【明慧日本2020年8月16日】修煉において乗り越えられない多くの関はすべて「自我」と関係しています。自我を修める時、往々にして難の中で修めようとしてもなかなか抜け出すことができません。抜け出すことが出来れば、修めることは容易です。
乗り越えられないものの多くは自我の現れです。たとえば、誰かが言ったことが気に障ったとか、誰かが私の物を勝手に使ったとか、誰かが陰で私の噂話をしたとか、私が好きな何かがどうなったとか、これらはすべて名、利、情によるものです。名、利、情を放下できないのは、自我を放下していないからです。よく考えてみればすべてに「我」が存在しています。
この「我」が執着しているのは他の空間のものではなく、すべてわれわれの肉身が生きている空間の物です。つまり今の身体が存在する空間における名や利などの物です。この身体が何かを欲しがり、食べたがり、名誉上の何かを求めたりすることはこの肉身が享受するのです。
師父は「人間は物質的な身体を持っていますが、物質的な身体だけでは完全な人間を構成することができません。人間としての気質や性格、特性、元神を持って、はじめて完全な、独立した、自我の個性を持った人間になれます」[1]とおっしゃいました。
われわれは主元神こそが真の自分であることを知っています。その他の気質や性格、特性はすべて本当の自分ではありません。怒っている時や気分が悪い時は元神によるものではありません。情が移っただけです。まさに映画を見ている時、中の役者が不公平なことに遭ったら、自分も憤りを覚えるのと同じです。これは引き込まれただけです。肉身は本当の自分ではなく、われわれが人としての生活、常人を救う道具にすぎません。この道具の気持ちは本当の自分の気持ちではありません。
食事や睡眠はこの道具をメンテナンスし、正常な作用を発揮させるためのものです。他に食べ物に対する欲望などは皆道具が思っています。たとえば、工具のレンチは乾燥した涼しいところが気持ちよく、日に当たらず、湿気がなく、さらにオイルがあるといいのです。高級なオイルであればあるほどいいのです。ひいては布で包むとよく、欲を言えば優れた布がいいのです。
その欲望はまるで切りがないのです。良いものを求め、さらに良いものがあればなおさらいいのです。すべてこの道具が思っていることです。この人体もそうです。苦を嫌がり、気持ちのよさを求め、そのために争います。
もし主意識がこの要求を甘やかし、レンチを使うときに一番いいいオイルや布を使い、壇上にお供でもしようとすれば、正常な状態でしょうか。壊れない程度の状態で十分です。それら常人の幸福を求める考えは主元神によるものではありません。
道具の気持ちは自分の気持ちではなく、第三者の立場から、道具を使う者の立場に立って見ることで、はじめて人から抜けて、客観的な要素で考慮することができ、気質や性格、特性などの外来の要素に影響されなくなります。
このことを認識できたとき、私にとって名、利、情、乗り越えられない関、精神的に受け難いいわゆる屈辱などは、すべてが取るに足らないものになりました。
不当なところは同修の慈悲なるご指摘をお願い申し上げます。合掌。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』第一講