それから、私は二度とかき乱されることはありませんでした。

 2016年9月、私は汽車に乗り他の地域に帰省する時、改札口で拘留されました。警察署の署長と5人の警官らがいました。私はまっすぐ署長のテーブルの前に行って真相を伝えました。ある警官が電話で「署長、指示通りに捕まえました」という声が聞こえました。続いて、警官は拘留所に電話して、パトカーを呼んでいましたが、私は少しも心が動ずることなく、怖がることもありませんでした。心の中で「真相を伝えたら、私は出て行く」と思いました。

 私は警官に真相を伝えました。「法輪功を迫害するのは違法です。憲法には、公民には信仰の自由があると定められていて、国家弁公庁と公安部が認定した14種類の邪教には法輪功は入っていません。あなた方は、法律を知らないのですか? この私にも及びませんね。現在はどのような情勢か知らないのですか。法輪功を迫害した李東生、周永康、薄熙来、徐才厚らは、現在全員逮捕されました。悪の報いを受けています」と言うと、署長は話の途中で「着服と腐敗が原因ではないのか?」と聞きました。「それは表向きのもので、本当の原因は法輪功を迫害したためです。そのほか多くのものを着服した警官らは、なぜ制裁を受けていないのか」と聞くと、「上層部の者から逮捕するように指示された」と言いました。「上の指示が間違っていても執行するのですか。そうすると、あなた方は一生責任を負うべきです。現在、警察は終身責任を負うという政策が出ているはずですが。法輪功は佛法です。江澤民は法輪功を迫害した張本人なので、いつかは必ず天罰を受けます。審判される時、あなた方はどうするのですか。迫害に参加した人は全員審判を受けるのですよ! 自分達のために道を残しておいた方がよいのではありませんか。あなた方のためです」と言いました。

 最後に私は真相を伝え終わったと思い時計を見ると、あと5、6分で汽車が発車する時刻なので「私は汽車に乗らないといけません。親戚が私を待っています」。署長は横でビデオを取っている警官に、「まだ撮っているのか。バックに入れるのを手伝え」と叫ぶと、若い警官は慌てて警官らが取り出した食べ物や日用品を私のバックに戻すのを手伝ってくれ、私は急いでバックを持って外に出ました。

 署長は「慌てないで、3番目のプラットフォームだ」と教えてくれました。私は、「チャンスがあれば、また会いに来ます。その時また話しましょう」と言うと、彼はうなずきました。

 私は急いでプラットフォームへ行き、乗った途端に汽車は汽笛を鳴らし発車しました。

 私は心の中で「師父、ありがとうございます、師父、ありがとうございました!」と言いました。全ては師父の手中にあり、全ては師父が巧妙に按排してくださいました。

 続いてその年の11月、私は海外から入国する時、1箱の大法の本を持ち帰りました。自分に正しくない考えがあり、邪悪に隙を乗じられてしまい、これらの本が税関により検出されました。国案警察は、私と本を差し押さえました。その時、私は汽車に乗りバスに乗り換える際に、一部の乗客にすでに真相を伝えていました。

 警官が私を連れて行く時「今回、またお前はここに来たが、逃げられるのか」と言いました。私は心の中で、「あなたの言うことは無効です、私の師父が全てを決められます!」と思いながら、真相を伝えました。「情勢が変わっています。大法弟子に善を持って接すると福報が得られます」と言いました。

 6、7時間の正と邪の対決で、他の空間の邪悪は消滅されました。最後に警官のトップは「資料もないし、彼女を釈放しろ」と言いました。

 このようにして、師父のご加護の元で私は再度危険な状況をくぐり抜けて、状況が好転しました。同じ汽車に乗っていた乗客たちは私はもうおしまいで、ここへはもう戻って来ないと思っていたようでした。私が無事戻って来たのを見て、非常に嬉しい様子でした。そして感服し、私に親指を出して「凄い、法輪功は素晴らしい」と褒めてくれました。私は心の中では「修は己にありて、功は師にあり」[4] と分かっていました。

 全体で協力し、真相を伝え、衆生を救う

 この数年間、全体で協力する必要があることがあれば、私はできるだけ参加しました。特に顔を出して、ある程度危険性がある事柄については、協調人は私を呼びに来ます。協調人は、私には度胸があり、恐怖心がないのを知っているので、同修達を引っ張って行くように仕向けます。例えば、同修を救ったり、弁護士を探したり、公検法(公安局、検査庁、裁判所の略称)の人に真相を伝えたりするなど、同修を引っ張って参加するようにさせます。

 その他にも、私は法輪功迫害の真相資料を郵送することを続けました。公検法、政府部門の人達に真相資料を郵送するには、郵便局のチェックが厳しく、身分証明書を提出する必要があります。そのため、いつもある同修は自分達が怖くて郵送できない真相資料を私に送ってきます。それを私はあまり快く思っていませんでした。「自分が突破しないで、人に頼ってどうやって自分の修煉の道のりを歩けるのだろうか」といつも思いました。

 法を学び、自分の考え方で同修に求めるのではなく、同修を包容すべきだと分かりました。そして、私は自分が全てを担当するのではなく、彼女達を連れて同修が自ら恐怖心を取り除き、自分の道のりを進めるように引っ張りました。

 人を救うプロジェクトに参加するほか、私は時間を見つけて真相資料を配ったり、ステッカーを貼ったり、どこにでも真相を伝えに行きます。ある年の冬、私は2箱の真相資料を持ち「私達は未来に伝えます」、「九評共産党」のディスクを持ち汽車に乗り、地元に行きました。汽車から降りたら、すぐに私は配り始め、一晩で全てを配り終えました。

 新年前に私は道端で真相のカレンダーを配りました。ある警官がこれに気づき近づいてきて「何をやっているんだ」と大声で叫びました。私は微笑みながら「福を届けに来ました。新年だから、あなたも要りますか?」と聞きますと、その警官は受け取った後、2歩進んでまた戻って来て「もう1本下さい」と言いました。

 それを見ていた数人の通りがかりの人は私に親指を立てて「法輪功は本当に凄い!」と言いました。

 結論

 20年間修煉してきましたが、もし私が自分の修煉の道のりをまとめると、ただ「何事も怖がらないでやって来た」だけだと思います。私は「怖がる心」を修めきりました。恐怖心がないため、どんな危険に陥っても冷静な態度で、どのように対処すれば法に従っているのかが分かります。江澤民を訴えた後も、ある同修が私に「あなたはある名簿に記載されているから、身を隠して」と言われました。私は怖がることなく、誰かが我が家に来る度に、それは真相を聴くために来たのだと思いました。私はどこにも行かず、来た人に真相を伝えることにしました。

 毎回、関を乗り越える時や苦難に遭う時、自分に対して「必ず乗り越えなければならない。必ずしっかり乗り越える!」と言い聞かせます。心性が求められるレベルに達し、法をしっかり学べば、師父が加護してくださるので、きっと成功すると信じました。師父を悲しませたくないし、腑抜けの弟子にはなりたくはなく、師父のご慈悲の済度を裏切りたくありません。

 この数年間、厳しい迫害の局面の中で、邪悪は私を虎視眈々とねらっていましたが、師父のご慈悲とご加護の元で何も危険なことはなく、師が法を正すことを手伝う道のりを平穏に歩み、実質的な迫害は受けたことがありません。私が遭ったこれらの関や苦難は、三蔵法師と弟子が天竺へ経文を取りに行くことと同じではないかと思う時があります。彼らは、81回もの苦難を経て経文を取得することができ、彼らには始終、菩薩と如来のご加護がありました。

 私にはこの世で一番偉大なる師父が随時ご加護してくださいます! 心を放下した後、「峰回路転」(紆余曲折があった後にまずまずの展望が開ける)とか、「柳暗花明又一村」というように、師父が苦難を溶解してくださいます。全てのことは師父が把握されています。私はただ弟子としてすべきことをしっかりすればよいのです。私達は心性が求められるレベルに達すれば、実質的な全てのことは師父がやってくださり、師父が私達のために耐えてくださっています。

 以上は、私が生死を放下し、正念で関を乗り越え、苦難を取り除いた修煉の体験を述べて、同修と交流し、励まし合いたいと思います。私達は師父と法を信じ、師父が按排してくださった修煉の道のりをしっかりと歩み、誓約を果たして円満成就し、師父に従い故郷に帰りましょう!

 注:
 [1]  李洪志師父経文:「シドニー法会での説法」
 [2]  李洪志師父著作:「各地での説法二」「二〇〇二年ワシントンDC法会での説法」
 [3]  李洪志師父著作:「精神要旨」「警告の言葉」
 [4]  李洪志師父著作:「轉法輪」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/12/17/378063.html)
 
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