学法するときはしっかり法を学ぶべき
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年7月1日】私は新しく修煉を始めた弟子です。師父は「さらに良くやり遂げるために、法をしっかり勉強してより良く行ない、この歴史的使命を果たすことができるのです」[1]、「法を多く勉強し、真相を多く伝え、各自の修煉の道をしっかり歩むよう期待しています」[2]とおっしゃっいました。経文でも何回も学法について説かれています。私がこの段落を読んだとき、「法をしっかり勉強し」、「法を多く勉強し」という文字が急に大きくなり、私を気づかせてくれているのだとわかりました。私が感じたことを皆さんとここで交流したいと思います。

 一、私の以前の認識では、しっかり学法するとは『轉法輪』や新経文などをたくさん読み、法を書き写したり、暗記したりすることでした。大法の書籍を読むことは私たちすべての同修が必ず行なう日課ですが、「読む」とはどういうことでしょうか。師父は「人が佛の名前を念ずる時、心には何も雑念がなく、大脳のその他の部分が全部麻痺して、何もかも分からなくなるまで、一心不乱に念じなければならず、そうすれば一念が万念に代わるので、『阿弥陀佛』の一文字一文字が目の前に現われてきます。これこそ功夫ではありませんか? 初めから一挙にここまで到達できますか? 到達できません。到達できなければ、入静できないはずです。信じられなければ試してみてください。口では一回一回念じていますが、心の中では雑念ばっかり、職場の上司はどうして気に入ってくれないのか、今月の賞与がこんなに少ないのはなぜか等々、考えれば考えるほど腹が立ち、むしゃくしゃしてきますが、それでも口ではまだ佛の名前を念じています。これで煉功ができますか? これには功夫がかかわっているのではありませんか? 心が清浄でないからではありませんか?」[3]と説かれました。私たちが『轉法輪』を読んでいるとき、「一心不乱に到達できますか? 一文字一文字が目の前に現われてきますか」。もしできなければ、しっかり学法しているとは言えません。

 以前、私が自分の家で法を読んでいたとき、速さは普通で、今日は何講を読み終わり、タスクを達成したとしか考えていませんでした。しかし、読んでいるときは気が散ってしまい、往々にして1ページ読んだところで、口先だけが動いていて何を読んでいるのかわかりません。1ページの大半がぼうっとした状態で、頭の中で「今日はこれをまだやり終えていない。給料がまだ振り込まれていない。今日は数人に真相を伝えたのに、どうしてこの人は三退してくれなかったんだろう? この同修の意見に納得できない、どうしてこんな態度なのだろう」などと考えてしまいます。ときどきこれらは思想業であり、排除しなければならないと思い、排除するものの、またすぐに出てきてしまいます。こうしているうちに何ページも読み進んでしまいます。これでは法を勉強したことになるでしょうか? 修煉を指導していただけるのでしょうか? 私たちはむやみに今日は五セットの煉功が終わったとか、一講を読み終えたとか、人を救うこともたくさん行なったとかで満足してはいけません。多くの同修も私と同じで、『轉法輪』を速く読んでしまいがちでさっさと終わらせるのです。今日は一講を読み終えたとか、今週は1冊を読み終えたとか、今月は3冊を読み終えたとか、量と速度だけを求め、何を読んだかすら定かではないのです。

 明慧ネットの交流文章で、他の同修は次のように書いています。「私たちが師父と大法に敬虔と謙虚、そして崇敬する心をもって接するとき、はじめて法は私たちに顕現してくれます。もし新聞、ニュース、常人の本を読むのと同じくらいの速さで読むとしたら、果たしてどれくらいの文字と文を慣性で読んでいて、すべての言葉が心に入るのでしょうか」

 師父は「更に皆さんに教えますが、私は佛法の威力、私自身の多くの能力を、すべてこの本に盛り込み、この法に盛り込みました。録画テープ、録音テープ、或いはこの本にしても、あなたが学びさえすれば、必ず変化が現れます。学びさえすれば、病気はきっと取り除かれます。あなたが修めさえすれば、あなたの体にきっと本質的な変化が発生します。修煉し続ければ、あなたはきっと能力を持つようになり、見えたり、聞こえたりするようになり、大法の洪恩を感じるようになります」[4]と説かれました。

 私たちの修煉を導き、圓満成就に導くことができる大法を真剣に読むべきではありませんか? 気を散らさずに読むべきではありませんか?

 私は最近、他の同修に言われて学法の仕方を変えました。『轉法輪』を読むときは、一文字一文字読み、声を出して読むことでしっかり読んだ内容を認識することができるようになります。得るものが多いだけでなく、気が散らなくなりました。私は『轉法輪』の縦書き版を読んでいます。なぜなら、横書き版は、目が左右に揺れる癖があるため、すぐに読んでしまうからです。特に多くの同修は何十年も『轉法輪』を読んでいるため、無意識に読み進めてしまいます。縦書き版では、目が上下の動きに慣れていないのでしっかり読むことができます。前回この方法で読んだとき、すべての言葉の後ろにある無数の佛が見えました。私の天目は開いているので、心が静かで落ち着いているときには他の空間の光景が非常にはっきり見えるのです。そして、私は集団学法のときも速度を落とすべきだと提案したいのです。なぜなら、皆さんはすべての文字が心に入り込むかどうか、気を散らさずにいられるかどうかは、言わなくともわかるはずです。皆さん試してみてください。もしかしたら2時間の集団学法で一講を読み終えられないかもしれません。しかし、しっかりと一歩一歩、確実に学んでいるのです。誰もが学法する時間を大切にしようとしています。2時間は誰にとっても非常に貴重です。集団学法は必ずまじめに学ばなければならず、なんとなく2時間読んだだけでノルマを達成したと感じてはいけません。

 次に、私は最初にアメリカに着いたとき、お金がなく、親戚と暮らしていました。知らない地で初めは車の購入、銀行口座の開設、家の賃貸など親戚にたくさん手伝ってもらいました。その後、収入がまあまあで、あまり疲れない仕事を見つけましたが、親戚の店は人手不足のため、私は仕事を辞めて彼女を手伝いました。店では調理用の石油ストーブや鍋の洗浄、肉を切るなど、厨房作業で6、7時間立ちっぱでした。私は腰が痛くて我慢できなくなり、家に着くのは夜中の12時です。さらに、24時間問わず必要があればすぐに店に行かなければなりません。前の仕事に比べて疲れるし給料も安かったのです。当時私は少し心のバランスを崩し、なぜ私をこのように扱うのかと不平不満をこぼしました。

 以前は私は中国で公的機関のオフィス仕事をしていましたが、アメリカに来てからは力仕事になりました。親戚が娘には大変な作業をさせない代わりに、私をこき使い、けちることに文句を言いました。同時に、同僚や知らない人からも嫌がらせを受け、肉体的にも心理的にも耐え難いと感じていました。私の家族に電話をしたとき、父は「普通の人が耐えられないような苦を舐めなければならない。お前は中国共産党の下で働くことに慣れ、なんでも適当にごまかし、苦を舐められないのだ」と言いました。突然、私は師父が父の口を借りておっしゃっているのだと感じました。確かに自身に問題があるのです。

 ある日、私が本を開いた瞬間、第三講の「煉功するには徳を重んじなければならず、良いことをし、善をなさなければなりません。いつでも、どんな所でも、そのように自己を律しなければいけません。公園で練功するにしても、家で練功するにしても、そのように考えている者は何人いるのでしょうか? 一部の人は何の功をやっているのか分かりませんが、身体をゆらゆらと動かしながら、口では『ねえ! うちの嫁はわたしにちっとも親孝行しないのよ』とか、『うちの姑はなんて意地悪なんでしょう!』とか言っています。職場から国の政治まで、何でもおしゃべりする人もいて、自分の気にそぐわないことになると、腹が立って仕方がないのです。これを煉功と言えるのですか?」[3]が目に飛び込んで来ました。

 これは私のことを話しているのではないかと気づきました。私たちは法が修煉者を煉る功法です。大法は24時間私たちを煉るメカニズムがあります。私たちが煉功をしていないときも功が煉っています。実際、私たちは随時煉功していることになります。私が悪いことを考えているとき、心性が低いときは、自分を常人として扱っています。その後、私は法を学び続け、自分を法で規制しました。これは業を消去していることだとわかり、他の人が私に徳を与えているのです。他の功法では幾世もの償いをしなければ、修煉できないのに、この世だけで今までの業を返済しなければならないのですから。これくらいの苦しみに耐えられないのでしょうか? 常に自分の心性を求め、善を持つことを自分に要求しました。私が悪い考えを持っていたら功が出るはずがありません。このように考えてから、私はこの難を乗り越えられ、文句を言わずに親戚のために働き続けました。すると、腰も痛くなくなり、親戚も私に親切になりました。その夜、私の天目はさらに開かれ、悪いものがもう一つ取り除かれました。同時に発正念をするときに功能が強くなり、スケルトンや悪霊が修煉者を見ただけで逃げ出そうとし、私はそれらを瓶に収めて水に溶かしました。

 またもう一つの出来事がありました。私は数日節約して20ドルでパジャマを購入しましたが、一晩でパンツに穴が空いていたのが見つかりました。これはきっと買ったときからのもので返品しようとしました。しかし、一晩着たので、今返品したら得をするのではないかと考えました。この小さな穴は縫い付ければ着られますし、多少損をしても何の問題もないのではありませんか? このようなことがたくさん起こりました。私の経験では、なにか問題が生じ内心落ち着かず、常に何かを考えてしまうとき、必ず一文字一文字まじめに『轉法輪』を読むべきです。速度や読んだページの数を追求しないでください。本当にしっかり学び、雑念を持って読んではいけません。ある段落まで読んだとき、この段落が自分について話していないかを考えてもいいと思います。このような面倒なことに遭ったのは心性の関を乗り越えなければならないからです。落ち着いて法はどのように私たちに求めているのかを考えたり、悟ったりしてから読み進めてみるといいのです。法はさまざまな次元で指導作用を果たしています。

 師父は「新しい学習者も古い学習者も、大法の中で修煉し、みんな功成って圓満成就できるように希望します! 皆さんは帰ってからも時間を無駄にせず、着実に修煉するよう切に希望します」[3]とおっしゃいました。

 大法での修煉をいかに理解しているのかについて、私たちの生命はすべて師父から与えられ、宇宙で生まれたのです。出会ったすべての人や物事は皆、私たちの心性を向上させるためであり、良いことです。問題に遭遇したとき、私たちは必ず大法で解決策を見つけることができます。同修や家族に不平不満を言ったり、自分で悩み苦しんだりする時間があれば、しっかりまじめに法を読み自分の何が悪いのかを悟ってから、次の段落を読み進むことをお勧めします。法に基づいて内に向かって探すことこそ大法における修煉であり、本当の修煉であると私は考えています。大法にしかこのような威力がないのです。

 難に遭遇したとき、必ず学法しなければなりません。法に従って行なえば必ず乗り越えられます。私たちは全員大法の中で修めており、いかに学法するかが一番大事なのです。心に入れることや時間を費やすことはそれほど難しくありません。

 私の個人的な経験では、本当に『轉法輪』をしっかり学んでこそ修煉者が人を救うことをやっており、でなければ常人が人を救うことにすぎません。それは時間の無駄であり、福報しか得られません。師父は私たちのために焦っておられます。着実に修煉して、自分の次元を高めてこそ神に向かう人なのです。

 個人の浅はかな認識であり、妥当でないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願い致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『大法弟子は使命を果たしている』
 [2] 李洪志師父の経文:『南米法会へ』
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法一』「シンガポール佛学会成立式典での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/10/395617.html)
 
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