文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年3月4日】私は修煉してからすでに9年4カ月になりました。以前はずっと「修煉は辛い、辛い」と嘆いていましたが、今は自分の問題がどこにあるのか分かりました。
それは、自分が片手で神を掴みながら、片手で人間を掴んでいるため、苦しく感じるのです! 即ち師父と大法の偉大さが分かり、決して修煉を放棄しないと思いながらも、片方の手は人間のものを放そうとしません。たとえば、夫がどうのこうの、子供がどうのこうの、息子の嫁がどうのこうの、そして親戚や友人がどうのこうの、また同修がどうのこうのなど、これらの事を多少心の中で考えてしまうのです。これ以外に、家族は自分の修煉を理解してくれず、対面で人に法輪功の真相を伝える時にも各種の魔難に出遭うこともあり、皮肉を言われたり、嘲られたり、軽蔑した態度で見向きもされなかったり、通報しようとしたり、大声で怒鳴りつけられたりして、「修煉はとても苦労なことだ、本当に容易なことではない!」と時々ため息がでます。迫害が早く終わることを期待し、私が言ったことは正しいかどうか、本当のことであるかどうかを、今まで反対の態度をとっていた人たちに見て欲しいと思ったことがあります。これらの多くの執着心に、さらに早く迫害を終わらせてほしいと望む心が加わり、疲れを感じ、苦しみを感じるのではありませんか? これで修煉者らしいと言えるでしょうか? ただの常人の悩みではありませんか? 修煉者のあるべき境地から遠くかけ離れています。
絶えず法を学び、絶えず明慧ネットの同修の文章を読み、だんだんと自らの殻から抜け出し、これらの事は大したことではなく、一歩前へ進めば乗り越えられると認識することができました。家族が理解を示してくれないことは、中国共産党に毒害された以外に、自分の修煉に問題があると少しずつ気づきました。今までの自分は良くできておらず、各方面が高まれば環境も変わるのではないかと思うようになりました。対面で真相を伝える時に抵抗があることは、正常なことです。修煉者は各種の困難の中でしっかりと行なうことができれば、これこそ本当の向上です。
自分の考えを明確にした後、各種の人心を放下し、人がどうのこうのと言う事に気を使わず淡々と見るようにしました。毎日ただ自分の不足を探して改め、縁のある人に対してチャンスを逃さないように、穏やかな態度で彼らにどのように真相をはっきりと説明出来るかを考えています。話を聞くか聞かないかは彼らの事で、どんな態度であれ、気にせず笑顔で、もっと多くの人々が法輪功の真相が分かり未来に向かうことを望めば、修煉は難しくなく、坐禅する時の痛みと站椿する時の大変さ以外は、すべて大したことはありません。修煉が難しいということは、人間のものを掴んで放そうとせず、人心を放下しないからです。極端に言えば、難しいということは自分が自分を妨害していることです。ある若い修煉者は「どんなことに出遭っても真・善・忍に則れば、解決できないことはありません」と言ったことがあります。どんなに素晴らしいことでしょう。
私と同じ状況の同修たちに、あらゆる束縛を早く捨て去り、人間の観念を放下し心を飛躍させることができれば、修煉は難しいことから、やさしいことになるはずです。もちろんこれは次元の突破であり、努力しなければなりません!