大法を固く信じることこそ 命の希望である
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年3月28日】私は子供の頃から頭痛とめまいの症状があり、小学生の頃はラジオ体操すらできず、グランドに立って少しでも長く太陽に当たるとすぐに倒れていました。それだけではなく、まぶたにこぶがあったので手術をして取りました。結婚してからも生活が思い通りに行かず、ストレスが原因で乳腺増殖症と不眠症に悩まされ、頭痛で目が開かなかったり、体もだるく感じ、ちょっとしたことでもすぐ怒ったりしていました。その頃の私は毎日が苦しくてたまりませんでした。

 当時、私の乳腺増殖症の病状はかなり酷く、両方の乳房が赤く腫れて両脇に大きなシコリがあり、両腕に力が入らず、全身がだるくて辛かったです。治療をするために、ある漢方医から1日2回の鍼灸治療を受け、漢方薬を服用すると同時に、特製の膏薬(こうやく)まではっていました。

 1996年4月のある日、私は床屋の友人から法輪功のことを知って学びたいと言うと、友人はさっそく私に1冊の『轉法輪』の本を貸してくれました。私は嬉しくて懐に抱えて家に持ち帰り、そのまま読み始めました。最初はよく分かりませんでしたが、なんとなく良さそうに感じました。しかし、本を読み始めるとすぐ眠くなり目が開けられず、そのまましばらく眠ってはまた目を覚まし、そして、また読むことを繰り返しながら読み続けました。こうして3日間かけて『轉法輪』を読み終えました。不思議にもこの3日間だけで、奇跡が起きました。本を読んでいると、鍼灸院に行くことも病気のことも忘れ、体の痛みなどの病気の概念すらなくなりました。まだ大法を本格的に学んでいないのに読んだだけで病気が治り、なんと素晴らしいのでしょうか! そこで、私は真剣に学ぼうと決意し、『轉法輪』の本を返しに友人の所へ行き、彼女に「本当に素晴らしかったわ。直ぐに教えてください!」と頼み込みました。彼女は私を煉功に連れて行き、『轉法輪』を買い求めて、すぐに補導員に法輪功の五式の功法を教えてもらいました。

 師父はこのように説かれました。「人間の生命は人間になるためのものではなく、返本帰真して、元に戻るためのものです」[1]  『轉法輪』を読んでいるうちに、私は人間の本性は「真・善・忍」であると分かりました。さらに何かをする時には「真・善・忍」の基準で自らを律しなければならないことや、なぜ「他人から殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず」[1]  の法理も分かってきました。私の性格は穏やかになり、夫の姉との長年のトラブルも解決して体もますます元気になり、家庭までも睦まじくなりました。私の変化を感じた夫は、姉と妹にも法輪功を勧めました。その後、私の両親と弟夫婦も大法を修煉し始めました。

 より多くの人が法を得られるように私は自宅で煉功場を立ち上げて、学法と修煉ができる環境を提供しました。それからビデオプレイヤーを買って、遠い山間部周辺の村民に師父の説法ビデオを見せ、法輪功の煉功動作を教えに行きました。山間部の交通事情はとても不便で、牛車に乗って行くしかなく大変でしたが、私はもう一人の同修と一緒にビデオプレイヤーを手に持って、二つの山を越えて人々に大法を広めました。当時、都会から農村までどこに行っても人々の法輪功を煉功する姿が見受けられ、壮観な光景でした。

 1999年7.20の朝8時頃、私は煉功場の補導員と站長たちが捕まえられて、県庁に連行されたと聞きました。あまりにも突然の出来事で、何が起きたのかまだよく分かりませんでした。さっそく県庁に行って尋ねると、「政府からの命令で法輪功を禁止する」ということでした。このような素晴らしい法輪功を勝手にやめさせるなんて、そんな理不尽なことがあるはずがない、きっと政府側の勘違いだと思い、同修達と一緒に県庁の担当者に交渉し続けました。私達は県庁の敷地内で静かに立って、拘束された人達の解放を朝から深夜2時まで待ち続けました。しかし、現れたのは多くの警官らでした。警官らはその場で暴力を振るって修煉者たちを連行したり、強行に追い払ったりしました。私の修煉環境は一夜にして失われてしまいました。21日の朝、私は汽車に乗って北京へ陳情に行きましたが、陳情機関の門が閉鎖されていて、看板も撤去されていました。周辺にはたくさんの警官らと私服警官らがいて、地方から来たような人を見かけるとすぐに捕まえて、大勢の修煉者たちが連行されました。私は北京に7日間滞在しましたが、ちょうど師父の経文「私の感想」が発表されたので、地元に持ち帰りました。私はこの経文を手書きで写した後、同修たちに回しました。

 北京から戻って来た私は気が重くなり、どう考えても中央政府に陳情すべきだと思い、政府のトップに手紙を書きました。手紙には「自分が大法を修煉して心身ともに健康になったことと、『真・善・忍』は世界中の普遍的な価値観であり、人類と社会にとって百利あって一害もありません」と書き記しました。当時、私は在宅監視されている状態でしたが、師父と大法のために立ち上がり、陳情し続けようと決意しました。10月31日、私は再び上京しましたが、北京の警官に拘束された後、地元の公安局に移送され、不当に1年6カ月の労働教養を強いられました。労働教養所では、大法と師を中傷する事実無根の放送やテレビ番組を強制的に聞かせられたり、見せられたりする他に強制労働を強いられました。酷いことにトイレに行かせない手段で転化させようとする迫害を受け、2001年1月にやっと解放されました。

 大法を信じて 夫の命が助かる

 2008年4月29日、夫は自分の店で仕事中に突然倒れて、意識不明の状態になりました。私は師父に助けを求めながら、夫に向けて「法輪大法は素晴らしい」と念じました。しばらくすると夫は呼吸が戻ったものの、意識がありませんでした。地元の病院に搬送して検査した結果、脳出血でした。その後、軍の病院に転院して集中治療室に入り、8日目にようやく意識が戻りました。しかし全身が動かなくなっており、神経が圧迫されて、話すことすら出来ませんでした。

 1カ月ぐらいの治療を受けて、医師から「このような状態では自宅でゆっくりと養生し、回復を待つしかない」と言われ、退院しました。ところが翌日にまた悪化したため、再び地元の病院に搬送しましたが、5日目で危篤状態に陥りました。友人から柳河県の病院で脳出血の治療で評判がいい病院があるという情報を得て、紹介状をもらって転院しました。半月間の治療を受けたところ、医師に「今までの経験ではこれぐらいの治療をすれば歩けるはずだ」と言われましたが、夫は一向に回復の兆しが見えませんでした。さらに精密検査をした結果、脳に腫瘍があると診断されましたが、「今の現状からすれば、手術は無理だ」と言われました。

 当時、必要な医療費は7万元あまりでしたが、夫は健康保険がないため全額自己負担になりました。ただでさえ裕福ではない生活がさらに悪化してしまい、私の辛さは表現し難いものでした。主任医師は私にこのように言いました。「あまり辛い思いをしなくてもいい です。あなたはもう献身的に介護をされたと思います。こんな真夏日にもかかわらず患者に床擦れもないなんて、今まで見たことがありません。このまま続けて治療しても意味があまりないので、自宅で様子を見た方がいいでしょう」。私は「夫にはあとどのぐらいの時間が残っていますか?」と聞くと、「8日か10日ぐらいでしょうね」と答えました。

 当時、夫の病状はとても深刻で全身麻痺の状態でした。舌が動かないため、飲み食いすらできず、胃に管を通して、流動食しか食べられませんでした。しかし管を通した胃が辛くて、夫はいつもを抜こうとしました。こんな状況を見て、誰も夫を助けることができない、夫を救ってくださるのは師父しかいないと思い、退院して命がある限り家で学法させようと決意しました。退院の日に友人が車で送ってくれ、部屋まで夫を背負ってくれました。夫の状態に友人は悲しみ、言葉もなくここを離れました。

 私は夫に、「昔私も体が弱くて、法輪大法を学んで元気になったじゃないですか。病院では病気を治せても、命まで救うことができません。師父を信じ、大法を信じて一緒に頑張ってみましょうよ!」と勧めました。それに対して夫は「うん」と答えてくれました。その日から、私は毎日夫に師父の説法録音と大法の歌を聞かせました。3日目になると夫は勝手に胃の管を抜いてしまいました。それを見た娘は大声で泣きながら私に「お母さん、大変よ! お父さんが管を抜いてしまったわ。食べられないと餓死してしまう!」 。 私は娘に「泣かないで、お父さんに大法を聞かせたので、もう大丈夫よ!」と慰めました。
 
 確かに娘が心配しているように、夫は舌が動かないので飲み込むことができず、どうかすると、一滴の水でさえむせると命を落とす可能性がある、と医師に警告されていました。私は続けて夫に大法を聞かせ、食べる時は注射器で濃い粉ミルクを一滴一滴夫の口に垂らして、「さあ飲んで、飲んで」と合図しながら飲ませました。家族の優しく辛抱強い介護の中で、師父のご加持により夫は少しづつ米汁からお粥を飲めるようになり、ベッドに座って師父の説法ビデオを見ることが出来るようになりました。しばらく経って、餃子や普通のご飯も食べれるまでに回復しました。その後、まだ話すことができませんでしたが、ものを掴んで少し歩けるようになりました。家で死を待つしかない夫は、師父に守られて、命を救われました。

 1カ月後、退院を手伝ってくれた友人夫婦が夫の見舞いにやって来て、玄関先で車椅子に乗っていた夫を見てびっくりしました。夫の回復を信じられない友人は感激のあまり、いきなり「法輪大法は素晴らしい! 素晴らしい!」と叫びながら、私に「この大法はとても不思議だ! 先日、私はもう二度と会えなくなると思い悲しくてたまりませんでしたが、こんなに回復するとは本当に信じられません!」と喜びを隠せませんでした。夫のことを通してこの友人も大法を修煉し始めました。友人は、どこに行っても人々に大法の素晴らしさを伝えました。今回の魔難を通して、私は固く師父を信じ、大法を信じさえすれば、命に希望が見えるとはっきりと分かりました。

 夫は日増しに回復してきましたが、日常生活はまだ自力ではできず、仕事もできない状態でした。私と夫は共に、90年代に会社の倒産により失業して、生活のために夫は自転車の修理店を営み始めました。今は夫が病気で働けないだけではなく、治療費が7万元もかかってしまいました。返済するために2人を雇って店を継続しようとしましたが、技術がないためクレームばかりで、仕方なく2人を辞めさせました。私は法輪大法を修煉していますが、夫も今まで一緒に師父の説法を聞くこともあって、「真・善・忍」をもって人と接するべきだと分かっており、客を騙さず丁寧に対応するので評判が良かったのです。夫は求人募集をせず、私に教えて店を続けさせようと考えました。夫は声が出ないため、手話で私に教えましたが、私自身が出来るかどうか不安でした。

 「私は大法弟子だ、師父がいらっしゃるので怖いものは何にもない」と思い、夫に「あなたが大丈夫だと思うなら、学びながらやってみます」と言いました。言うのは簡単ですが、実際にやって見ると大変でした。タイヤのチューブの外し方や、パンクの修理の仕方には問題がありませんが、車軸とチェーンの直し方はなかなか難しかったのです。修理の依頼が来たら、私は正直に「まだ修業中ですが」と正直に伝えます。しかし、客からはいつも「大丈夫。ゆっくり修理してください、信じているから」と言われました。今思い出すと、師父に助けられていたに違いありません。そうでなければ、私にはとても無理でした。

 当時、どれほど汗と涙を流したか自分にしか分かりません。難しい修理の場合、例えば前と後ろ、あるいは中間の車軸が錆ていて回らない時など、私はいつも師父に助けを求めながら心の中で「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍はすばらしい」と念じました。すると固まった車軸もすぐ外せました。師父のご加持もあって、2カ月ですべての技術を習得して修理をこなせるようになりました。私は毎日店で真面目に自転車を修理して、家では丁寧に夫の介護をしました。お客さんに優しい人だ、良い人だとよく言われますが、私はいつもこのように答えます。「私は『真・善・忍』を修める人です。師父がこのように教えてくださいました」、ある女性のお客さんは私に「法輪功を学ぶ人は確かに普通の人と違いますね。私の知人は病気になった夫を介護するどころか、他の男と逃げてしまったのよ」と話しました。私は笑いながら「大法を学ぶ人には、そんな人はいませんよ」と伝えました。

 ある日、バイクを押して店に入って来たお客さんが、タイヤの修理ができるかと聞かれたので、「修理はできるけど、私の手の力がそれほど強くありませんので」と受けるつもりがなかったのですが、その人は何度も構わないと言い、いくらかと尋ねました。私は自転車の料金と同じ10元にしました。実は他の店では皆25元取っていました。ところが修理が終わってバイクを渡すと、その人はこれではダメだと言ったので、「力の限り、頑張りました」と説明しましたが相手は気に入らず、修理代を払おうとしませんでした。私は修煉者として相手のことも考えべきだと思い、怒ることもなくその人に「修理がよくできなくてごめんなさい。お金はいらないので、技術の優れたお店で修理してください」と言うと、逆にその人から、「あなたは夫の介護もしながら、懸命に働いていて本当に優しい人だ。お金を払わないなんて、とんでもない」と言って、修理代金を払って出て行きました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「私の感想」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/3/5/383460.html)
 
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