後天的に形成された「自我」を認識する
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年12月28日】私は最近、後天的に形成された「自我」が、自分や同修の修煉、人を救うことへの最大の妨げとなっていることに気がつきました。しかし、一部の同修はこの後天的な「自我」を認識できず、それによってコントロールされ、三つのことをこなしていますが、実際には大法の中で自分を修めておらず、正法を正す時期の大法弟子としての威徳を樹立できていません。

 私は現地の同修と一体になるべきだと決め、同修の所へ行くことにしたところ、全身の震えが止まらなくなり、特に足がひどく震えだしました。そこで、足の背後にいる生命に対して、私は何も無慈悲ではなく、あなたが大法弟子が一体となることを妨げようとしているため、滅せざるを得ないと言いました。その瞬間に震えが止まり、体内に冷たい液体が足から足先の親指まで流れていくのを感じました。この時、私の頭の中は恐れることが何もなくなり、何を恐れていたかすら忘れ、恐れるという概念が消えました。師父の慈悲なるご加持の下で、私は順調に現地の同修と一体となることができました。

 今、私は後天的に形成された「自我」が、大法弟子が一体となることを恐れていたことが、はっきりとわかりました。私たちが大法において一体となり、師父がおっしゃったことを達成すれば、後天的に形成された「自我」を解体することができ、修煉によってなくすことが出来るのだと認識しました。

 この後天的に形成された「自我」も大法で修煉しようとしますが、大法の法理が見えず、機械的に本の通りにすることしかできません。まるで仏像を開眼しようとする和尚のようで、ただの形式に過ぎず、中身がわからないのです。

 私はいくつか例を挙げて、この後天的に形成された「自我」が、どのように修煉に関わっているかを見てみます。

 数日前、家族、同修でもあるのですが、突然に私を咎めました。人の面から見れば、ぜったいに無実の罪です。当時「自我」は難が来たと認識して、心性を守り、反論しませんでした。家族はさらに激怒し、勢いよく責めてきました。このとき、私は丹田の部分にまるで黒い殻のようなものが現れて、頭の中で「忍の限界」[1] という師父の経文からのことばが出てきました。私はこの言葉に従って、やんわりとひと言弁解しました。すると、家族はさらに激怒してしまいました。

 私は落ち着いて内に向かって探しました。あの黒いものは一体何だったのでしょうか。硬い殻のように本当の私を覆い隠してしまいました。だんだんとそれが後天的に形成された自我であると認識しました。よくその動きを観察すると、はっきりと区別することができました。それは自分に境界線を設置し、自分を守る範囲を定めているのです。その部分は変えてはならず、触れられてもいません。それが決めた範囲以外ではいかに執着し、修めても動ぜず、その存在が脅かされていないからです。しかし、いったんその存在が脅かされれば、師父の話をもって、正法の名のもとに邪悪なことをやります。

 十年前のある日、2人の警官が私の家に来ました。当時、私は非常に賢くて、警官らが私を迫害しようとする意図を見破りました。私はまず法輪功について触れさせず、しばらくの間、我慢させたのです。最終的には、警官らは必ず法輪功について、何かを言わせるように仕向けてきました。その時に事実を述べ、法輪功のことを話せば良いのです。私の予想通り、警官らが法輪功について聞きたいことを聞かれ、そのときに真相を話しました。最終的に何もせず、警官らを帰らせることができました。

 私はいつも自分が関を乗り越えられたと思い、迫害を否定できたと思っていましたが、今やっと私は、これまで後天的に形成された「自我」にコントロールされていたことがわかりました。これまでは、正々堂々と自分を放下できず、慈悲深くこれらの縁のある人を救い済度することが出来ませんでした。

 最近、私はよく朝の時間を利用して学法し、「自我」の状態が非常によく感じて非常に静かでした。しかし私がそういう状態に入り、「法理」が現れそうな肝心なときに、家族にあれこれ頼まれてしまいます。また戻って学法すると、その状態が消えてしまいます。私は続けて学法し、しばらくするとまた状態が良くなったときに、また家族から果物を持ってくるようにと頼まれ、私は苦笑いするしかありません。

 私が法の中で向上しようとすると、邪悪が人を操って邪魔してくるのだ、とずっと認識していました。しかし、この妨害はきりがないのです。このとき家族は私が学法することは私(し)であるといい、私は心の中で「私はお前たちがテレビを見ている時間に学法しているだけで、私(し)ではあるまい」と不満に思いました。そしてすぐに「この不満に思っているのは誰だ。さっきまで、学法の状態がいいと思っていたのは誰なのだ」と疑問に思いました。本当の私は、このように思わないはずです。これが後天的に形成された「自我」であり、法を得ることを邪魔し、偽装せずに不満に思っているのです。後天的に形成された「自我」が学法することは全部自分自身のためであり、目的をもっています。しかし、本当の自分は私(し)がなく、完全に他人のことを思っているのです。

 師父は「今までの生命は私(し)の為です」[2]と説かれました。生命が社会活動に参加する時このような「私(し)の為」という要素が自分自身だけのことを考えるおそれがあり「私(し)」が生まれ、その生命は旧宇宙の理の中で降下し始めます。旧宇宙があなたの生命を主宰する時、自分を守ろうとする考え方が形成される恐れがあり、この考え方の働きにより、多くの観念が形成される恐れがあります。これらの観念こそ、私たちが現在認識しているいわゆる後天的に作られた「自我」であり、さらにこれらの後天的な観念が、さまざまな執着心と人心を形成するのです。

 私は法から認識できたのですが、師父はすでに本当に修煉している弟子のために、これらの自我の要素の深い部分を取り除いてくださり、わずかな表面的なものは、私たちを向上させるために残してあるのです。私たちの本性は真・善・忍によって構成された生命であり、もし、師父が大法弟子のために取り除かれなければ、大法弟子は修煉することがで出来ません。

 今日になって正法の過程も最後の最後になり、世間で起きているすべては根本的に「自我」に執着する要素によるもので、それは正法を受け入れがたいのです。それに関して、私がこの交流文章を書いているときにも明らかに現れてきて、3日かけてやっとこの交流文章を完成することが出来ました。この文章を書こうと思うと、体の具合が悪くなり、特に今日はパソコンの前に座っていられないくらい震えがひどく、タイピングすら難しい状態でした。しかし、師父のご加持の下で、ようやくこの文章を完成させることが出来ました。

 師父に感謝いたします! また、正法を妨げている要素が慈悲なる正法を受け入れ、素晴らしい未来が訪れるように願ってやみません。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「忍の限界」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地の説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/25/396211.html)
 
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