快適さを求め 時間を無駄にしないように
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文/中国の大法弟子   

 【明慧日本2019年6月23日】以前から知っていたある年配の女性同修は健康で年金をもらっており、自分の住宅を持ち、一人で生活をしていました。他の同修に面倒なことがあると熱心に助けてくれました。息子や娘はみな結婚して別々に暮らしていて彼女に負担をかけることもありませんでした。しかし、彼女は子供と孫たちのことに非常に気をかけていました。

 この同修はもう仕事を辞めていましたが、しばらくの間日常生活のなかの些細なことで非常に忙しくしていました。修煉状態はよくなく、学法の時間も確保できなくなり、静功を煉る時は眠くてたまらなくなり、発正念の回数が少なくなったばかりか、発正念の時、手も倒れ、真相はめったに伝えていませんでした。

 ある日、同修は川でエビを捕っている夢を見ました。夢で数匹のエビを捕りました。他の同修は、これは師父からの悟らせで、無駄なことで忙しく、やるべきことをやっていないという意味だと彼女に注意しました。しかし、この同修はそう思わなかったばかりか、逆に良いことを意味しており、自分に成果があると思っていました。

 もうひとりの年配の女性同修の夫は高い幹部職から定年退職していて、2人の年金は毎月1万元を超えていて生活は余裕でした。しかし、2人は今住んでいる家があるのに、また広い高級マンションを購入しました。夫は内装には素人で子供たちも助けてくれませんでした。結局内装を全て同修がやることになりました。60歳を超えた同修は数カ月経つと身体がくたくたになり、学法に参加する回数も少なくなりました。ようやく内装工事が終わり、入居できるようになりましたが、思いがけないことに、同修は急に世を去りました。

 ある同修は自分の家があるだけで経済的にあまり余裕がありませんでした。しかし、いろいろ考えたのちお金を借りて新たに住宅を購入しました。またローンを借りて子供を名門校に入学させました。結局ローンの返済や高額の学費を支払うため、朝早くから夜遅くまでお金を稼ぐしかありませんでした。しかも子供の勉強の世話もしなければならないため、学法、煉功、発正念の時間は殆どありませんでした。もとからあまり真相を伝えていませんでしたが、今はなおさらです。子供も小さい時は大人に連れられて学法し、煉功していましたが、今になって毎日多すぎる宿題を完成させるために朝早くから夜遅くまで忙しく、やっと休み時間になると、補講があるので学法と煉功する時間が全くなくなり、やる気も出なくなりました。ほんの少しの暇があるとスマホをいじりました。

 ある同修は非常に仕事ができ、お金も多く稼いでいて、職場で高い職位につきました。もちろんこれは悪いことではありませんが、名利を求めるなかで自分の時間がますます少なくなり、常人と同じ状態になり、大法から離れて最後には学法も煉功もできなくなりました。

 一部の同修には時間があり、周りの環境も優れていました。特に若くて、働く必要のない人もいましたが、毎日学法と煉功することができません。一部は煉功と学法はよくできていますが、真相を伝えることをあまりやっていません。一部は煉功と学法はやっていて、真相資料も少しだけ作成していますが、毎日のんびりしていますが、自分は偉いと思っています。そもそも速いペースで、効率を高めればもっと多くのことができるはずですが、遅いペース、低い効率で動き、正法の時間に常人の暮らしをしています。

 あなたはお金を稼ぐために必死になり、親と子供のため朝早くから夜遅くまで働くことができたり、一時の快適のために気を使っていますが、そんな状態でも「大法弟子」と称することができるでしょうか? 我々の生命の価値は本当にこれだけでしょうか? もし法を正す師を手伝って衆生を救い済度するような神聖で偉大なことに全力を尽くすことができなければ、当初思い切って大きな決意で下りて来た目的はいったい何ですか?

 法を正す時期の大法弟子として私達は師が法を正すことを手伝って衆生を救い済度する偉大な使命を担っています。自分自身の修煉の良し悪し、三つのことをよく行なっているか否かは自分の存亡、世の人々と衆生の存亡、宇宙の存亡に直接関わっているので、粗末に扱っていいのでしょうか。「全力を尽くす」ことは法を正す時期の大法弟子に対する要求です。三つのことを全部しっかり行なってこそ大法弟子としての責任を全うすることになり、本当によく行なったことになります。

 もちろん、ここで皆さんに理性もなく極端に走り、強制的に何かをさせようとしているのではありません。人それぞれ状況が違うので、一様に言い切ることはできず、いろいろな現れがあります。けれども、一部の同修は「自分の力に応じて物事をする」、「極端に走らない」、「常人の状態に合わせる」などを口実に消極的な態度をとり、ゆるんだ考えをもって自分の怠慢を隠しています。修煉において、三つのことをする時も全力を尽くさず、何をやっても自我を守るという最低ラインに固執しています。苦労して一つの次元を突破するとそれだけで満足して、もっと高い次元へ突破しようとしません。自身の修煉状態、環境の良し悪し、三つのことがよくできたか否かは、私たちがどんな角度で問題を見るか、物事をやる出発点がどこにあるか、正法に対してどのくらい心を込めているかなどが反映されています。

 神は人の心を見ています。口先だけでイエスを信じていると言う人が必ずしも天国へ上るとは限りません。彼がイエスのおっしゃったとおりに行なうことこそ真にイエスを信じている現れです。大法弟子も師と法を信じてしっかり修めると言っていますが、もし法の要求に従わなければ、真に師と法を信じたことにならず、必ずしも圓満成就して天に上れるとは言えません。

 師父は「真相を伝え、衆生を救い、これはすなわちあなたが行なうべきことです。これ以外に、あなたが行なうべきことはなく、この世界であなたが行うべきことはありません。あなたはこれらのことを行なうべきですが、一部の人は自分が修煉しているという気持ちさえ薄れてしまい、常人のことを重く見ています。皆さんにとって、それは大法弟子の修煉の道から離れてしまったのではありませんか?」[1] と教えてくださいました。

 仕事、生活、人類社会の状態を維持するのは修煉しながら人を救う環境を保つためです。しかし、これらに執着し、名、利、情を追求するのは本末転倒なことで、私達が世に下った初志に背くことではありませんか? 人類社会で長いあいだ忙しく暮らしていたら、最終的に「無駄なこと」をやったことになるのではありませんか?

 世の中の人々は毒害され、同修は迫害され、邪悪は人を殺していますが、それでも私達はのんびりしているのですか?

 師父は「あなたは超常的な理で量らなければなりません。殺人や放火事件を見て見ぬふりするのは、心性の問題です。そういうことをしながらどうして自分が良い人だと主張することができるでしょうか? 殺人や放火事件にさえ手をこまねいているとすれば、どんなことならあなたが手をこまねかないのでしょうか?」[2] とおっしゃいました。

 修煉に修煉を重ねてきたのに最終的に「身勝手」な人になってしまったら、「無私無我」の基準とはどれほど離れているでしょうか?

 師父は「学習者自身がしっかり行なっていなければ、旧勢力だけでなく、宇宙のすべての神も許しません。時間はあなたにとっても、宇宙の無量の衆生にとっても差し迫っており、師父の話は厳しいようですが、長い間愚かになっている学習者は本当にこれからどうするのかを真剣に考えなければなりません」[3]とおっしゃいました。

 師父はまた「いずれにせよ、大法弟子として、師父が皆さんに教えたいのは、自分の責任の重大さを知っておく必要があり、これは子供の遊びではないということです。このことはすでに最後まで来ており、私は焦っていてしょうがないのに、皆さんは気にしていません。しかし、最後になると、泣いても間に合わないのです」[4] ともおっしゃいました。

 ここで同修を非難しているのではありません。私にもあれこれの足りないところがあります。ここで指摘しているのはただ私達が良く行ない、より良く行なって損失と後悔を減らすためです。そうして初めて師父に申し訳が立ち、衆生に申し訳が立ち、自分自身に申し訳が立ち、この偉大な歴史的な瞬間に申し訳が立つのです。

 妥当でないところは慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作: 『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨(三)』「ヨーロッパ法会へ」
 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/3/30/384489.html)
 
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