小さな出来事から啓発を受ける
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文/河北省の大法弟子 定心

  【明慧日本2020年10月21日】ある日、消耗品を買うために自転車で十字路まで行ったとき、ちょうど正念を発する時間になりました。しかし、あいにく自転車の空気がなくなったので、もう正念を発しなくてもいい、まずは自転車を修理しないといけないと思いました。しかし、辺りには自転車を修理するところが見つかりませんでした。通りの角に大きな露天があり、そこでちょうど空気入れがあったため、それを買いました。屋台の所有者は東側の男性と西側の女性の2人でした。私は東側で空気入れを買って男にお金を渡したあと、西側に行って自分の自転車に空気を入れました。帰ろうとしたら、女の人に呼び止められて、お金をもらっていないと言われました。私は男の人に渡したと言ったら、女の人が男に聞いていたが、思いがけないことに、男は「お金はもらってない」と言いました。私はすぐ不快になり、男の方に向かって歩いて行きました。私は「さきほど、ここでお金を渡したじゃないですか?」と言うと、男は「あなたはお金を払いませんでした!」と私を睨みつけながら言いました。

 怒りが爆発しそうになりましたが、私は修煉者なので怒ってはいけない、理性的でなければ、悪魔に隙に乗じられると思いました。私は一息おいて、自分を落ち着かせて、私は男性に、空気入れを購入するまでの経緯を冷静に話しました。話をしている途中に、突然彼が割り込んできて「あ、思い出した、金は貰った」と言いました。

 私の心理状態が変わると、すぐに事態も変わりました。師父は「以前既に話しましたが、実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです」 [1]と説かれました。自分に執着心、闘争心があって、また正念を発する機会を逃したからこそ、このような葛藤が生じてきました。これは偶然ではありません。しかし、人々は表面の現象の正誤に陥ることに慣れていることが多く、これは常人の理屈であり、最も賢い人でさえもこの空間の表面の現象から物事の是非を判断しているのです。修煉者にしか内に向かって探すことはできないのです。

 小さな出来事ですが、よく遭遇します。いつになったら常人のような習慣を変えることができるでしょうか、急に葛藤が出てきたときにも、外を見るのではなく、内に向けて見ることができるなら、なんといいことでしょう。やはり修煉が足りないのです、習慣を身につけるためには、努力を重ねる必要があります。

 暮らしの中で偶然にあった小さなことですが、普遍的に存在しているため、この文章を書きました。参考になればいいなと思います。適当でないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/6/26/350329.html)
 
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