明慧法会|翻訳の中で得た大切な教訓
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2018年8月14日】

 師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は最近、私たちのプロジュクトにおいて他の同修と一緒に交流文を翻訳することになり、その過程で多くの心性の関に遭いました。時には少しずつ状況を理解し、1人の本当の修煉者としての角度からこの状況を見なければなりませんでした。しかし、これらの関に遭うことができたことに、とても感激しました。ここではこの関について共有したいと思います。全体像は見た目では簡単そうに見えますが、そこから大切なことを学びました。

 あ男性同修が男性の角度から文章を翻訳しましたが、私(女性)がその文章を読んだ時、作者は女性であるように感じました。そこで、私は作者の名前を調べようとしましたが、英文版では性別が載っていませんでした。そして、私たちのグループには中国語を話す修煉者がいなかったため、作者の性別をすぐに調べることができませんでした。しかし、以前、文章を翻訳した時、私は文章から作者が女性であるか、男性であるかをいつも感じ取ることができました。そしてあとで作者の名前を照査してみると、私の感覚が正しかったことが実証されました。

 ですから、今回も以前の経験を活かして、自分の「感覚」で文章中の人物の性別を変更しました。そして、原稿の締め切りまでに文章を提出しましたが、人物の性別を変えたことについては、翻訳した同修には通知しませんでした。なぜなら、翻訳した同修に異議はないと思ったから、説明する必要はないとかってに思い込んでいたからです。それにもう一つ、その同修との不必要な論争を避けたかったからです。なぜなら以前、その同修は多くのメールをいつも書いており、さらに、いつも話がずれていたからです。そして結局、他の修煉者も討論に加わりましたが、テーマがさらにずれてしまい、討論の初心を完全に見失ってしまい、最終的に実質的な解決案は出てきませんでした。今回、その同修は他の人の決定を受け入れることを学ぶべきだと思い、それで「彼に経験を与えよう」と思いました。

 現在、当時の状況を振り返ってみると、私は何もしたくなくなりました。

 数日後、その同修が私が翻訳に手を加えたのを知り、連絡をとってきました。「なぜ翻訳した原稿に手を加えたのですか、特に性別がすべて変わっていましたが」と聞いてきました。同修のメールを見た後の私の最初の反応は「自分を守る」ということでした。その同修がまたそこでああでもない、こうでもないと討論するのだろう、と勝手に思い込みました。他の人が手を加えたものをなぜ一度も受け入れられないのか、論争を続けていく必要はないのではないでしょうか?

 その同修にメールを出そうと思い「他の人が手を加えたものを受け入れることを学ぶべきで、なぜなのかを毎回聞く必要はない」と伝えようと思いました。「彼自身の翻訳」に執着してはいけない、と伝えようと思い、メールを打とうと思った時、私は「考え方が偏っている」と感じ、冷静でいられなくなりました。そして、心の中である結論を出しました。私はその同修に対して各種のマイナスの考え方を持っていました。そこで、私は試してみたくてたまらなくなり、その同修としっかりあれこれ弁論する準備を始めました。

 その時「彼が行う全てのことは、実際には私がやるべきことを、全て彼にやらせたいを望んでいる」ことに私は気が付きました。最初、その同修と接触し、誰が正しくて誰が正しくないかについて討論することを避けたいと思っていました。しかし今から、誰が正しくて誰が正しくないかについて、その同修と討論しに行かなければなりません。それはまるで、自分の影を見ているかのようでした。

 そこで、私は自分自身に相対さなければならないと決心し、以前のように、他の人と協力する時に、自分から逃げてはいけないと決めました。

 師父は「修煉の中で、皆さんは良いことに出会っても、良くないことに遭っても、すべて良いことです。なぜならば、それらは皆さんが修煉しているからこそ、現れたことだからです」[1]と説かれました。さらに師父は「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。これは修煉上の最も有効な手段であり、大法弟子が修煉する際の特徴です。いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」[2]と説かれました。

 本当のことを言うと、大事なことではなくても、長い時間を要しないと私は心を落ち着かせることができないのです。誰が正しくて、誰が正しくないかを討論しようとする執着心と、他の人をコントロールしようとする心を本当に取り除かなければなりません。私の脳裏には様々な考えが絶えず現れてきていました。そして私は「真の修煉者として内に向けて探し、この状況から私が学ばなければならないものを重視しなければならない」と決心しました。

 私は人を咎(とが)めるべきではなく、他人の角度から物ごとを見るように試みるべきだったのです。なぜなら、修煉者は他人に良くし、人のことをまず考えるべきだからです。また、修煉者は内に向けて探すべきだからです。そして、私は一層法を信じるべきだからです。旧勢力はただ他人を変えたいと希望し、旧勢力自身が変わることを望みません。そこで、私は正念を発して、私の空間場の中で絶えず外へと向けて探そうとする、私の悪い習慣を取り除きました。

 しばらくすると、私は冷静になりました。

 私は「彼が修煉して取り除くべきものが何なのかを考えるのではなく、この状況から私は何を学ばなければならないのかを考えなければならない」と自分に言い聞かせました。当時の状況を振り返ってみると、原文に作者の名前はありませんでしたが、直接自分の感覚に沿って私は性別を変えました。私の翻訳がその同修の翻訳よりも良いという、具体的な何らかの理由があったのでしょうか? 実際、このことについてはその同修よりも私の方が経験があると思っただけで、それがただ一つの理由でした。そして、私の解決策はさらによいのだ、と思ったのです。そこで私は手を加えても、それについたは、討論したがらなかったのです。さらに、私はわざと私の決定をその同修に知らせなかったのです。

 もし過去にいたならば、その同修に返事をし「私たちは能率を上げ、期限前に文章を翻訳し終わらなければならず、私たちは異なる翻訳を受け入れることを学び、うらんではいけません」と言ったかもしれません。しかしこれは実際、ただかき乱しているだけであり、根本的な問題を討論していませんでした。そして、私は「これは正に旧勢力が現在欲しがっている物だ」ということに気が付きました。旧勢力たちは私たちが絶えず討論することを望んでおり、私たちの協力関係を壊そうと望んでいたのです。そして「旧勢力の詭計(きけい・人をだます計略)のために、同修と私がどれだけの時間を浪費し、果てしない討論を行い、協力がいつも完全に停止してしまっていた」ことを私は驚きながら思い出しました。そして、その全過程は知らず知らずのうちに起きていました。今はこの影響を食い止めるタイミングである、と私は感じました。そして、私たちが自分の問題に気づいていなかったために、旧勢力はすでに何度も私たちに影響を及ぼしていました。

 私は師父の教えを理解し、師父と大法を信じることを強めなければなりません。それならば、私は法に基づいていない悪い習慣を必ず克服できるはずです。一塊の氷がゆっくりと私の心と頭の中で溶けて行くように感じました。

 私はその同修に1通のメールを送り、自分の考えを誠実に説明し、最初からその同修と討論することを避けたいと思っていたことを説明しました。それは自分には経験があると思っていたためだったことを説明し、自分を実証しようとする心を取り除かなければならないことに気づいた事を説明しました。そして、その中で悟った事を私は述べました。その同修が翻訳のために払ってきた努力を見ていながら、その同修の仕事を尊重していなかったことに対して謝りました。そして、私は改めて翻訳をやり治し、その同修の本来の考え方を加えました。これらはみな、私の胸の内の言葉でした。私は自分の念が正しいことを感じることができました。そして、自分の本当の想いを謙虚に伝えました。

 この同修は私に対してメールで感謝の意を表し、翻訳に対して、さらに書き直す必要はないことを表しました。そこで、私たちはこの問題をこれ以上討論することはしませんでした。私は平和と団結を感じました。実際、私たちの間にはまだ他の情況もありましたが、最終的に、互いの心を打ち明けて遇し、解決に至りました。私はとても良い経験を学び、自分の考えと行為を調整しなければなりませんでした。

 私たちが他の同修と協力する過程において、重要なことは旧勢力が設定したエサに影響されてはいけないことだと思いました。旧勢力たちのエサは異なる時期に異なる形状と大きさをしています。旧勢力たちは小さいように見えることもあるかもしれませんが、時間の流れにしたがって力を強めていきます。なぜもう少し早く、このことにはっきりと気づかなかったのだろうか、と私は思っています。

 たとえ私たちの大法のプロジェクトの中であったとしても、自己を実証すべきではなく、誠実に尊重し合って同修と協力しなければならないのだ、ということを私は深く認識しました。このように行いさえすれば、私たちは言葉と行動を用いて大法を実証しているのだ、と思いました。もしそうでなければ、私たちは旧勢力に協力しているようなものであり、旧勢力を否定せず、旧勢力を根絶していないことになってしまうのです。

 互いに心を打ち明ければ打ち明けるほど問題はわかりやすくなり、内に向けて探せば探すほど、大法のプロジェクトと個人生活の中で、他の人と楽に協力できるようになります!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「シカゴ法会」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 (2018年明慧法会の発表文章より一部の内容を要約したもの)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/11/370788.html)
 
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