「自我」への再認識
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2020年7月4日】「自我」は旧宇宙の根源的な性質である「私」からの派生物であり、「自我」があるからこそ、根本的には取り除けない執着が多く存在しているのです。 最近、自分の修行状態の悪さの原因を探してみると、根本的な原因はすべて自我がきれいに取り除かれていないことにあるとわかりました。

 最近は、以前のように自分の意志がしっかりしていないと感じることがあり、ちょっとしたことで感情的になってしまいます。そして、面と向かって真実を伝える過程で、純粋な心を持てなくなりました。分別心が出始めて人を選ぶようになり、自分が任務を成し遂げられるような感じになってしまいました。

 緊張感のある環境だった昔は、自分の中での決意が強かったのに対し、今は比較的緩い環境になっているので、自分の中では逆に気持ちも緩くなってしまいました。最近、面と向かって真相を伝えに行くとき、若者をみると「この人に真相資料を読んでもらおうとは思わない、どちらにしても、今時の若い人のほとんどが受け付けてくれないので、聞くのは時間の無駄だ」と思ってしまいます。人が多いところでは口を開けたくなく、一人や二人に言った方が楽だと思ってしまう、などなど。心の底では良くない考えだと分かっていても、それを突破する気力がありません。 自分がどこを間違えたのかもわかりませんでした。

 家に帰ってから『轉法輪』を勉強していて、天目について師父はこう仰いました「身体の表面もすべすべの状態ではなく、でこぼこしています。宇宙のあらゆる物体、鋼、鉄、石にしてもみな同じで、中にある分子成分がみな動いています。全体の形はあなたには見えませんが、いずれも安定した状態ではありません。この机も同じで、蠕動しています。しかし、肉眼ではその真相が見えず、この両目の働きが人に錯覚を与えています。」[1] この一節の法を見て、私は自分の目で見たものが真実だという先入観に惑わされ、人々の上辺だけの態度に心を乱されていることに気がつきました。世の中の人がどんなに悪さをしていても、どんなに不愉快な言葉を吐いていても、実はみんな本当は救われたいと思っています。異次元の真の彼らは、まだ「もっと教えてくれ、真実を理解して自分は救われたい」と叫んでいるのかもしれません。 この理屈を理解することで、たくさんの正念を頂けました。

 正念を持っているとはいえ、まだまだ見つからない良くない心が隠されているような気がします。 夕方、料理をしながら交流記事のラジオを聞いていると、『学法し難問を解く、不当な牢獄で大法を実証する』という交流記事がありました。その文章の中で「私はずっと考えていたのですが、冷静に彼女にこう言った『 そういう理由ではなく、貴方は大法の実証よりも自分の自由を優先しただけ。 もし一修煉者として常に大法の実証を第一に考えたら、どんなときでも「三書」を書けないはずです。大法が『×宗教』と非難されるだけで悲しむはずです。ましてやそんなことを書くなんて考えられません』、 もしある人が自分の命と自由が脅かされているとき、まず自分はどうすれば大法が良いものだということを他の人に理解してもらえるかを考えるべきだということです。 自分の利益や損失から守ることを考えるのではなく、そのときどうすれば何が正しいのかは自然と分かるはずです」とこのように述べました。

 同修のこのやりとりを聞いて、自分の問題点は何だったのかがすぐ分かりました。すなわち、後から形成された偽物の私、「自我」を手放していなかったことでした。同時に、夜の12時の発正念を突破できない理由も分かりました。 それは、その快適さに取り憑かれた偽物の自分を本当の自分だと思い込んでいました。自分が快適になることは本当のメリットだと思って、突破したくなくただ快適になりたかったのです。

 これで、真相を伝える時の心理状態が良くない理由を見つけました。それは、偽物の私を不快にさせる言動と向き合いたくないということで、大法実証よりも偽物の私の利益が重要視されました。このままではこの偽りの自分を打破できず、どんどんだらしなくなっていき 突破できなくなります。そう考えると、私はショックを受け、本当に安逸は毒酒の如くである、そう感銘しました。それでこれを理解出来てすっきりしました。なぜ自分が正しい状態ではないのか、今後どうすれば良いのかがわかるようになりました。 修煉により、執着が取り除かれた素晴らしさを感じる事が出来ました。

 時には、ある執着心が強すぎて、それが後天で形成した偽の自己の追求を、真の自分の追求だと勘違いしていました。偽りの自分があまりにも真実しすぎて、それと直面したくなく、耐えたくなく、またはそれに言及したくないように、すべてその偽の自己が作用していたのです。

 「自我」を修煉によって無くし、自分ではなく、相手を心に置くことで、やっと自分を小さく見下すことが出来ます。もっと相手を理解し、より全体との協調性を保ち、自分をもっと高めていくことができます。さらに、確実に修煉していくことで、「私」から抜け出すことが出来、慈悲心を修めることが出来るのです。

 注:
 [1] 李洪志师父著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/6/24/407940.html)
 
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