労働教養所の中で修煉の道を正しく歩む
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文/遼寧省の大法弟子 呉塵(ペンネーム)

 【明慧日本2020年2月22日】私は1995年に法を得ました。20年間の迫害に対し、世の中のあらゆる艱難辛苦を嘗め尽くし、血と汗と涙を流してきましたが、修煉は楽しみでもあります。この長い神の道のりは、師父のご加護と、真・善・忍の宇宙大法の支えがなければ、私は乗り越えられません。交流したいことは数え切れきれないほどありますが、今回は不当判決で拘禁された労働教養所で行ったことを皆さんと交流したいと思います。

 夜中に銃殺刑にする

 2000年12月のある日の夜0時、刑務所の当直員が私を起こして「呉さん、隊長が君に隊長のオフィスに来いって。外は寒いから、厚着をしてね」と言いました。私は厚着をして隊長のオフィスに行きました。オフィスに着くと、隊長と3、4人の警官がいました。隊長は私に「こちらは市の610弁公室から来た警官です。君は今後の道をしっかり選択してください」と言いました。リーダーであろう警官が私に「今日は君の一言をもらいに来ました。君が修煉をやめるとさえ言えば、明日釈放します。もし、君が『修煉を続ける』と言うなら、今すぐ銃殺刑にします。労働教養所の外は銃殺刑を実行する場所です。君を銃殺したら、隣に穴を掘って埋めて、君の家族には、君が逃げたので私たちも探している、と伝えれば誰にもわかりません。分かりましたよね」と言いました。

 私は笑いながら「こんなによい高徳な大法は、万年あったことのない機縁ですが、今世で幸運を得たのだから、やめるはずがないでしょう。徹底的に最後まで修煉します。三界を出なければやめることはありません」と答えました。その警官は手を振って「連れていけ! 銃殺刑にしろ」と言うと、すぐに2人の警官が私のところにかけて来ました。私は両手を振って「私は自分で歩きます。銃殺刑とはとんでもないです」と言って『洪吟』の詩を暗唱しました。「生きて求める所無く 死して留まるを惜しまず 妄念を蕩尽すれば 佛を修するは難しからず」 [1]、私は大股で前に歩きました。

 ドアのところに着いた時、そのリーダーの警官の携帯が鳴りました。彼は私のすぐ後ろにいたので、携帯から声が聞こえました。携帯の声は、彼にすぐ戻れと命じ、この件はとりあえず放っておけ、と話していました。彼は携帯を閉じて「君は、とりあえず帰っていい」と言いました。私が監房に戻った時、当直員が「呉さん、死にそうにびっくりしました。怖かったです…」と言いました。

 天が泣きました

 2001年5月8日は晴れでした。午前8時半頃、突然吹き荒れて晴天の霹靂となり、労働教養所の許院長が三十数人の警官を連れて、狼のように私の監房に突入してきました。その邪悪な院長は大声で「そこの18人を全員引っ張り出せ!」と叫びました。私は最初に引っ張り出されました。私たち18人をコンクリートの床に投げ倒し、いつものように殴ったり蹴ったりしました。私たちは全員が散々な目に合って、全身傷だらけになりました。殴り終えたあと、私たち18人を分けて各隊の監房に拘禁しました。

 その日、外は晴れていたのですが、労働教養所の中に冷たい風が吹きすさぶと、小雨と雪が入り混じった雨雪が30分ほど降りました。私たちを殴った時、許院長は私に「呉さん、君が法輪功を修煉していい人になることは、私も知っている。しかし、伝えておきたい。むしろ私は100人の泥棒がいても、1人の善良な法輪功を修煉している人は要らない。君たちがみな良い人になったら、私の仕事がなくなる。私は毎日2箱のパンダタバコ(訳注:高級たばこの一つ)を吸い、酒を飲み、また愛人もいるから、あなた達が良い人であることは許さない。良い人は殴る」と言いました。

 その後、労働教養所の政治委員が私に「許院長は愛人に電話を掛けた時、急に倒れて死んでしまいました。50歳あまりでした」と伝えてくれました。

 学法の機縁

 2001年7月、私は監房の中が熱くて耐えられませんでした。一番辛いのは、大法の書籍を読めないこと、外部の情報もわからず、師父の新しい経文も知ることができないことでした。その政治委員は、常に私の監房に来て、私たちに他の法輪功学習者が「転向」させられたことを話していました。彼は「いい状況ですよ。毎日約20人余りが転向して、まだ転向してない人は少なくなってきています。戦士(呉さんのこと)よ、まだ迷っているのか? 転向したら、美味しいご飯や豚肉春雨を食べられるし、楽しいことがいっぱいだよ。さらに3分の2の減刑もできるし、転向しないと、カビが生えた窝窝头(トウモロコシ・コーリャン・大豆などの粉を水でこねて蒸した食べ物)、漬物しか食べられません。そして、死刑囚よりも厳しく管理され、また常に暴力で対応されます。あなたはこんな年なのに、その必要があるのですか?」と言ってきました。

 私は「私も転向した学習者と交流したいと思います。あなたに手配できますか?」と言うと、彼は嬉しそうに「いいですよ、それでいいのです。あなたはこんな所にいるべきではないでしょう。外に出て、他の人を見て、他の人の意見も聞いたほうがいいでしょう。明日午前、あなたは彼らと交流してください。私は7日間の交流を手配します。しかし、7日後、あなたはどう選択するかを必ず私に教えてください」と言いました。私は「はい、7日間で十分です。私は必ず自分の選択を教えます。一つ条件があります。つまり私たちの交流を必ず邪魔しないでください」と言いました。

 次の日の午前8時、私が監房から出る時、副大隊長は「何をしに行くのですか?」と私に聞きました。私は「政治委員の按排により、私は転向した学習者と交流しにいきます」と答えました。副大隊長は、「呉さん、私はあなたを尊敬しています。もしあなたが転向したら、私はガッカリしますよ」と言うので、私は「ご安心ください」と答えました。

 政治委員の按排によって、私は2人の転向した男性の学習者と交流していました。その2人の態度は非常に悪くて、私の話を全然聞きませんでした。私は人を替えてくださいと要求しました。私の目的は学法ですから、心の中で「師父、弟子は学法したいです、新しい経文を勉強したいです、ぜひ私の学法を手伝ってくれる学習者を送ってください、しっかり学法すれば、法の力があり、正念で関を乗り越えられます。師父、ぜひご加持をお願いいたします」と言いました。

 午後、2人の女性の同修が来ました。私が新しい経文を読みたいと言うと、彼女たちはすべての新しい経文を持ってきてくれました。私は5日間で新しい経文を勉強して、後の2日間で『轉法輪』を勉強しました。わたしは心の中に法が入っているから、関を乗り越えることに問題がないと感じました。

 夜、政治委員が私に「転向するか?」と聞くので、私は「こんなに素晴らしい大法なのに、私はどこへ転向しますか」と答えました。彼は怒って手を振りながら「監禁しろ」と叫んでいました。次の日、私は小さな監房に閉じ込められ、すぐ後ろには2人の監視がおり、朝6時から夜0時まで連続18時間、とても小さい腰掛に座らされました。0時に寝て、次の朝6時に起こされ、またその腰掛に座らされて、18日間継続されました。

 18日目の午前、政治委員は監房の外で「呉さん、もういいですよ、ベッドに座りましょう」と、私に数回、お願いするような声で話しかけました。私は彼を無視して、しっかり座っていました。後ろの2人の監視は私を引っ立てて「政治委員はベッドに座れと言っている。腰掛にまだ飽きないのか」と言いました。政治委員は「腰掛に座らされる感想を教えてもらえますか」と言うので、私は「いいですよ、私は詩で答えましょう」と言い、しっかり立って大声で

 大法弟子は迫害を認めず、万難を乗り越え修煉する

 真理のため強暴を怖れず、法を正し、悪を取り除きすでに数年

 心中に真・善・忍を置く大志、他でもなく衆生済度のため

 全ての旧勢力を否定し、法輪は常に回り人心を捨てる

 慈悲を持って微笑み世界を見る、浩然の気(訳注:道義に基づく剛健の精神)が永遠に残る

 修煉して円満成就し大道となる、無量の宇宙を眼下に収む

 師父の慈悲済度に感謝し、広大な佛恩は万世に伝わる

 師父がくださった智慧で、一つ正念と悪を除く詩が思わず口に出ました。政治委員は呆然とし、何も言わずに帰りました。

 その腰掛に座るのは拷問の一つです。普通の人は2時間座ると、耐えられなくなります。長くても3日を越えられません。私は18日間座りました。「痛くないの」と聞く人がいましたが、私は「平気です」と答えました。なぜなら、私は暗記した経文と『洪吟』の詩、また『論語』を2000回ぐらい心で暗唱し、毎日百回以上暗唱し、また十数回の正念を発っし、心が充実して、法の中に溶けて、悪を取り除いていました。また毎日師父にご加持をお願いしていました。師父と大法へ100%の信心を持って、肉身は世の中ですが、念が三界を越えれば、辛いとか、痛いなどあるわけがないでしょう。言い換えれば、すべての苦難は師父が背負ってくださいました。「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」 [2]。

 「旧勢力」が私を見に来る

 2002年の秋、私は迫害により体が傷だらけで、ベッドに横になり動けなくなっていました。ある日の午前、政治委員は十数人の警官を連れて、私の監房に来ました。政治委員は1人で監房に入って、他の警官は全員、監房の外に立っていました。政治委員は私のベッドの前に来て「呉さん、私は旧勢力の代表者として、わざわざあなたを見にきました。呉さん、かわいそうですね、この労働教養所の中で、あなたは一番多くの苦しみをなめています。その必要はないでしょう。私の話に従えば、明日あなたを釈放できます。あなたは帰って、奥さんと幸せに暮らせばいいじゃないか。なぜここでこんなひどい目に合いますか? 私には決定権がありますから。私が釈放と言えば、釈放できますから」と言いました。

 私はとっさに頭を上げて大声で「あなたの話に従えますか? あなたは大法を破壊して、大法弟子を迫害して、地獄に落ちますよ、あなたに従えば地獄に落ちるではないですか、言っておきます。私の道は一番正しい道です。天に通じ、天に上る道です。私はその道だけを歩き、わき目を振ることはしません。目的に達しないと絶対にやめません」と答えました。

 その政治委員は呆れて、口を開けて、舌も口から出ていました。しばらく立ちつくし、やっと長い息を吐いて「あなたのことを手放します」と言いました。また教導員を呼んで来て「彼のことを手放しましょう。彼に修煉させましょう」と言って、警官を連れて帰りました。

 その後、環境が緩まり、私は刑務所の中のどこへでも行けるようになりました。

 私はどうしてあなたを恨むことができますか?

 2002年の冬のある日、監房の中で数人の受刑者と喋り合っていた時、労働教養所の教育課長が入ってきて、私の向かい側のベッドに座り、私に「あなたは会社の中で有名な人ですから、法輪功をやるわけがないのに…」と言うので、私は彼の話を中断して「あなたは幹部ですが、むしろここの受刑者のほうがよいです。彼らは大法を破壊していない、大法弟子を迫害していません。確かに人間社会で罪を犯しましたが、彼らは救い済度できます。あなたよりましです。あなたは大法を破壊し、大法弟子を迫害するので、罪がたいへん重いです。天罰を受け、地獄に落ち、さらに無生の門に落ちます」と言いました。その課長は恥ずかしそうに帰りました。

 夜、彼は私を当番室に行かせました。私は当番室に着いて、彼は私に気を付けの姿勢で立つよう要求しましたが、私は聞かずに自然に立ったので、彼は怒り、私を殴り倒しました。私は立ちなおし、立掌して発正念していました。彼は私を左から殴ったり、右から殴ったりして、10分ほどすると疲れて虚脱しました。彼は私に手錠をかけて、よちよちと救護室に点滴しに行きました。彼が行ったら、劉という警官がすぐに私の手錠を解除してくれ、私を支えて監房に戻りました。実はその課長が私を殴る時、私は天目で、その課長の後ろに約2メートルほどの蜥蜴(トカゲ)がいて、別の空間で私の真体がその蜥蜴の下半身を踏むと、すぐ逃げだしたのが見えました。

 その課長は救護室で死にそうになり、救護室の医者に「彼が間違っていたので、戻る時、私に謝りたい」と言いました。彼は3日間も点滴して、戻ってくると私に謝り、私が彼を恨むかどうかを聞きました。私は「どうしてあなたを恨むことができましょうか? もし私があなたを恨んだら、私は常人と同じではないですか、そうすれば、修煉者とは言えません。私たち修煉者は敵がいません。誰に対しても善で対応します。衆生に善を持って接することは私たちの最初の願望です。衆生を救い済度することは私たちの使命です。円満成就は私たちの目的です」と言いました。

 一念で生死を決める

 2003年8月の末、私は連続18日間、39.8度の熱があり、飲食ができずに骨と皮ばかりに痩せこけてしまいました。労働教養所の警官は私が死ぬことを恐れて、私を釈放しようと司法局、公安局、610弁公室に申し込みました。その三つの部門は全て釈放と返事しましたが、私の戸籍の派出所、町内会事務所は誰も私に構わず、誰も私を迎えにきませんでした。労働教養所の政治委員はどうすればいいのか分からなくて焦っていました。政治委員は私の妻に「私を家まで送る」と言いましたが、妻は「私は要らない」と答えました。政治委員は携帯を持って、私に「誰もあなたを要りません、あなたが修煉を続けた結果、誰もあなたをいらなくなりました。かわいそう」と言いました。私は「私の娘に電話してください、私が直接話します」と言いました。

 彼は私の娘に電話をかけて「呉さん、君のお父さんから話があります」と言って、携帯を私に渡しました。私は「娘よ、私を迎えに来てください。お父さんは家に帰りたい、ここにいると死ぬことになります。家に帰ったら、お父さんはすぐ治ります。今迎えに来てください、お父さんは3日間で治りますよ」と言いました。娘は「いま行きます」と言いました。

 娘は私をタクシーで家に連れて帰りました。私の家は6階で、エレベーターがありません。娘は2人の若者に頼んで私を背負って家に上りました。妻は全ての親族に電話をかけました。午後には親族全てが私の家に来ました。皆が私の様子を見て病院へ行くかどうかと相談していました。結果として私を病院へ送ることに決めました。

 この時、私は目が覚めました。私は大声で「みんな静かにしてください、話があります」と言うとみんなが私を取り囲みました。私は「3日間ください、3日過ぎると、私は元気になります。邪悪の所では3年間、お風呂に入っていないから、3日経ったら、私はお風呂に入ります。この3日間の間に、私は何も食べたり飲んだりしたくありません。みんな心配しないでください。3日たってお風呂に入ったら、しっかり食事をとります。その時になったら、私は徹底的に元気になります。15日後、私は広州へ行って、私の長女を見舞いに行きます。長女は私に会いたがって、焦って入院しましたから、15日後に彼女に会いに行きます」と言いました。

 皆は私の話を聞いて、3日間、様子を見ましょうと決めました。こうして私は3日間ベッドに横になっていました。4日目の朝8時、私はすぐに起きて、娘に風呂の用意をさせました。娘の夫が私を支えに来たので、私は「大丈夫、自分で階段を降ります」と言って、よちよちと階段を降りました。1階に着いたら、しっかり歩けると感じて、体も穏やかになりました。私がビルから出ると、近隣のみんなが「呉さんが出て来ましたよ」と言いました。私は1階のご近所さんとの仲がいいから「料理を用意してくれますか、私はお風呂のあと、しっかり食事をとりたいです」と言って、その近隣に1元をあげました。

 娘の夫は私と2時間ほど風呂を供にしてくれました。私は孫悟空が師父に会う前のように、しっかり自分の体を洗って、邪悪の労働教養所の中でついた良くない気をすべて取り除きました。私は自分をしっかり洗って、またしっかり食事をして、元気になって皆の前に姿をみせました。

 15日目に、私は汽車に乗って広州へ行きました。そして広州に半年ぐらい滞在しました。

 2004年の春に帰宅した私は、5月にまた連行されました。最初、私を拘置所に15日間、拘束しました。この15日間に、私は毎日真相を伝えていました。同じ監房に、1人の金持ち、1人の大学生(後ろ盾がある)、1人の工場長(この工場長の息子と拘置所と関係がある)がいます。警官は将棋を持って来て、私たちを遊ばせました。他の人は全員働きます。中の1人の受刑者が「なぜこの4人は働かないのか?」と聞くと、警官は「金持ちには金があり、大学生には後ろ盾があり、工場長の息子は拘置所と関係があり、呉さんは何もないけど、彼は法輪功を修煉しています。どれだけ痛めつけても修煉をやめないから。君にもできますか、君にもできるなら、君も働かなくていいです」と答えました。

 15日目に、また労働教養3年の判決を下され、午前中に私を労働教養所に送りました。私は心の中で師父に「師父、弟子は労働教養所に入りたくないです。故郷には法輪功の真相資料を配る人がいないので、私は故郷で資料を配りたいです。師父、助けてくださいお願いします」と言いました。

 労働教養所の院長は私を見て、4、5人の課長と連名で私の入所を拒否しました。支局の警官は私に、「あなたは家に帰らないで、遠いところに行ってください。できるだけ私たちの目から離れてください」と言いました。その時から、私は放浪生活が始まり、資料も遼南(訳注:遼寧省南部)の全域に配っていました。

 以上は迫害に反対した一部の経歴です。20年あまりの風雨の中で、私はやめるなどの言葉を書いたことがないし、話したこともありません。広大な師父の恩に対して、弟子は師父の恩を返すことができませんが、自分の道をしっかり歩み、師父が心配なさらずにすむよう、私のことで少しでも喜んでいただけるように頑張ります。

 師父は「皆さんは大法を隅々まで理解し、丹誠を込めて悟り、いつ如何なる時でも心性を守り、着実に修煉に勤め、苦の中の苦に耐え、忍び難いことを忍ぶことができれば、きっと修煉して成就することができるものと思います」 [3]と説かれました。私は今後も法を実証して、衆生を救い済度する中でに自分をしっかり修め、史前の大願を果たします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「何も残らず」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」
 [3] 李洪志師父の著作:『法輪功』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/1/29/400054.html)
 
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