修煉の最後の道を正し、しっかりと歩む
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文/中国の大法弟子  同真

 【明慧日本2020年4月14日】師父は説かれました。「皆さんが今日行った全ては未来が参照する実践です。つまり、常人の仕事をしながら修煉することです。皆さんが極端に走れば、この道を破壊してしまいます。ですから、極端に走ってはいけません。正々堂々と社会で自分が行うべきことを行ってから、修煉すれば、修煉者として到達すべき基準、圓満成就の基準に十分達することができます。なぜならば、未来の人々の道はこのようだからです」[1]

 私たちが修煉の道を歩み始めた時から、私たちのすべては法を正すことと繋がりました。私たちの生活、仕事、全てのすべてが修煉から切り離すことが出来なくなりました。修煉がしっかり出来ている大法弟子なら仕事と生活の中で、必ずよりよく行なうことが出来るはずです。勤務先では私たちは会社の従業員であるため、心を尽くして仕事を行なうべきで、大法の要求通りに仕事をしっかり行なうべきです。家庭の中では、私たちは親だったり子だったりしますが、自分の役割をよく演じるべきです。仕事と家庭で私心がある人が、修煉になると突然に私心がなくなる、という理由にはいきません。

 私は以前、あるファッション会社で4年6カ月近く管理の仕事をしたことがあります。その間、合わせて13日しか休めませんでした。毎日の勤務時間と通勤に費やした時間を合わせると、少なくとも12時間かかり、時には14時間かかることもありました。当時、私は自転車で出勤していましたが、片道10キロの道のりを1時間くらいかかりました。出社時間が8時20分だったため、7時に家を出て8時に会社に到着しました。最も妨害されたのは1週間のうちにドカ雪に1回遭い、自転車のタイヤに2回も釘が刺さったことです。それも退勤時間になってやっと気づきました。

 翌朝も出社しなければいけないのですが、自転車の修理をするショップが閉まっていました。毎日出社後の店回りにも自転車が必要で、それというのも、計6軒の店がありますがいずれも繁華街にあって、自転車で移動するしかありません。そこで、私は自転車を押しながら出社するしかありませんでした。遅く出社しよう、そもそも会社で私だけはタイムカードのチェックが要らないし、もし、社長に聞かれたら自転車のタイヤがパンクしたと答えればよく、理由は確実に十分あります。

 時間通りに出社したくない考え方が浮かんだ後、私は悟りました。これは常人のことに似ていますが、実質は修煉です。もし私が今日このことにおいて自分のために理由を探せば、明日は修煉において、自分のために無数の理由を探し、自分を緩めます。ですから、私はこのことにおいて絶対に自分を緩めではいけません。1週間に3回、私は普段より2時間早く家を出て、自転車を押しながら2時間かけて10キロを歩き、普段通りに決まった時間に会社に到着しました。

 仕事と生活の中で厳しく自分を律し、小さなことから厳しく自分に要求する思惟方式を形成すれば、修煉においても自分に厳しく要求することが出来るようになります。こうして、仕事もよく出来るようになり、生活の中のこともよく処理でき、修煉の道をも正しく歩むことが出来ます。

 法を暗唱することにおいても同様な体験がありました。しばらくの間、私は『轉法輪』を全部暗唱することにしました。毎日2ページを暗唱し、もし今日できなかったら、翌日4ページを暗唱しました。時には頭がぼんやりし、時には目まいと吐き気がして、本当にやめたいと思いました。時にはある種の力が、私を下へ引っ張り下ろす感じがしましたが、私は自分の意志を強化し、濡れたタオルでこめかみの所を巻き、動揺せずに暗唱し続けました。最終的に疲れや眠気などを含めたすべての妨害を克服しました。大量に法を読み、法を暗唱することにより、頭はますます明晰になり、身体全体がエネルギーに包まれるようになりました。

 実際、惰性が襲ってきたり、あるいは学法煉功を緩めた時に、私たちはそれが自然な状態だと認めてはいけません。その中には絶対邪悪な妨害があります。私たちが意志力を強めれば、すべての妨害要素を解体することが出来ます。もし、自分に毎週『轉法輪』を1回読むという目標を決めたら、1回学び終えたら、例え時間があっても、心から自分を緩め、自分のタスクを全うしたと思うことです。もし、目標を1週間に2回読むことに決めたら、いくら時間が厳しくても、必ず2回読みます。人間の潜在能力には限りがなく、大法弟子の場合はなおさらです。私たちが常に冷静さを保つことができ、法を正すことにおいても、修煉においても強大な意志力で対応すれば、必ずすべての魔難を乗り越え、私たちの歴史的使命を全うすることが出来ます。

 常人の中で事業を興すにも堅持することが必要です。修煉はなおさらそうです。多くのことは最後まで堅持できないため、途中でダメになってしまうのです。

 人類社会は大法弟子の修煉場です。私たちがこの人類社会から抜け出し、自分をしっかり修め、同時に衆生を救い済度するには、修煉や仕事、生活する中で時々刻々に自分を緩めないようにすれば、邪悪につけ入る隙を与えない状態になるのです。そして、刑務所や労働教養所、洗脳班のすべてが、大法弟子に対する迫害であると認識できるのです。

 しかし、自由な環境の中でも、邪悪による妨害と迫害がたくさん存在します。それらは大法弟子のまだ取り除かれてない執着を利用して、修煉者の意志を失わせ、執着を拡大し、最終的には精進する意志さえも失わせるのです。私たちはいつも法理がはっきりとし、わりと緩んだ環境の中でさらに警戒し、時々刻々に正念をもって様々な誘惑に対抗し、初志貫徹し、決して精進の意志を失ってはならないのです。

 この一念の差により、人と神が分かれます。少し緩めると人間の所に引っ張られていきます。時には自分を緩めると、ただ人間のへ少し近寄っただけですが、この少しの違いこそが、蟻の穴から堤が崩れることになり、ほんのわずかな不注意や油断から大事が起こるのです。師父は私たちにバラモン教の弟子が山の中で独修した物語を教えてくださいました。その弟子は最初は非常に精進していました。ある日、ひとりのハンターが1匹の鹿にケガをさせましたが、その弟子がこの鹿を保護しました。ひとりで山の中にいるのは非常に寂しかったため、彼はこの鹿を飼い始めました。最後にはこの鹿が最も親密なパートナーになり、彼はたくさんの精力をこの鹿に費やし、精進する意志を緩めてしまったのです。そして、この鹿が死んだあと、彼は今もなお鹿のことを忘れられず、毎日この鹿のことを思っていました。とうとう、この世を去る時になっても佛法のことを思い出せず、思っていたのはやはり鹿のことだけでした。その結果、以前に修煉者であった彼は、死んだ後1匹の鹿に転生し、長年の修煉が台無しになりました。その教訓は深刻なものです。

 この数年間、この方面での教訓はあまりにも多いのです。多くの大法弟子は見た目には非常に小さなこと、あるいは見た目には病業の関を乗り越えられず、最終的に命を失いました。私たちは法理上ではっきりとした認識を持ち、教訓を学び、成熟して、法を正す修煉の道のりの中で、一歩一歩しっかりと歩まなければいけません。仕事の中でも、生活の中でも、時々刻々に大法で自らを量り、自分を緩めさえしなければ、旧勢力のすべての按排を打ち破ることができ、さらに、法を正す最後の道をしっかりと歩むことが出来るのです。

 以上は僅かな浅い悟りです。不適切な所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/2/11/401042.html)
 
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