常人が求めることを修煉者は求めない
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

  【明慧2020年11月20日】ある日、私は煉功した後、少し悟りました。それは1人の人間として、常人として何らかの目標があり、何かをしたいと思う時、この達成したい結果が必ずしも法に符合している訳ではなく、それはつまり「執着」なのです。

 私はさらに内に向けて深く探してみると、この求める心がまだまだたくさんあることに気付きました。私たちは常人社会の中で修煉し、常人のあらゆることは、私たちにとって大きな誘惑になります。私たちは正しい念、正しい行いを保たなければ、常人の誘惑に興味や執着を持ち、頑なに、さらに強く追求してしまいます。

 私たちは大法によって育成された生命であり、すべては大法に由来したものです。大法に真に同化し、大法に則って考えを改めてこそ、はじめて邪霊に操られている衆生を救うことができるのです。

 このことを考えると、私は修煉の一思一念をより深く理解することができました。例えば、煉功しているとき、頭の中では後で何を買いに行こうかとか、何の料理を作ろうかなどの考えが浮かびますが、これは実際に無形な妨害です。すでに習慣となって、修煉に真剣に取り組んでいないため、この妨害は無形の中で修煉の厳粛さが知らない間に薄れて行き、無意識のうちに邪法を練ることになります。

   師父は、「多くの人は煉功する時に、正しくない考えをもっています。站樁をする時、手足が震え出すほど疲れているにもかかわらず、頭の中は休んでおらず、さまざまなことを考えています。『物価が上がりそうだから、少し買い溜めしておかなくちゃ。練功が終わったらすぐ買いに行こう。値上がりしたら大変だから』とか、「入静できない根本的な原因は、方法にあるわけではありません。何か奥の手があるわけではなく、その人の考えや心が清浄でないからにほかなりません」[1]と説かれました。

 修煉するにつれて、修めれば修めるほど考えは純粋になります。人間の行動は脳によってコントロールされ、考えは単純であれば、空間場も純粋です。例えば、きれいな家と、ゴミや汚れの多い家では、考えてみれば、結果がどうであるかはすぐ分かります。

 私たち大法弟子は幸運であり、師父に選ばれた弟子です。私たちは師を手伝って法を正す過程の中で行う全てのことは、みな師父の加持と保護の下で行われ、実際には師父が行っておられるのです。私たちはただの人間で法を正す一つの粒子であり、師父は大法弟子を向上させようとされているのです。私たちは大法の中で浄化され、大法に同化し、自分の次元を高め続けてこそ、師父が望んでおられることをより良く修めることで円融することができるのです。

 次元には限りがあります。正しくないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/6/395492.html)
 
関連文章