明慧法会|三つのことをしっかり行うことこそ 最も安全(上)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年2月10日】私は特殊な身分と体験を持っている大法弟子です。古稀(こき・数え年70歳の称)ですが、法輪大法を19年間修煉してきました。今回の中国の明慧法会の機会を借りて、三つのことを行う中での修煉体験を師父にご報告いたしたいと思います。

 共産党の呼びかけに応じて、造反し、革命を起こした結果、受刑者となる

 私の身分はこの文章とあまり大きな関わりがないため、ここでは省略し、ただ私個人の体験の中で肝心な部分だけを述べます。

 19世紀の60年代の中期、私は優秀な成績で本省の国家重点大学に附属する中医学院に入学しました。間もなく中国共産党は中華民族に深刻な災難をもたらした、文化大革命を引き起こしました。文革の前、私は学生会の主席、兼青年団の支部書記でした。私が所属していた造反派は183人の大学生で構成された強化連を成立し、私が連長を勤めました。文革が終わった後、私は大型の武闘に参加したことを理由に、無期懲役に処されました。

 このことから私は共産党の恩を仇(あだ)で返す手段を自ら体験しました。法輪大法を修煉してから、真相を伝える中、私は自らの体験をもって、迫害に加担した610弁公室のメンバーと国保大隊(法輪功迫害の実行機関・公安系統に属する)の警官に伝え、彼らが中国共産党の邪悪な本質に対して理解するのにある程度の作用を働きました。

 私が重い刑罰に処された受刑者を拘禁する刑務所で服役していた時、そこには国民党の戦犯(共産党に捕虜になった高級軍官)が多く拘禁されていました。中にはかつて蒋介石の個人医師を勤めた国民党の軍事委員会調査統計局の高いレベルの人もいました。当初彼はちょうど飛行機に乗って台湾に飛ぼうとしていたところを、駆けつけた共産党の軍隊に止められて、捕虜になりました。彼の医術は見事なものでした。私が中医学院の学生だと知り、刑務所を出所する前に彼の医術を私に伝授してくれました。

 普段無期懲役は2年後、有期懲役に変わりますが、私は8年間服役しても何も変わりませんでした。ある日、私と面識のある1人の公安部の副部長が刑務所に視察に訪れた時、私を見かけました。彼は私のために話をしてくれました。数日後、関連部門は私を有期懲役に判決を変えてくれ、かつ2年間減刑してくれました。それから数年後、私は釈放されました。

 刑務所を出所後、私は病気治療をして生計を立てました。法輪功を修煉したことを理由に迫害されてから、病気治療はさらに私が真相を伝え、人を救うことに都合が良い条件となりました。これについては後で述べます。

 判決の変更後、私は管理が緩んでいる労働改造農場で服役しており、わりと自由に外出できました。そして、私は人に病気治療を始めました。少しずつ名が知られていきました。同農場の付近には半身不随で8年間ベッドに寝たきりになっていた農民が1人いましたが、私の治療で治りました。彼は自分の娘を私の所へ嫁がせることで感謝の意を示すと約束しました。私の刑期が終わった当日、彼は私を家に向かい入れ、結婚式を挙げてくれました。

 彼の娘は私より24歳下で、私は故郷に戻らずC県で入婿となり、正式に医者として仕事を始めました。

 留置場で大法を実証する

 私は以前武闘に参加していたため、体に傷を多く負っており、それに十数年間、刑務所暮らしをし、体調はずっとすぐれませんでした。1998年嬉しいことに私は法輪大法を得ました。法輪大法を始めて1週間後、師父は私の体を浄化してくださいました。私は連続して1カ月間食事を取ることができず、ただ水を飲むだけでしたが、非常に元気で、外出して大法を宣伝することに少しも影響ありませんでした。2カ月後、長年私を苦しめていた痛みが全てなくなり、私は本当に無病で全身が軽やかな妙なる感覚を覚えました。さらに不思議なのは、一度、第三功法の貫通両極法をやっていたところ、法輪を回す時、一気に地面から浮き上がったことで、間もなく、天目が開きました。

 1999年7.20、中国共産党は大法弟子に対して狂気じみた迫害を開始しました。私は現地の多くの同修と一緒に北京へ行き、陳情しようとしたことを理由に留置場に非合法に拘禁されました。留置場でこっぴどく殴打され、足かせと手錠をかけられ、刑具用のベッドに寝させられ、かご椅子(鉄で造られた拷問用の椅子)に座らされ、迫害されました。同修らは依然として学法煉功、真相を伝え続け、一部の者は断食をして迫害停止を呼びかけました。拘禁されていた多くの受刑者は大法弟子のこの言動に感服し、相次ぎ同修と一緒に学法し、煉功しました。一部はリスクを犯して同修のためにメモの書かれた紙を伝達したり、あるいは同修に嵌められている刑具を外してくれました。

 師父の誕生日と「世界法輪大法デー」の5.13が近づくと、この偉大な日を記念するため、私たちは留置場側に5月13日に非合法に拘禁されている同修全員が、留置場の庭にある土手で集団煉功したいと申し出ましたが、留置場側は同意してくれませんでした。5月13日の午前、私は監房の中で大声を張り上げ「法輪大法はすばらしい! 法輪大法は正法だ!」と叫びました。私は生れつき大きな声でしたので、全留置場の人に私の叫び声が聞こえました。他の監房の同修もすぐ一緒に大声で叫び始めました。一瞬、「法輪大法はすばらしい! 法輪大法は正法だ!」というスローガンがあちらこちらから聞こえ、留置場全体が沸き立ちました。

 留置場の警官は慌てふためき、殺気がみなぎり、監房に突入して来て、私に率先して叫んだかと聞かれ、そうだと答えました。警官はすぐ2人の受刑者に50キロほどある重い足かせを私に嵌めさせ、かつ普段の手錠よりさらに人を苦しめるための手錠を私に嵌めさせました。その後、また体が頑健で力強い受刑者2人に私を両側から支えさせ、号令を叫びながらかけ、全身の力を尽くして私の頭を壁にぶつけさせました。もし一般の常人なら、一度でもぶつけられると首の骨が折れ、脳みそが飛び出したはずです。少なくとも頭の骨が陥没し、血が流れ出たはずです。彼らは他でもなく私を死の境地に陥れようとしていました。それで私が死んだら、自ら壁にぶつかって自殺したと言いふらします。法輪功に対する江沢民の迫害政策は「殴り殺してもよい。自殺と見なす」と言う大変なものでした。

 当時私は非常に穏やかで、驚くことも恐れることもありませんでした。彼らはこうしてずっと私の頭を壁にぶつけ続けました。何回ぶつけたか知りませんが、とうとう彼らは疲れ果てて息が切れるほどぶつけて、やっとやめました。全く想像外だったのは、私の頭には如何なる傷跡もなく、ひいては赤くもならず、腫れたりもしなかったことです。また意識がはっきりしており、物がはっきりと見えました。まるで何も起きていなかったようでした。警官と受刑者はみな驚き、唖然としました。1人の受刑者が監房の責任者(留置場で監房ごとに監房管理に協力させるために指定した受刑者)に対して、「あまりにも不思議だ! もうやめる、お前はもうこの責任者をやめ、彼にやらせた方がよい」と言いました。

 私は彼らに師父が私を守ってくださり、弟子のために、このすべてを肩代わりしてくださったと伝えました。本来7.20の迫害開始後、私の天目は閉ざされましたが、このぶつけたことが発生後、また天目が開き、しかも以前よりさらにはっきりと見えるようになりました。

 間もなく留置場側は本当に私に監房の責任者をやらせました。そして、私は監房の受刑者に殴り合ってはいけない、新しく入った人を殴打したり、体罰を与えたりしてはいけないと要求しました。新しく入った受刑者を殴打し、虐待することは留置場で数十年間続いてきたことでしたが、私により変えられました。私はまた同じ監房の人に法輪功の真・善・忍を学び、善い人になるよう教えました。本来、受刑者の間はいくら殴り合いをやめさせても止まらないものでしたが、留置場側に変える方法がありませんでした。しかし、大法の感化の下、監房の風紀が一変し、殴り合いがなくなり、私が管理する監房は「文明監房」という称号を獲得し、私も賞状をもらいました。

 私が今回強制連行され、拘禁された経緯ですが、鎮の共産党書記が彼のため病気を治療してほしいと私を騙して鎮政府に呼ばれたため、派出所の警官が私を逮捕しました。私が彼に真相を伝えても彼は聞き入れず、「江☓☓の政策を執行する」と言いふらしました。私は「善悪には報いがあるというのは天理です。あなたが今私を捕まえると、遠くない将来あなたも捕まります」と言い聞かせても、彼は全く信じませんでした。堂々とした書記が捕まることなどないと思っていたからです。

 予想したとおり、二十数日後、彼は9000元以上の賄賂を受け取ったため、留置場に拘禁されました。監房に入ると受刑者にめった打ちにされました。監房を変えても、また殴られました。後になって、私がいる監房に来ました。もし常人であれば、これはまさに敵(かたき)同士ほどよく出会うもので、復讐するよい機会で、絶対彼にさらに大きな苦しみをなめさせるはずですが、幸いに彼が出会ったのは大法を修煉する私でした。私は彼に報復しないばかりか、逆に彼の面倒をみ、彼は再び殴られることもなくなりました。彼は私に謝りましたので、私は彼に「もう再び法輪功を迫害しないでください、さもしないと悪報を受けます」と告げました。

 彼が受け取った賄賂は判決を下す金額に至らなかったため、釈放されました。それから彼は再び同修たちを迫害することがなくなり、その後、三退の手続きに使うようにと、わざわざパソコンやインタネットに接続することまで、提供してくれました。

 また開廷前、裁判所は私に1人の弁護士を指定してくれましたが私は拒否し、自分で弁護すると伝えました。法廷で私は正々堂々と真相を伝えました。その結果、懲役3年、執行猶予4年の判決を言い渡され、すぐに解放されました。

 留置場から解放されて帰宅後、私は師父の新しい経文を読み、学法の重要性を知り、しっかり学法することを決心しました。私は師父の『環境』という経文から、大法に正しい位置を設けるべきであると思いました。そして、私は毎日診療所の入り口に座って、心を静めて『轉法輪』を2講学びました。何があっても変わりませんでした。私は修煉し続けることで収監(共産党の法律では執行猶予の場合、いつでも収監され刑罰を執行すること)されるのではないかと、全く心配しませんでした。私はずっと正々堂々と公に学法し、真相を伝えました。自分に恐怖心がないことを顕示するためではなく、世の人々にいかに迫害されても、大法弟子は恐れることなく、逆に大法を修煉し続けているということを現し、世の人々を励まし、同修の間で互いに励まし合うためでした。

 師父は私達を助けられ、2回洗脳班による迫害を解体

 迫害が最も狂気じみていた数年間、共産党は大量に洗脳班を開設する方法で大法弟子を迫害しました。私達の鎮には法輪功学習者が多く、ずっと共産党が注目する重要な場所でした。ある日、鎮政府は突然、長年廃止していた敬老院(中国で各郷鎮が身寄りのない老人を収容するために設置した建物)を、補強し、窓には鉄柵を取り付け、木質のゲートを鉄製のゲートに変えました。施工に参加した法輪功の真相を知っている常人が非常に変だと思い、同修にこのことを伝えました。

 同修が政府の中で大法を支持する人に聞いたところ、共産党はこの建物を利用して、大法弟子の中の重要人物を対象に洗脳班を開設し、もし洗脳班で転向しなければ労働教養所に送ろうとしていました。この情報を知った同修は自身の安全だけを配慮して隠れるのではなく、共産党が大法弟子を逮捕する前日の夜、皆を率いて集団で発正念しました。

 師父は「大法弟子の正念は威力あるものである」[1]と説かれました。私達の正念は確かにすばらしい効き目がありました。夜11時、晴天だったのに突然、黒い雲が空一面に広がり、0時になると大雨が降り初め、朝6時まで降り続きました。あいにく川の下流の水門当番が水門を開くことを忘れたため、川の水が急激に増水して逆流を始め、鎮政府と大法弟子を監禁するはずの敬老院を深くまで浸水しました。3日後、大水はやっと引きました。敬老院は沖積された土砂と水、各種のゴミで一杯になり、非常に長い時間をかけてもきれいにすることができませんでした。

 これはまさに、実版の『水漫金山』でした。洗脳班も開設することができませんでした。迫害はこうして解体されました。

 数カ月後、大法の真相を知っていて、何回も同修を助けた鎮の政治法律委員会の書記が私のところに訪れ、「今回は私もあなた達を守ることができません。ある人があなた達23人を告発しました。すでに上層部にまで上がりました。県の610弁公室は全員捕まえて、学習班を開くと言っています」と教えてくれました。彼は続けて「諺で面倒は引き起こした当人が解決するよりほかないと言います。今、あなたがその告発した人を探し出して、彼が政府に行って、言った言葉を撤回させる方法があります。彼に告発は間違いで、事実ではないと声明させればよいです」と教えてくれました。

 告発した人は私の隣近所の人でした。彼は共産党に指図されて、私と他の同修を監視していました。彼は1人を告発すれば600元の奨励金をもらえるという誘惑に負け、610弁公室に私達23人の大法弟子を告発し、1万元の奨励金をもらいました。

 夜に私は彼を家に招き、誠意を持ってその1万元の不義の財を返し、告発が事実でないと声明するよう勧めました。彼は金に目がくらみ、「お金はすでに手に入れ、返すことは不可能です」。私は焦って、「法輪功を迫害するお金を使う勇気がありますか? このお金を使えば、大きな悪報に遭います。あなたは今このお金を求めて自分の命と交換しようとしています! お金がそんなに大事ですか、それとも自分の命が大切ですか?!」と聞きました。1週間も経たない内に、彼は自分が開いている喫茶店で客にお茶を注ぐ時、突然気を失って床に倒れ、4日後、治療のかいもなく死にました。

 私と同修たちはこの人の死亡の実例と現地で法輪功を迫害したため悪報に報われた警官と政府官僚のことを鎮政府の関連機関の人に伝えると、彼らは非常に怯えました。しかし、洗脳班のことは県の610弁公室が主管することで、彼らは加担したくなくても、阻止する力はありませんでした。

 県の610弁公室が現地の同修に対して、非合法に大勢を逮捕する前夜、ちょうど県で工業園区を建設した際、土地の賠償金を各級政府がそれぞれ自分のポケットに入れ、最後に土地をなくした農民の手に届いた時はほんのわずかだったため、現地で大勢の農民が高速道路を塞ぎ、人権を守りました。市公安局は大勢の警官を鎮圧に駆り出し、同時に各地の政府の人員も安定維持させるために選び出して移動させました。こうして、彼らには洗脳班を開設する人力と精力がなくなりました。迫害はまたもや解体されました。

 事後、私はこの2回の事件を鎮政府のトップに伝えました。「あなた方は2回も私達を掴もうとしましたが、失敗に終わりました。これこそ私達の師父が我々を守っておられるからです。これではっきりしたのではないでしょうか? 今回あなたも私達の師父と大法の威力を目の当たりにされたと思います」。事実の前で、彼らは本当に受け入れるしかありませんでした。まるで師父の説かれたように「正しく認識しても、正しく認識しなくても、どんな考えを持っていても、事実の前で、彼らは認めなければならず、正視しなければなりません」[2]でした。

 本来、今回の農民による人権を守る行動は、完全に各級の汚職幹部が農民の土地の賠償金を貪(むさぼ)ったから起きたことで、法輪功といかなる関係もありませんでした。しかし、共産党は世間を欺き、責任から逃れるために、法輪功にその責任を転嫁する(自分の罪・責任などを他になすりつけること)悪どい茶番劇を演じました。彼らは園区管理委員会のビルに法輪功に責任を転嫁するための邪悪な大型の横断幕をかけました。人々に農民の人権を守ることは法輪功が何をしたかのように誤解させようとしました。その後、今回ぬれぎぬを着せる事件を主導した市公安局の局長は汚職をしたために、死刑の判決を言い渡されました。まさに善悪には報いがあるということを実証し、寸分の違いもありませんでした。

 診療所で正々堂々と真相を伝える

 師父は私達に真相を伝える重要性を教えてくださいました。ですから、私は自分の診療所や、薬局を利用して真相を伝えました。私の診療所に来る人や、診療所の入り口の前を通る人はみな私が真相を伝える対象でした。私は職業や階層を分け隔てしませんでした。相手がどれくらい高位な幹部であれ、どれだけお金持ちであれ、また相手が病気を診てもらうために来たか、あるいは私を迫害しようとして来たかにかかわらず、私は誰にでも真相を伝えました。真相を伝える際、隣に警官がいようと政府高官がいようと、私は少しも影響を受けませんでした。師父は「最後の執着を取り除こう」[3]、「あなたに多くの妙策があっても、私には私なりのやり方がある」[4]と説かれました。

 彼らは直接人を手配して私を検査し、監視する以外に、さらに前後左右の隣近所に密かに私の一挙一動を監視させました。通報用の電話機は診療所のすぐ隣に取り付けられましたが、私は心を動じることはありませんでした。自分が正しく行い、三つの事をしっかり行えば、師父は必ず保護してくださり、誰も私を動かすことができないと知っていました。ですから、私はただ真相を伝えて人を救い、まったく自身の安否を顧みず、衆生を救い済度するためすべてを尽くしました。

 患者が来ると私は基本的に先に真相を伝え、三退させてから、病気を診察し薬を出します。毎週数十人を三退させます。多い時は100人以上です。私のところに訪れる患者の多くは病院で治療できない難病を患う癌患者や不妊者でした。私が彼らに真相を伝え、三退させた後、多くの癌患者は元気になり、多くの不妊の人に子供が生まれ、一部の患者にはふた子が生まれました。また男の子を授かりたい人には男の子が生まれ、彼らは非常に感激しました。私は彼らに「あなた達は間違っています。私にではなく、私の師父と法輪大法に感謝すべきです」と伝えました。私は医療上発生した不思議な効果は、すべて師父の加持と大法の威力によるものだと知っています。

 各種の現代医療技術で解決できない奇跡が絶えず発生したため、少しずつ私の名声はますます広まり、非常に遠い所から、ひいては新疆や北京からでも飛行機でやって来る患者もいました。私はこのすべては師父が人々に真相を聞かせるために按配されたものだと知っています。私の所に病気治療に訪れる人の中には、公安局、政治法律委員会や政府部門の人達もいます。彼らは真相が分かり、三退してから元気になり、また大法のために一部の仕事を引き受けました。

 ある日、県公安局長が幹部候補生をつれて、私の診療所に訪れました。その人は40歳以上で、もうすぐ50歳になるが未だに子供がいないので、この時期をずらすと恐らく子孫が絶えると言い、全国の不妊症の治療で有名な大きな病院はほとんど回り、まだ他国へ出国していないだけだと言いました。私は彼に「あなたは何か悪いことをしていないですか」と聞くと、彼は「私はずっと法律に従って、仕事をやっている」と答えました。私は再び彼に「法輪功を迫害したことがありませんか」と質問すると、彼は「私は市公安局の法輪功に対する迫害を主管する副局長です」(以後・Z局長)と答えました。私はZ局長に「問題はまさにここにあり、あなたが法輪功を迫害したための報いです。あなたのことは私達の師父だけが解決方法をお持ちです。子供を授かりたければ、再び法輪功を迫害せず、かつ共産党と青年団や少年隊を脱退してから、やっと希望が叶えられます」と伝えました。彼は少し目が覚めたようでした。私はZ局長のために漢方薬を出しました。

 数カ月後、Z局長は私に電話をかけてきて、「妻が妊娠しました。あなたが私に言った例のことを手伝わせてください」と言いました。彼が言う「例のこと」とは「三退」のことです。年末に彼の妻は息子を出産しました。Z局長は高級なプレゼントを買って来て、私に感謝しました。「息子が生まれました。思い切って、先生も1人どうですか。戸籍登録のことは私が解決してあげますよ」

 私にはすでに娘が1人いました。本来ならもう授かりたくなかったのですが、妻がどうしても息子を産んで、私の医術を伝承したいと言い続け、彼女に逆らえず、しばらくして男子を産みました。私は60歳すぎてまたも息子を授かり、一時期、隣近所の美談になりました。当時はまだひとりっ子政策の最中で、2人目を生むと罰金を科され、戸籍登記も面倒でしたが、これらはすべてZ局長が私のために解決してくれました。彼はまた一部彼らの公安政治法律系統の同僚と友人を連れて来て、私に治療させました。もちろん、みな私が真相を伝え、脱退させる対象者でした。

 その後しばらくして、1人の同修が真相資料を配布する時、悪人に罪に陥れられ、派出所の警官に610弁公室が開設した洗脳班に強制連行されました。その同修はそこで真相を伝える時、口を修めず、常人を守るべきであることを忘れて、Z局長のことを一部始終ありのまま洗脳班の人に伝え、Z局長と私の名前を告げました。早速、公安や政治・法律関係者が皆このことを知ることになりました。そのことで、Z局長は非常に大きな圧力に直面し、私が彼のことを言いふらしたと誤解し、私の所を訪れ、しきりに文句を言いました。私は弁解することなく、「怖がらないでください。この事はたいした事ではありません。彼らに私の所に来るように言ってください。師父を信じ、大法を信じていれば、何事も起きません。また、現在すでに共産党から脱退したので、再び入らないでください。さらに圧力の下、大法に申し訳ないことをしてはいけません。さもないと、あなたの子供に問題が起きます。子供は師父と大法がくださったということを覚えておいてください。あなたは子供が要りますか要らないのですか?」と聞くと、彼は「もちろん、要ります。どうすればよいか分かりました」

 洗脳班を主管する市610弁公室の処長は彼の同窓でした。彼は帰ってから、その同窓に同修を釈放するよう求めましたが、県610弁公室が同意しませんでした。私は「あなたは上層部ですから、下層部に対してなす方法がないのですか?」と聞くと、終いに彼らは県610弁公室の態度を無視して、直接、同修を釈放しました。

 上層部は彼に対して調査しようとしましたが、なんと調査チームの責任者は彼が部隊にいた時の戦友でした。この事はこうしてうやむやのうちに終わり、間もなく彼は常務副局長に抜擢されました。その後、市公安局長が江沢民に追随して大法を迫害し続けたため、失脚させられて、双規(中国共産党による強制捜査、逮捕、無期限拘束、自白強要、特定外の拷問、処罰のこと)された時、彼はまた局長の職務を数カ月間代理し、仕途(仕官の道。官職への道)は少しも影響を受けませんでした。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作: 『精進要旨二』「大法弟子の正念は威力あるものである」
 [2] 李洪志師父の著作: 『各地での説法七』「米国首都法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作: 『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」
 [4] 李洪志師父の著作: 『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」

(つづく)

(明慧ネット第十四回中国大陸大法弟子の修煉心得交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/8/356209.html)
 
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