これも「罵る」なのか
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年5月15日】感情的になって路上で罵声を浴びせたり、冒涜的な言葉や罵声を日常的に口癖のように使ったりすることは、常人であれば当たり前のことであり、会話をしていても気づかないことです。しかし、修煉者としては、修煉を始めてすぐに、師から、もう罵倒や悪口を言ってはいけないということだけでなく、次のように教えられました。「一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません」[1]ていますが

 私は、20年以上も修煉をしていますが、その間、人を罵らない、みだりに人を漫罵することもなく、師父の要求を満たしていると考えてきました。しかし、先日ふと、そんな単純な話ではないことに気づきました。今の普通の人は、口癖や汚い言葉遣いは、それはトーンや感情の表現であり、罵る言葉ではないと思っているかもしれません。しかし、1950年代には誰もそれが罵り合いの言葉だと知っていました。また、低いレベルでは、学習や知識の追求を探求していると見られる言葉がありますが、高いレベルで修煉している人は、それを、神を冒涜していると見なし、非常に業を生み出しています。

 そういえば、数日前のある日の午後、3人の同修と交流していました。その中で、普段から接している常人の言動に慣れないという話がありました。私は、「他人の行動を見下すことは、他人を見下すことであり、これは嫉妬の一面でもあります」と話しました。

 交流の中で「嫉妬心」の話が出たので、それも気になりました。 そこで、家に帰ってから、パソコンで『轉法輪』の中で説かれている、嫉妬に関する部分を読みました。読んでみると、「『ぼく百点取ったよ、ぼく百点取ったよ!』と子供が学校から家へ走りながら叫んだりしたら、『それがどうしたというのだ。たかが満点じゃないか。はしゃぐな! 百点はお前しか取ったことがないわけじゃないぞ!』と、隣近所はドアも開けないうちから罵声を上げているでしょう」[1]

 私は「ここには叱るという言葉はないのに、なぜ師父は『罵声を上げている』と説かれたのだろう」と思いました。 私はこの文章を繰り返し読み、「ああ、だから言葉遣いが不遜であることは、修煉にとってののろいなんだ」と理解しました。

 そこで、罵るに関する師の教えをすべて検索して読んでみました。 その中でまた驚いたのが、「人は薄のろを見かけると、『こののろま野郎』と罵ったりします」[1]というものでした。人を馬鹿にしたり、笑ったり、侮辱したりと、人に危害を加えることは、修煉者にとっては罵ることと同じです。

 私は50代ですが、私が子供の頃は、よく知らない人に会って目上の人に名前を聞かれない限り、子供や孫はいかなる時も目上の人を下の名前で呼んではいけなかったのを覚えています。子供が目上の人をかってに名前で呼んだら、それは目上の人を罵るのと同じでした。

 部下が上司に話しかけるときは、謙虚な姿勢で心と言葉に敬意を払うべきであり、目下の者が目上の人に話しかけるときも同様です。男性は女性に対して失礼な態度で聞いたり、見たり、話したりしてはいけません。女性も男性に対してもそうですが、そうでなければ、不快で、反抗的で、軽薄で、さらには侮辱的であり、罵倒と同じ効果があります。

 法における人間の言動の要求を理解した上で、師父は『轉法輪』「巻二」の中の罵ることについての高次の法理を読むようにと啓発してくださいました。「如来佛は人を常人と見なしていますが、更に非常に高い次元に到達した神が振り返って見れば如来も常人に過ぎません。そういった高みにある神にとって人間は微生物にも及びません。一目見て、こんなにも腐敗堕落したところは叩き壊してしまえ! 壊滅してしまえ! 地球はこのようなところです。人を憐れむようにと説いているのは人間という次元に最も近い佛です。イエスも老子も如来の次元にあります。それよりさらに高いところにあれば、人間のことなど構いません。人が呼んでもそこには聞こえません。人がその名を呼べば彼を罵ることになってしまい、糞だめの中から声をかけているようなものです」[2]

 師を助け法を正し、衆生を救うのをよりよく助けるために、私たちの一つの考え、一つの念を正し、24金の純粋な状態に到達すべきです。           

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『轉法輪』「巻二」「人類の堕落と覚者の出現」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/28/423923.html)
 
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