同修よ あなたはしっかりと学法していますか
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年12月26日】ずっと以前からこの文章を書こうと思い、さまざまな原因でなかなか筆が進まず、もしかすると、機縁が熟していないのかもしれません。現在、中国国内の環境は表面から見ると迫害がまだ続いており、病業の仮相が出た同修や邪に悟る同修も増える傾向にあります。これらの問題に対して多くの同修は、明慧ネットを通して自分の認識について交流しています。ここで私は違う角度から、自分の認識したものを交流したいと思います。不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。

 様々な迫害がもたらされた原因は、もちろん、旧勢力の押し付けたことに違いありませんが、どうして旧勢力が押し付けることが出来たのでしょうか? 主に二つの原因が考えられます。一つは私たちの修煉の中で漏れがあるから旧勢力に付け入られました。もう一つは、私たちが法理をはっきりと理解しておらず、知らず知らずのうちに旧勢力のものを認めたからだと思います。もし、私たちが学法する時に法を得て、心を込めて法を学べば人心はだんだんと無くなり、法理についての理解がますます明瞭になり、正念もますます強くなるはずです。その時、旧勢力の仕掛けた罠から抜け出すことが出来るのです。なぜかというと、真相がはっきりと見えてきたからです。その後の事は、しっかり師父の言われた通りに従ってやればいいのです。この点に関しては、自分の修煉の中で実感がありますが、ここでは例を挙げないことにします。本文の中では、「法を学んでいるのに、なぜ、法を得ていないのか」について、同修の皆さんと交流したいと思います。

 (一)大法と学法に対しての認識は その時の心理状態に現れる

 大法に対しての認識する程度によって、学法する時の態度の純粋さの状態で決められます。この大法をいかに認識するかは肝心な問題です。一部の同修は「長い間修煉して、このことを知らない人はいないでしょう」と言うかもしれません。実際はそうではなく、一部の同修の『轉法輪』に対する振る舞いから、本当に心の中で大法を認識しておらず、観念上の認識に留まるに過ぎないことが分かるのです。このような同修は観念を抱いて学法しているので、法を学んでも法を得ることが出来ません。

 この間、私は系統的に師父の各地での説法を学び、特に迫害される前の各地の説法を学びました。師父は修煉者としてどのように法を認識するかについて、説法の中で何回も説かれたことに気づきました。どのように『轉法輪』に対処すべきかについて、師父は「つまり、人間のこの空間ではそれが一冊の本にしか見えませんが、他の空間で見ればこのような状態ではなくなり、それは天法なのです」[1] と説かれています。この説法を読んで大きな衝撃を受けました。今まで自分は人間の字、紙、本という観念でこの宇宙大法を認識していました。

 師父はまたこのように説かれています。「例を挙げて説明しましょう。佛教では人類社会のすべての現象は幻像で、確かなものではないと言っています。どうして幻像なのでしょうか? 確実に存在する物体なのに、どうして幻と言えるのでしょうか? 物体の存在の形と現われた形は違うものです」[2] 。私はずっとこの幻の中で神聖な宇宙大法を認識しようとし、どのようにして心からこの法を、敬い重んじることが出来るのでしょうか? これは言い換えれば、罪を犯すことと等しいのです。これで、どうして法を得ることが出来るのでしょうか?

 私はこの点について分かった時、学法に対する心理状態も変わりました。ある日、私はきちんと座って足を組み、『轉法輪』を両手で捧げて、師父に「弟子にこの宇宙大法を伝えてくださって感謝いたします! 弟子のために耐えられたことに感謝いたします! この大法を大法弟子に伝えてくださって感謝いたします! 衆生を救うために心血を注がれていることに感謝いたします!」と言いました。その時、私は涙が溢れてきました。その瞬間、私は大法の威力と師父の慈悲深さに深い感銘を受けました。

 すると学法する際に、自分で本を読んでいるのではなく、師父が弟子に法を説いてくださっているようで、一つ一つの言葉を師父が説かれ、私は謙虚に拝聴しているように感じました。顕れているのは全部法の内涵でした。しかも身の回りの物も無くなったように感じ、身体も無くなったように、自分の思惟と師父の説法だけしか感じられませんでした。

 今回の体験から私がつくづく感じたのは、大法に対する認識は学法時の心理状態に影響し、学法時の心の純粋さ程度が、法の現れる程度と関係しているということです。

 (ニ)人の観念を抱いて学法する

 最近、自分と一部の同修はずっと常人の観念を抱きながら学法していることに気づきました。これは様々な所で現れました。例を挙げると、私は『轉法輪』を学ぶ際に、段落によって心理状態が異なります。例えば「心性を向上させる」[2]、「煉功するその人が功を得る」[2] のような段落は学ぶ気があり、「祝由科」の箇所になると簡単に済ませます。また、私は各地での説法は奥深いと思い喜んで学び、『轉法輪』を学ぶ気がありません。なぜかというと『轉法輪』を学ぶ際に、法の内涵が見えないからです。これは人心をもって法に対処しているのではありませんか。

 また、学法グループは学法する前に常人の世間話をしたりすることや、学法する時に時間ばかり気にして、毎日何講を読むかを決めて、時間が迫ると途中から読むスピートを上げたりする等々は、すべて正しくない心理状態と態度です。このような人心で大法と学法することに対処すれば、学法していると言えるでしょうか。

 以前は学法しても法理が見えず、とても焦りました。明慧ネットで法を暗誦した同修と、法を書き写した同修たちの「法理が見えた」という交流文章を読んで、私も法を暗誦することにしました。しばらく暗誦しましたが、状態はあまり変わりませんでした。

 今日になってやっと分かったことは、自分が外に向けて求めていたことです。学法をしても法を得られないのは、自分の修煉に原因がありました。しかも内に向けて探しておらず、法の暗誦と書き写しあるいは毎日大量に学法することによって、自分の良くない状態を変えようとしているのは、常人の考え方であり、自分の学法の問題をこれにより、解決しようとしているのではありませんか。

 (三)学法と修煉が結びつかない

 一部の同修は学法した後、常人の考えと混同しています。「私は学法と修煉を結びつけていない」と言う同修がいるかもしれませんが、私はそうは思いません。このような同修は学法はしたが、法を得られないからです。形式的なものに流されているにすぎません。もし、私たちが身を入れて学法すれば、法を心に刻んでおけば、問題に直面したとき法があなたを悟らせます。もし、あなたが認識することができれば、法があらゆる正しくない状態と足りない部分を正して圓容し、何かの問題にぶつかったならば、自ずと法の威力が顕れてくるのです。

 どうして一部の同修は問題に直面しても、法を思い出せないのでしょうか。実は、彼の頭には全く法が入っていないからです。日頃の学法で人心と観念で本を読み、得られたのは常人の次元の表面の言葉であり、まもなく散ってしまいます。

 どうして学法しても、新たな認識と新たな悟りがないのでしょうか。もう一つの原因は、実際に自分を修めておらず、次元の向上もしていないからです。

 師父の法から皆が分かったことは、学法の際に法理が顕れたことは、実は自分が見えたのではなく、法の背後の佛、道、神が悟らせているからです。しかし、あなたがその次元に達していないとその次元の法理が顕れてこないのです。

 私はこれについて深く実感しました。一つの執着心を除去したら、その次元の法理が顕れてきます。この次元の法理が、さらに深い次元にある執着と不足を私に認識させるよう導いてくれるのです。私はこの新しい法理の中でさらに自分を正していくと、さらに新しい法理を顕して下さるのです。このように絶えず自分を修め、絶えず法の中で昇華していきます。

 (四)学法と法を実証し、衆生を救い済度することを分離してはいけない

 今日の大法弟子の修煉は単純な個人修煉ではなく、正法とつながっており、師父が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する神聖な使命があります。そのため、法には如何に師父が法を正すことを手伝うか、如何に衆生を救うか、異なる次元の法理の内涵を顕してくださいます。つまり学法と衆生を救うことがつながっていない同修は、法の中で向上することができません。どうして一部の同修は法を学んでも法を実証せず、衆生を救わないのでしょうか? このような同修は法を得られないばかりか、法に対処することがまだ個人修煉の段階に留まっており、法を正す進展についていけていないのです。

 ある時期、私は師父の各地での説法をひと通り学び、心から真相を伝えたい、衆生を救いたいという強烈な願望が生まれてきました。その時、私は迷い中で苦しんでいる衆生の生命の尊さを痛感しました。その時、慈悲の心で真相を伝えたため、縁のある人には二言三言で迫害の真相が分かり、邪党の組織から脱退して救われました。その時の学法の状態はとても良かったのです。

 (五)今まで 学法中の妨害と迫害を認識できずにいた

 ここ数日、私は学法の際に雑念が多くて払いきれず、抑えきれませんでした。最初は自分の思想業力と人心の妨害だと思い、なるべく排除したのですが効果はあまりなかったのです。ある日私は突然、この雑念は旧勢力の妨害であることに気づきました。このような形で私の学法を妨害しようとしており、実は旧勢力の迫害の一つの形です。大法弟子に法を得させないのは、大法弟子を台無しにしたのと同じではありませんか? これは迫害ではありませんか? 身体の迫害だけではなく、最も邪悪な迫害の形です。これを認識した時、このことが旧勢力の迫害を否定する基本中の基本であり、この雑念を取り除くと、あっという間に消えてしまいました。

 (六)変異した思惟と党文化の思惟が 学法を妨害する

 中国国内の同修は長年党文化の下で染められ、考え方に多かれ少なかれ党文化の毒素が入っています。また、旧勢力が私たちに師父の法を理解させないために、下地としての中国伝統文化を破壊する党文化が作り出されました。この党文化の思惟を抱いて、大法の高遠な内を理解することは出来ません。

 例をあげましょう。ある日、師父は「一千年かそこら修練したとしても、小指の先の一ひねりにも耐えられません」[2] と説かれました。この時に私は傲慢になりうぬぼれて、生命を蔑視(べっし)する党文化の思惟で、この箇所の法を学びました。法に対しても、師父に対しても不遜なことです。これで、法を得ることが出来るでしょうか? 

 このような党文化の思惟が知らず知らずのうちに、私の学法中に入り込んでいることを今までは認識できませんでした。また私は理学専攻科であり、常人の中では学力や教養が高く、常人的な理性の思惟がありました。でもうっかりすると、この常人の思惟方式で知らず知らずのうちに法の内涵を理解しようとしていました。例えば、個人の修煉の段階で、法の内涵が個人の向上へ導いてくださり、法を正す時期の修煉段階では法の内涵は、師父が法を正すことの手伝いと衆生済度へと導いてくださるのだと思います。しばらくして、私はこの問題に気づきました。つまり学法している際に、もう一つの思惟が私と一緒に学法をしています。実はそれは私ではなく、私の学法を妨害しに来たのです。そのような状態では、法の内涵が根本的に見えてきません。

 私が悟ったことは学法をしている時、心が動ずることなく「心を静めて読む」状態にし、表面上の意味を理解し、わざと何かを見ようとしないで、あなたに知ってほしい時には法があなたを悟らせてくれるのです。

 以前、私は法を学び、法を得られないことについての理解は実に浅かったのです。昨日私は師父の説法を学び、師父はこのようにおっしゃっています。「実は自分自身にある正しくない全ての要素も含めて、全て大法と大法弟子の正念と一致していないものはいずれも、旧勢力の関与によってもたらされたことです。そのため、私は正念を発することを大法弟子の三つの重要なこととして行なうよう指示したのです」  [3]

 突然、私が認識したのは大法弟子が法を学び、法が得られないのは、旧勢力が多くの要素を取り入れて、私たちの学法と法を得ることを遮るからです。これは根本的なもっとも実質的な迫害です。旧勢力が段取りしたすべては、大法弟子の迫害であり、もっとも邪悪の迫害は、大法弟子が学法しても法を得られないようにすることと内に向けて探すことをさせないようにし、妨害しています。これは今まで私がはっきりと認識していないことであり、長年学法しても法を得られない根本的な原因です。同修たちはこの事に早く気づき、目覚めてください!! もうこれ以上、旧勢力の迫害を黙認してはいけません!!

 以上は、ただ自分の現段階上の認識であり、あまり全般的なものではないのですが、ただしかし、大法弟子として、学法はもっとも、もっとも根本的なことです。もしも学法して問題が出てきたのなら、沢山の修煉問題を引き起こしてきます。そこでこの解決策ですが、しっかりと学法することは「三つのこと」をしっかりと行なう事の根本であり、大法弟子の根元でもあります。

 師父はこうおっしゃっています「もちろん、このすべては大法と大法弟子しかやり遂げることができません。さらに良くやり遂げるために、法をしっかり勉強してより良く行ない、この歴史的使命を果たすことができるのです」 [4]

 どうやったら法をしっかりと学べますか? 大法に対する根本的な認識が肝要であり、法の中で大法を正しく認識することができれば、法をしっかり勉強することができます。法をしっかり勉強することで、大法に対する認識も絶え間なく向上していきます。これは常に一体関係にあります。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『米国東部法会での説法』 
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の経文:『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』
 [4] 李洪志師父の経文:『大法弟子は使命を果たしている』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/8/395592.html)
 
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