20人の法輪功学習者が薬物により 致死した実例
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 【明慧日本2020年2月4日】(中国=明慧記者)中国共産党は薬物を使って法輪功学習者たちを言語に絶するほど苦しめ、中国共産党が使った非人道的な手段は人々の想像を遥かに超える残酷なものである。本文の中で述べた薬物によって死亡した20人の法輪功学習者たちの実例は、明慧ネットで報道されたこの方面に関する実例のほんの僅かな一例である。また、報道されたすべての実例も、中国共産党が法輪功学習者たちに実施した残酷な迫害の氷山の一角に過ぎない。

'中共酷刑示意图:注射药物'
拷問のイメージ図:薬物を注射する

 実例1、河北保定市の栄鳳賢さんは2日間も経たないうちに、不明薬物を注射され死亡

 栄鳳賢さん(当時32歳)は、河北省保定市金荘郷に在住し、誠実で善良な心優しい女性で、手も器用で、双方の両親に親孝行をし、良妻賢母な人物として村人の誰もが認めていた。

'荣凤贤'
栄鳳賢さん

 2001年5月11日、栄さんは河北省保定市新市区の洗脳班に連行され、「真・善・忍」の信仰を堅持して「転向」しないために、単独に隔離された。5月17日の午後、衰弱した栄さんは保定市精神病院に送られ、不明薬物を注射された。翌日、栄さんは病院の中で死亡した。精神病院側の言い分によると、栄さんは病院のベッドから転落死したという。病院は家族に7000元(およそ11万円)を渡し、遺体を処理した。

 実例2、連続して9日間、毒針を注射された山東省シ博市の蘇剛さんが死亡

 蘇剛さん(32歳男性)は山東大学コンピューター学科を卒業し、山東省シ博市齊魯石化会社アルケン工場のコンピューター技師である。蘇剛さんは法輪功を学んでいるという理由で、2000年5月23日にイ坊昌楽精神病院へ連行された。昌楽精神病院の関係者らは、毎日大量の中枢神経を破壊する薬物を蘇剛さんに注射した。

'中共利用精神病院迫害法轮功学员'
拷問のイメージ図:精神病院で薬物を注射される

 2000年5月31日の夕方6時、勤務先の公安室の関係者らが蘇剛さんを父親の傍に連れて行った時、蘇剛さんの眼光はなくぼんやりして、表情もなく麻痺したように反応も鈍く、身体がこわばっていて、顔には血色はなく、極めて衰弱した様子であった。そして、帰宅した9日目の2000年6月10日朝に、蘇剛さんは死亡した。

 実例3、山東諸城市の馬艶芳さんは徒歩で、17日間かけて北京へ陳情に行ったが、そこで連行され、精神病院で虐殺される

 馬艶芳さん(33)は山東省イ坊諸城市星石溝村に在住し、諸城陶磁器工場の従業員であった。1998年に法輪功を学び始めた。2000年4月、馬さんは法輪功の無実を訴えるため上京したが、その時の所持金は10元(158円)しかなかった。そこで上京の際に喉が渇いたら河の水を飲み、お腹が空いたら饅頭をかじり、夜に道端のそばの田畑で寝た。その後、やむを得ず長い黒髪を切って9元(142円)で売ってしのいだ。このように苦労をなめ尽くして、17日間かけてやっと北京に着いた。

'马艳芳'
馬艶芳さん

 馬さんは北京で連行された後、地元に連れ戻されて勤務先に軟禁された。馬さんは断食して迫害に抗議したため、諸城市精神病院に送られ「入院」した。病院の医療関係者は精神病を抑制する薬物を馬さんに飲ませたり、注射していた。「入院」させられて2カ月後の2000年9月に、馬さんは虐殺された。

 実例4、610弁公室の人員らは、毒針を注射され、張付珍さんが必死にもがいていた姿や、死亡した一部始終を見ていた

 張付珍さん(38)は2000年11月、上京して法輪功の無実を訴えたため、平度市に連れ戻された後、服をすべて剥ぎ取られ、髪の毛もすべて切り落とされ、ベッドの上に「大」の字に縛り付けられた。そして、不明薬物を注射された張さんは、すぐ狂ったようにもがき始め、そのままベッドの上で悶え苦しんで気絶し、死亡した。その場に居合わせた610弁公室の官員らは、これらの一部始終を監視していたという。

'张付珍'
張付珍さん

 実例5、遼寧瀋陽市の孫宏艶さんは薬物を注射後に、死亡

 孫宏艶さん(28)は遼寧省瀋陽市遼中県の中学校教師である。1999年7.20から、法輪功への迫害が始まって以来、孫さんは相前後して2回上京して法輪功の潔白を実証したが、2000年7月末、瀋陽龍山教養所へ連行された。

'孙宏艳生前照片'
孫宏艶さん

 2000年7月、龍山教養所に拘禁された法輪功学習者・韓天子さんは、警官らに電気ショックを加えられたことによって昏睡状態に陥り、高熱が下がらず、痙攣を起こし失禁した。そのため、39人の法輪功学習者が集団で断食をして抗議したが、龍山教養所は大型バスで全員を遼寧省刑務所管理局病院に送り、無理やりに灌食した後、学習者たちを瀋陽市内の各教養所、思想改造施設に分けて拘禁した。

 孫さんは瀋陽大北刑務所病院の個別の地下室に閉じ込められ、強行して薬物を注射され、間もなく半身不随になり失禁した。2001年3月中旬、昏睡状態の孫さんは、他人に手を掴まれて用意された書類に拇印を押さされてから、家族に迎えられた。

 帰宅した孫さんはすでに虫の息で、全身がただれていた。家族は念入りに世話をして緊急措置をとったが、帰宅して10日後に、孫さんは冤罪が晴れないまま死亡した。

 実例6、黒龍江省ハルビン市の鞠亜軍さんは、正体不明の薬物を注射され死亡

 黒龍江省阿城市玉泉鎮の農民・鞠亜軍さん(33)は、人柄も良くておとなしい人で、皆が認める良い人であった。1999年7.20、中国共産党は法輪功を迫害し始めると、鞠さんは2000年10月11日に上京して、法輪功の無実を訴えたため連行され、阿城市第二留置場に2カ月間拘禁された。

'鞠亚军遗照'
鞠亜軍さん

 帰宅した鞠さんは1カ月後、再び阿城市第二留置場に連行され、「飛行機」と呼ばれている拷問により苦しめられた。その拷問は、鞠さんの両腕を後ろへぴんと伸ばさせ、腰を90度に曲げるように強要され、頭は下に向けさせられて、動けない苦しい姿勢を長時間取らされ、ちょっとでも動くと滅多打ちにされるというものである。その後、労働教養1年を科された鞠さんは、2001年7月5日にハルビン市万家労働教養所の合同訓練隊に送られ、3日間鉄の椅子に縛り付けられ、8日後に、またハルビン長林子労働教養所に監禁された。

 鞠さんは迫害に抗議するために断食を始めた。2001年10月21日午後、鞠さんは長林子刑務所の診療所に運ばれ、無理やり乱暴に食物を注入され、同時に「正体不明の薬物」を注射された。夜9時頃、鞠さんは監室に戻されたが、頭を持ち上げることができなくなり、意識がぼんやりとして、口をいつも大きく開けながら喘ぎ、話をすることは困難になり、腕を指しながら「注射、注射……」と絶えず言っていた。

 労働教養所は責任を負いたくないため、2001年10月24日に鞠さんを帰宅させた。玉泉鎮政府で警官らは鞠さんを家族に引き渡し、家族にすぐ署名するように強要した後、さっと運転していなくなった。2001年10月26日朝の4時18分に、鞠さんは死亡した。 

 実例7、「最も良い薬を使った」と言われたが、重慶栄昌県の副知事・張方良さんは薬物により迫害死

 張方良さんは(48)は重慶市栄昌県の元副知事である。1998年、法輪功を学んで数カ月後に、23年患った肝炎が治った。そして、張さんは在任中は賄賂をすべて拒否した。外食時も自ら支払い、公職を利用して利益を一切取らず、このことは皆によく知られていた。

'张方良'
張方良さん

 2001年10月6日、張さんは重慶市銅梁県へ会議に参加した際に、仕事以外の時間を利用して法輪功の真相資料を配布したため、連行され、銅梁県留置場に拘禁された。

 2002年7月3日、家族が強く要求し、銅梁県留置場で8カ月あまり拘禁されている張さんに会った。その時、張さんは四肢が浮腫んで立つことが出来ず、4人の受刑者に担がれて出てきた。その際、思考は明晰で大声で話をすることもできる状態であった。家族は保証人を立てて一時出所を求めたが、銅梁県政法委副書記・劉安学は「知らせを待ちなさい」と許可しなかった。2002年7月8日、家族は銅梁県政法委に行き返答を尋ねた時、張さんはすでに銅梁県病院に移され、手錠を付けられて、正体不明の薬物を注射されていた。

 家族は銅梁県病院に駆けつけた時、張さんはすでに頭がはっきりせず、意識が朦朧としており、自分の妻さえ分からない状態であった。このような状況を見た妻は「夫に何かあったら、あなた方は責任を負わなければなりません」と610弁公室の関係者らに言った。その時、劉安学は「あなたは処方箋を調べてみなさい、私達は最も良い薬を使っている」と答えた。そして、610弁公室の関係者らはすぐに点滴を抜いて、張さんを帰宅させた。

 その翌日、張さんはこの世を去った。しかし、610弁公室の警官は「張方良は家で自殺した」と言た。また、栄昌県国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の警官は、広順鎮で法輪功学習者を「転向」させようとした時、「張知事は法輪功を学んだせいで死んだ」と嘘を言いふらした。

 実例8、黒龍江阿城市の李洪斌さんは不明薬物を投入され、死亡

 李洪斌さん(43)黒龍江省阿城市の法輪功学習者である。2000年11月3日、李さんは法輪功のために北京へ行って陳情したが、連行され、阿城留置場に15日間拘束された。2000年12月19日、民主派出所の警官らは、李さんの家の扉をこじ開けて入室し、李さんを洗脳班に連行し、労働教養1年を科した。2002年、李さんは再度ハルビン市長林労働教養所まで連行され、半月も経たず致死された。

'李洪斌遗照'
李洪斌さん

 李さんと同じ監室に拘禁された学習者の話によると、当時、李さんは3大隊で断食して迫害に抗議したため、独房に閉じ込められ灌食されたという。灌食された後、李さんは下痢が止まらなくなり、最後までズボンをはくことが出来なかった。どんな薬物を混ぜられたか分からないという。李さんは独房の手すりに手錠をかけられ、夜中2時半頃に様態が変わったと気付いたが、実際には、その時にはすでに死亡していた。

 李さんの死亡後、長林労働教養所は遺体を万家労働教養所病院に送り、点滴を手配し、緊急措置を取ったが助からず、死亡したように見せかけた。長林労働教養所側は心臓病の発作が死因だと言った。

 実例9、肛門から不明な毒薬物を注射され、元教師の張淑珍さんは殺害される

 張淑珍さん(51)は海淀区遠大中学校を退職した元教師で、北京市海淀区石仏寺39号に住んでいた。張さんは1992年に法輪功の修煉を始め、2001年法輪功の真相資料を配ったため、警官らにより連行され清河労働教養所に送られた。

'张淑珍遗照'
張淑珍さん

 労働教養所で警官は数日も連続して張さんに睡眠を与えず、電撃棒で電気ショックを加えたり、張さんの髪の毛を掴み壁にぶつけたりした。そして数々の拷問を用いて、張さんに他の法輪功学習者の名前と住所を教えるよう強要したが、張さんはひとことも言わなかったという。警官らはまた、彼女の肛門に不明薬物を注射したので、張さんは強烈な腹痛を起こし、お腹が妊婦より大きくなるほど膨らんだ。

 その後、張さんは労働教養1年6カ月を強いられ、団河労働教養所に送られる途中で強烈な腹痛を起した。そして、団河労働教養所はこれらの責任を負うのを恐れて、家族に迎えに来てもらった。2002年10月9日夜7時、張さんは海淀病院に送られたが、夜の9時にこの世を去った。

 実例10、四川新都県の胡紅躍さんは薬物によって殺害される

 胡紅躍さん(45)は2002年9月28日、成都府南の河沿いで行方不明になった。2002年11月、胡さんの勤務先は公安局からの知らせを受け取り、「胡紅躍はすでに死亡した」という内容であった。公安部門の関係者は1枚の胡さんの写真を提示しただけで、「餓死した」と主張し、遺体を親族に見せず、2002年11月19日に強行して、火葬した。

'胡红跃'
胡紅躍さん

 胡さんが死亡した案件の真相について、2002年11月23日に、成都市公安局総指揮室の電話に応じた関係者は、「この事は言うことができない、自分はこの責任を取りたくないからだ」と答えた。

 2002年9月10月15日、成都市青羊区病院に連行されたある法輪功学習者は、胡さんが死に至った全過程を目撃し、以下のように証言した。

「私が入って6日目、つまり2002年10月21日、留置場からまた、断食している2人の学習者が送られて来ました。張亜玲さんと胡紅躍さんでした。お互いの会話は禁じられていましたが、私達はスキを見て簡単に交流しました」

 「2人は成都バスの中で連行され、30日余り断食して抗議しましたが、病院に送られ、その後、引き続き断食して抗議しました。医者は毎日2人に点滴をするため、トイレに行く回数も多くなりました。しかし、警官は足かせを外してくれないので、2人はトイレに行くことができず、とても辛くて我慢できなくなり、ベッドの上で漏らしてしまいました。そんな事実が分からない看護婦は、学習者の2人を口汚く罵り、下品な言葉で侮辱しながら、毎日殴ったり蹴ったりしました。看護婦は規定の期間(1週間に一度)通りにしか、シーツを交換してくれないため、2人はずっと汚くて臭い濡れたベッドの上で過ごしました。このように扱われて非人道的に苦しめられても、2人が少しも動揺していない姿に感心しました」

 「11月の初め頃になると、2人の話はだんだんとおかしくなり、『何が起きたの?どうしてここにいるの?と繰り返して聞くようになり、記憶がだんだんと薄れていき、とうとう失っていきました。医者により薬物が使われていたことは明らかです」

 「学習者2人の意識が朦朧としていたにもかかわらず、新都派出所は人員を派遣して、1人ずつに労働教養1年6カ月を科すという通知書を届けに来ました。2人は通知書をもらってもすでに書かれた内容が分からず、手にしているものが何であるかさえ分からなくなりました」

 「病院に入って二十数日の胡さんは、毒薬の作用で一晩中、必死にもがいた後、12日の午前に亡くなりました。胡さんの遺体が担がれた時、白いシーツの上に直径二十数センチの血痕が付いているのを見ました」

 実例11、山東蒙陰県の張徳珍さんは、1本の毒物注射により死亡

 山東省蒙陰県の第六中学校の女性教師で、法輪功学習者・張徳珍さん(38)は、1999年7.20以降に相前後して、3回ほど上京して法輪功の無実を訴え、公正公平さを求めた。そのために2回連行され、拘禁された。

'<span class='voca' kid='53'>大法</span>弟子张德珍'
張徳珍さん

 2002年9月、張さんは蒙陰県留置場に強制連行され、数回も蒙陰県漢方医院で強制的に灌食された。最後に、留置場の医者・王春暁と漢方医院の医者は正体不明の薬物を張さんに注射し、張さんは虫の息となった。2003年1月31日(旧正月の大晦日の前日)、医者が張さんに小さい針で薬物を1本注射した。すると、張さんの声は間もなく消えた。そばで待っていた警官らは小声で「また一人、終わらせた」と言った。

'酷刑演示:注射不明药物'
拷問の実演:薬物を注射される

 実例12、四川省成都市の蒙瀟さんは薬物によって致死される

 蒙瀟さん(37)は1999年11月17日、ほかの法輪功学習者と一緒に天安門広場で「法輪大法は、永遠に長く存続します」と書かれた横断幕を広げた。その後、蒙さんは懲役2年の実刑判決を宣告され、様々な拷問により苦しめられた。

'蒙潇大学时期在北京实习的照片'
大学時代の蒙瀟さん

 2000年4月12日、蒙さんは四川省の簡陽養馬河女子刑務所に拘禁された。そこで、蒙さんは長期にわたり独房に閉じ込められ、数え切れないほど殴られ、階段の上で逆さに引きずられ、スタンガンで電気ショックを加えられ、両手を後ろに回されてベッドの鉄筋に手錠で繋がれて放置されたり、真冬に夏着のまま外へ放り出され、凍えさせられるなどの残忍な拷問を受けた。

'酷刑演示:背铐(“苏秦背剑”)'
拷問の実演:両手を後ろに回されて、
手錠をかけられる

 2003年11月19日、蒙さんは再度連行され、金堂県留置場に拘禁された。留置場の警官らは蒙さんを201病院に送り、中枢神経を破壊する毒薬を注射し続けた。蒙さんは医者に迫害の真相を伝えた後、真相が分かった医者は毒薬の注射を拒否した。すると、警官らはまたしても蒙さんを金堂県第一病院に移送し、引き続き毒物注射をし続けた。

'酷刑演示:打毒针(注射不明药物)'
拷問の実演:正体不明の薬物を注射する

 家族は蒙さんの解放を求めた際、成都市610弁公室の関係者らは「たとえ、病院あるいは留置場で死んでも、解放しない」と返事した。2004年1月8日~12日の間、蒙さんは金堂県第一病院で虐殺され、関係部門は家族に知らせず、傷だらけの遺体を急いで火葬した。

 実例13、「私は死にたくない。家に帰りたい……」と叫んだハルビン市の張宏さん 薬物による迫害死

 黒龍江省ハルビン市第4病院で薬剤師を勤めていた張宏さん(31)は生前、ハルビン市動力区植物園の付近に住んでいた。法輪功を堅持したため、かつて労働教養を科されたことがある。

'张宏'
張宏さん

 2004年5月8日の夜、張さんは東風派出所の警官らにより連行され、ハルビン市第二留置場に拘禁され、労働教養3年を強いられた。2004年7月22日午前、張さんは万家労働教養所の集団訓練大隊に連れて行かれ、「三書」を書くように強要されたが、張さんは書かなかった。翌日の7月23日、警官は張さんをベッドに押さえ付けて、両腕と両足をベッドに縛り付けて不明薬物を注射したため、張さんは失禁した。すると警官らは張さんの服を全部脱がして、上半身をタンクトップ1枚だけにし、風の吹く寒い通路に放置した。

'酷刑演示:打毒针'
拷問の実演:毒針を注射

 2004年7月24日、張さんは断食で抗議し始めた。26日に彼女は強制的に食物を注入された。注入されたものはトウモロコシの粉で作ったおかゆに大量の塩を入れたもので、しかも、トイレや水を飲むことを禁止した。

 30日午前8時過ぎ、張さんは「私は死にたくない。家に帰りたい。私の家は動力区××街××号だ」と叫んだ。午後、張さんは鉄の椅子に座らされ、頭に白いテープをいっぱい貼られた。

 31日午後1時過ぎ、マスクをした2人の男性警官の指揮の下で、4人の受刑者らが張さんを担架で211病院に運んだ。午後3時20分、張さんの家族は「張宏は心臓病で突然死した」との知らせを受けた。

 実例14、黒龍江省木蘭県の常永福さんは迫害死し、目や耳や鼻口から出血

 常永福さんは黒龍江省木蘭県の法輪功学習者で、2004年8月21日午後、自宅から悪名高いハルビン長林子労働教養所に連行された。長林子労働教養所は責任を逃

れようとし、常さんを木蘭県610弁公室に送った。木蘭県610弁公室は常さんを密かに東興鎮精神病院と江北普寧精神病院に送り、薬物を注射した。

'常永福生前照片'
迫害前の常永福さん

'常永福去世时鼻子肿大,鼻内、口中有血块,双耳、眼角流血'
迫害後の常永福さん

 2006年10月、精神病院は常さんの姉に常さんを連れ戻すように知らせてきた。常さんは家に戻ったとき、精神状態はすでに異常になっており、鼻がひどく腫れ上がり、視力が極めて弱まり、目や鼻、頭が痛く、しばらくすると、両目が失明してしまった。

 2007年1月18日朝5時に、常さんはうめき声が止まり、この世を去った。亡くなった時に、両耳や目じりからは出血し、鼻と口の中は充血のあとがあった。享年44歳だった。

 実例15、河北涞源県の曹苑茹さんは精神病院で毒針で致死される

 曹苑茹さんは河北省涞源県豊楽村の法輪功学習者である。2005年の晩秋のある日、曹さんは高熱のある症状が現れたため、家族は中国共産党の医者の虚言に騙され、曹さんを保定市精神病院に送った。そこの医者は法輪功学習者だと聞いて、とても興奮した様子で「患者を残して、他の人は帰りなさい。私には対処方法がある」と言った。

'法轮功学员曹苑茹'
曹苑茹さん

 翌日、曹さんは保定市精神病院で毒針を注射され死亡した。遺体は全身青紫色で、鼻と口もとには血痕があり、血は黒色だった。家族は大いに後悔した。当時、曹さんはまだ35歳の若さで、娘は4カ月であった。

 実例16、湖北赤壁市の劉暁蓮さんは計画的に謀殺される

 劉暁蓮さんは赤壁市赤壁鎮八宝刀村に住んでいた。1958年、当時は中国共産党が鋼鉄を精錬する運動を引き起こした頃で、劉さんは両目が突然痛みだし、半月後には片方の目が失明した。1995年に法輪功を学び始め、半月後に38年間も失明していた右目が見えるようになった。

'刘晓莲'
劉暁蓮さん

 2000年12月、劉さんは北京へ法輪功迫害の真相を伝えに行ったところ、天安門広場で、警官らに連行され、滅多打ちにされた。3日後、 劉さんは遼寧省海城市へ送られ、赤壁市第二留置場へ、次に第一留置場へと転々と移送され、拘禁された。

 2002年12月6日、劉さんは赤壁市第一留置場で所長・鄧定生をはじめとする18人の警官らと受刑者らに、同時にめった打ちされ、た。5人により同時に五つの方向へ強く引っ張られ、陰部は裂け、全身の骨が外れた。また、警官らは25キロの鉄の鎖と足かせを使って、交替で劉さんを殴った。

 劉さんは生前以下の内容を書いて残した。「2006年4月26日に連行され、その後の3月間、何度も生命の危険に直面したことがあった。警官らは命令に従えば迫害から免れると説得したが、私は『正は絶対に邪悪に協力しません』と拒否した。精神病院の張主任医師は赤壁鎮政府、派出所と互いに取り引きをして、赤壁鎮に6000元(およそ9万5000円)を出してもらい、私を殺害しようとした。張主任とほかの共犯者らは高圧のスタンガンや電気針で、4時間わたり私に電気ショックを加え、若い男性精神病患者に指示し、私を罵って侮辱させた。また、毒薬を強制的に灌食され、点滴された。ある日、一昼夜で約5リットルの毒薬を注射され、体全体が黒くなり、黒人のようになった。自分は二昼夜も意識を失い、意識が戻った時はもう話せなくなった。彼らは、私が話せない障害者になったことを見て、ようやく止めた」

'年近七旬的刘晓莲被迫害得全身浮肿、奄奄一息'
残忍な迫害で、全身がむくんだ劉暁蓮さん

 劉さんは精神的にも、肉体的にも苦しめられ、全身がむくみ、食事を摂ることも難しくなり、息も絶え絶えの状態に陥った。医師は二十数日しか生きられないと確信し、2008年9月、劉さんを家に戻した。劉さんは2008年10月26日午後、冤罪が晴れないままこの世を去った。

 実例17、天津市の医者・宮輝さんは薬物による迫害死

 宮輝さん(57)は医者であったが、病気のために退職した。しかし法輪功を学んで、わずか3カ月で体の病気が全部なくなり、まるで生まれ変わったかのように元気になった。

'宫辉'
宮輝さん

 2008年8月13日の夜、宮さんは連行され、2008年9月17日に天津大港板橋女子労働教養所に移送された。

 労働教養所の1大隊で、宮さんは麻薬者と同じ部屋に閉じ込められ、教養所の決まりを暗記するように強要されたが、宮さんはそれを拒否したため、長期にわたり立ったままの姿勢を強いられた。労働教養所は水と食事の中に何かを混入され、それが何か分からないが、宮さんは心神喪失になり、目の前がぼうっとして全身が震え上がり、夜になっても眠ることが出来ず、震えながら部屋中を歩き回った。

 「法輪功学習者が飲む水の中に、ガラス繊維やナイロン糸のような何か光っているものが混入している」と目撃者が話したことがある。その水を飲むと、舌はとてもしびれて血がしみ出てきて、しばらく経つと四肢の感覚が麻痺して全身が震えてきて、頭がぼんやりとして呼吸することが困難になり、自分をコントロールできなくなるという。

 2009年12月4日、帰宅してから22日目に、宮さんは冤罪が晴れないまま死亡した。

 実例18、山東省棗庄市の徐徳存さんは重症室で虐殺される

 山東省棗庄市の法輪功学習者・徐徳存さん(52歳女性)は、2013年9月1日に身体の調子が悪くなり、家族に棗庄市立病院に入院させられた。病院側は徐さんの医療保険やその他の情報を読み取り、「患者は何かを信仰していますか? 法輪功学習者であれば、別に処方します」と徐さんの家族に言ったという。

'酷刑演示:打毒针(注射不明药物)'
拷問の実演:不明薬物を注射する

 2013年9月6日の朝5時に、徐さんは重病患者治療室に移された。移されている時、徐さんは大きい声で「法輪大法は素晴らしい! 真善忍は素晴らしい!」と絶えず叫んでいた。しかしその1分後、医師が病室から出て来て、徐さんの「脳死」を宣告した。

 実例19、四川省米易県の羅江平さんは毒物を注射され、死亡

 羅江平さん(51)は四川攀枝花市米易県に在住し、1996年に法輪功に出会い、絶えず自分の道徳レベルを向上させ、熱心に人を助ける人柄である。平陽村は水不足になりやすい地域で、特に乾季になると、農民たちは水の確保で相争うことがしばしば起きる。1996年の水不足の季節に、羅さんを含めて法輪功学習者たちは、他の農民達に先に水を利用させて譲り、それ以来、水争いは無くなった。


羅江平さん一家

 羅さんは2012年1月、雲南省楚雄州南華県で法輪功の資料を配布していたとき、警官らに連行され、同年4月、南華県裁判所に懲役4年6カ月の実刑判決を宣告された。

 羅さんは雲南省第一刑務所でひどく苦しめられ、体が極度に衰弱して痩せこけ、下の歯はすべて打ち落とされ、上の歯が数本あるだけで、歯と歯茎が血の塊で黒くなり、口内の数カ所の傷痕が爛れていた。2013年12月23日に、一時出所した羅さんは自分がこんなになったのは、不明薬物の注射によるものだ、と家族に話した。また、家族は羅さんの手首や腕などに針を刺した黒い傷痕を数カ所、目にした。

 5日後の2013年12月28日に、羅さんは亡くなった。

'罗江平去世前在家里的照片'
一時出所で帰宅した時の羅江平さん

 実例20、黒龍江穆稜市の高一喜さんは薬物を注射され、遺体は解剖され臓器摘出される

 法輪功学習者・高一喜さん(45)と妻は、2016年4月19日晩10時過ぎ、自宅から連行され、4月20日の午前5時頃に牡丹江市第二留置場に拘禁された。高さんは断食して迫害に抗議したため、無理やりに灌食された。

2016年4月28日午前9時過ぎ、高さんは留置場から牡丹江公安病院に送られた。医者は「重度の栄養不良だ」と言い、薬を点滴して治療した。

'高一喜'
高一喜さん

 4月30日の朝5時40分、公安病院は「高一喜は多くの内臓が衰弱して、急死した」と宣言した。高さんの遺体は、両目が丸くて開いて、目じりに涙の跡があり、頭部には青い鬱血があり、両手はしっかりと握りしめられ、爪は青紫色になっていた。両手の首に手錠の跡が明らかに見え、胸が異常に高くなっている一方で、腹部は明らかに大きくへこんでおり、縄で縛り付けられた痕跡が残されていた。またさらに、右足のすねに三つの大きな針穴があり、遺体は無断で解剖されて臓器が摘出されていた。警官らは高さんの遺体を見させないように、家族が近づくのを阻止した。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/12/17/397157.html)
 
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