明慧法会|明慧と私の縁
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文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2019年7月5日】私は2002年に法輪大法の修煉を始めましたが、同時に明慧との縁も結ばれました。私は『轉法輪』を読む以外に、毎日英文の明慧ネットの文章を読みました。当時、ドイツ語の明慧の文章が少なかったからです。暫く経って、ある同修が私に「明慧のニュース1篇を翻訳してくれませんか」と聞かれました。この文章をいまだにはっきりと覚えています。その内容は香港のたちの悪い立法に反対する文章でした。そのときから、私はすでに昔の誓約を果たすことを始めたと、その後わかるようになりました。そして私は殆ど毎日のように翻訳の仕事をし、また、校正の仕事もしました。そしてその後、協調の仕事にも参加しています。明慧の仕事で、私は内に向けて探すことができ、心性を向上させることができ、無条件に協力し合うことも出来るようになり、たいへん貴重な17年間を過ごしてきました。

 2004年のとき、選択する文章が少なかったのですが、私は配られた仕事を完成するだけではなく、プロジェクトに協力し、チームメンバーに責任を負わなければならなかったのです。本当のところ、私は人と関わりたくなく、自分一人で仕事をしたいと思っていました。それは「心や面子が潰れ、批判されること」を恐れ、多くの執着を持っていたからです。しかし仕事をする中で、師父のご加持と大法の指導の下で、私はますます自信を持つようになりました。しかし、時々仕事がうまく出来なかったりしたとき、自分が明慧をやる資格がないと感じたりもしましたが、そのような中で、なんとか明慧の仕事をやり続けて来られました。

 当時のプロジェクトの協調人は私に「我々の明慧の仕事は、私たちの将来の世界のためで、私たちを鍛え、それと同時に、同修たちの将来の世界のために、同修を鍛えることを手伝っています」と話してくれました。その言葉を修煉の中で私は時々思い出し、励まされました。この言葉が修煉の中で目標の一つである、「無私」ということが含まれていたからです。

 師父がずっと、私たちの明慧ウエブサイトを見てくださっていると私は知っています。私たちが疑問や恐怖、観念を放下し、誠心誠意に全力で仕事をやるとき、師父も一緒に手伝ってくださっていると思っています。例えば、私たちのプロジェクトがある時期、翻訳チームの協調人が必要とする頃に、必ずちょうどその仕事に適(かな)っている同修が現れました。私はそのとき、師父のご加護をはっきりと感じたのです。私たちが明慧の仕事の重要性を深く認識できたからこそ、毎回新たな改進の時期に多く考えなくても、進めることができたのです。

 私は明慧プロジェクトが重大な責任を負っていることに、この数年の仕事の中で徐々に認識していきました。

 師父は「ほかのマスコミが一つなくなれば、別のマスコミがその代わりになり得ます。明慧ネットがなくなったら、どのマスコミもその代わりにはなれません。ですから、明慧ネットは続けて運営されるだけでなく、しっかり運営しなければなりません」[1] とおっしゃいました。

 うちの協調人は「私たちは努力して明慧をこれまで以上によくやりましょう。私達が80%できたとしたら、明慧を見る学習者たちは真相を伝えるとき、80%の成果しか得られないかもしれません。明慧ネットは神韻のように、完璧なものにしなければならないのです。製品で例えていうと、足りない20%でこの製品が普通の製品かブランドの製品かどうか、決められるのです。その20%を足す努力をすると、完璧な製品になるのです」とよく話してくれました。

 協調人の話を聞いて励まされ、一番良いものを作り上げようと思いました。しかし、いざやろうとすると、その要求を満たすことは中々難しいことだとわかりました。例えば、文章のミスを無くし、ホームぺージの欠陥を見直したい気持ちがありますが、全部の全部をやり遂げようとすると、休まずに全ての時間を投入しても、やはりやりきれないと感じました。「私はどこからその時間を捻出すればよいのか」と考えました。「質が高くて効率的になるのは、多くの練習と育成が必要である」と思いましたが、「これらのことを考え過ぎると、かえって障碍になる」と私はまた改めて認識しました。師父が「難しいのは、実際その点にほかなりません」、「修は己にありて、功は師にあり」[2] と説かれているように、 私は「自分の心性を先に高めないといけない。師父を信じて、とりあえずやるべきことをやっていく」と考え直しました。それから、私は本当に努力することにしました。「自分の考えの中に阻害があると意識したら、すぐさまそのものを解体すべきだ。それから力をいれてやるべきことをやれば、きっと師父のご加持を得られ、より高い境地に到達することができる」と私は深く認識できました。チームに新しい同修が加入してきたとき、その同修の良いアイデアと能力も同時に持って来てくれました。チームにとても良い影響を与えてくれました。

 同修の長所を探し 同修を大切にする              

 明慧プロジェクトは特殊性があります。私たちは仕事の中で互いに自分の意見を主張したり、相手の間違いを指摘したりしています。私にとって、人からの批判が良いことだという考えを受け入れることが中々できず、辛かったのです。なぜかというと、自分が傷つけられることを恐れ、怨恨の執着心があるからです。自分の内に向かって執着心を探し、同時に人の間違いに善意を持って指摘し、イライラせず冷静に行なうことは私にとって、大変難しかったのです。とても時間がかかりましたが、同修の良い面を見るようになり、徐々に改善できました。現在の私は同修の良くない面をみると、すぐ自分の内に向けて探すようになり、それから、同修の良いところを見つけるようにしました。私は自分の基準で物事が間違いか正しいかを判断するのではなく、大法の基準で判断すべきだとわかりました。ですから、私はますます同修を大切にするようになりました。

 師父は「一部の学習者は修煉において、いつも外に向けて探し、外に向けて求め、外に向けて見ており、誰それが自分に優しくなかったとか、誰それの言ったことが気に障ったとか、誰それが非常に常人的だとか、誰それがいつも自分とトラブルを起こしているとか、自分の意見がいつも採用されないとか、それを理由に大法弟子が法を実証することをまったくしなくなり、ひいては怒った勢いで修煉をやめてしまいました。あなたは本当に誰のために修煉しているのか分からないのですか? この気に障ることがあなたの修煉のためのもので、あなたの人心を取り除いており、あなたの執着を取り除いているのだと本当に分からないのですか?」[3]と説かれています。

 私は「大法弟子として、どんな状況下でも、師父と大法を思い出し、自分の内に向けて無条件に探せば、私たちのプロジェクトと私たちのチームはきっと向上できる。これは私たちが返本帰真の唯一の道だ」と深く認識しました。

 引用符の出来事

 ある出来事についてここで話したいと思います。私はある協調人に「引用符(日本語では普通「 」の対を使う)の使い方が間違っている」と何度も注意されました。私はこれらのミスを繰り返し犯しているので、注意されましたが、改善しようとしませんでした。ある日、また、引用符の問題で間違っていると言われました。なんと今回は突然に、とても不安になりました。そして、内に向かって探すと「小さなミスだから、繰り返し注意されることに嫌気が差した」とわかったのです。修煉者として小さなことこそ、本当によくやり遂げているかどうかの現れであると認識し、師父の詩「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[4] を思い出しました。正法修煉の過程で大きな事だろうと小さな事だろうと区別がないのですが、それは表面的に見えるか見えないかの違いだけだと思います。あれ以来、私は引用符を正しく使うようになりました。もし、私のミスで読者に悪影響やマイナスなことを与えたとしたなら、その読者が救えなくなる可能性があると考えました。

 恩に感謝する

 文章の最後の校正と編集の仕事を通じて、自分が中国の同修と全世界の同修と繋がっていることを感じました。迫害の文章を読むとき、いつも中国の同修の「忍耐力」と固く信じる「堅信の心」に敬服しました。同修たちが心から師父と大法に対して固く信じているから、あそこまで出来たのだと思います。修煉体験の文章を読むとき、いつも同修の純粋で清らかな心に感動します。自分が法に対する認識不足のところが啓発されたことがあり、自分の漏れを教えられたと感じることがよくありました。また、明慧の文章を読んで自分の心性を向上させ、パワーをもらうことができました。大法弟子たちの心は「真・善・忍」に満ちているからです。

 明慧プロジェクトに参加するこの修煉の道での体得を書きました。明慧20周年の際して、一番良い行ないをしたと私は思っています。師父の慈悲なる導きや励まし、啓発など、心から深く感謝いたします!! 振り返ってみると、多くのことがよく出来ていなかったかもしれませんが、いつも励まされ、師父に導かれ、修煉の道をこれまで歩んできました。長い間、ドイツ語明慧に貢献をし、共にこの道を歩んできた同修の皆さんに感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「ヨーロッパ法会へ」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「聖者」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/22/387637.html)
 
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