文/中国の大法弟子 蜀中人
【明慧日本2021年3月14日】2月25日、明慧ネットに「法を正す最後の時間に対する考えと予言」という文章が掲載されました。この日この文章を一回読みましたが、翌日、冷静になって考えてみると、文章の中に師父の法理に明らかに符合していない部分がありました。そして私はこの事を考えないようにし、何も執着することなく、法を以て師とし、何時ものように三つのことをよく行えばいいと思いました。
2月26日か27日に、明慧ネットはこの文章の末尾に【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているだけであり、正しいか否かについては筆者個人の責任であり、読者は自身で判断してください】という文言が付け加えられ、この時、私はこの言葉を真剣に受け止めませんでした。後に毎日、掲載されている一部の文章にも編集者注の文言がありました。
明慧ネットの編集者は、なぜこの「編集者注」を付け加えたのでしょうか? 考えてみるとその理由が分かりました。 それは中国国内の同修は明慧ネットを重視しており、極端な同修、または執着のある同修が、文章で語っていることに執着し、しかも、その交流文章を資料にして配る同修もいます。
例えば、昨年の疫病の第二波を予言した文章では、昨年末から今年初めにかけて疫病が大爆発し、その時に8億人以上が死亡すると予測していました。 当時、この文章は、疫病の第二波の発生時期と死亡者数を明確に述べていました。 私の地域では、個別の修煉者が「師父の意向が組まれたものではなかっただろうか?」と 推量していました。また、ある街の資料作成を担当する同修が、この文章を資料に作り直し同修に配らせていました。
明慧ネットの編集者が文章の末尾に、【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】という言葉を付け加えた後、私の理解では、明慧ネットの編集者が読者に、この文章は筆者の個人の観点であり、明慧ネットを代表せず、さらに師父をも代表していません。この文章を掲載したのは、修煉者同士の交流に過ぎないということを伝えたかったからだと思います。
以上は個人の認識であり、法理に符合していないところがあれば、慈悲を以てご指摘ください。
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】