文/江蘇の大法弟子
【明慧日本2023年4月6日】
先日、ある年老いた同修がうちを訪ねてきて、こっそりと私の母に「厳正声明」を渡しました。同修が有罪で執行猶予を受けたのは、「改心」(法輪功を否定すると認める)と家族の努力の結果だと教えてくれました。彼女は今、体調が悪く、お手伝いさんの世話を受けています。彼女はこの声明を出して急いで帰りました。
彼女が去った後、私はいろいろ考えました。修煉してから数年間経ちましたが、この数年間で、たくさんの優秀な同修を失いました。ある同修はとても精進していて、学法と煉功をしっかり行い、ある同修は真相資料を配り、全く恐れる心を持たず、1日に何十人もの人を脱党させましたが、旧勢力に隙に乗じられ肉身を失いました。また、ある多くの同修は不法な判決を受け、さらに「改心」を強いられた同修もいました。地元の同修はほとんど残っていません。私たちは皆、強固な大法弟子であり、これらの試練を恐れているわけではありません。内に向かって探し、学法を強化してから、私たちの大部分は大法に則った実修がないことを発見しました。そのため、遠回りして、たくさんの問題が出て、程度の異なる様々な迫害を受けました。
例えば、私自身は、ここ数年、肉体にひどい迫害を受けてきました。歯が痛くなって1年以上になり、歯が4本も抜けました。また、抜け毛がひどく、体が何キロも太りました。1年余りの間に私は何度も内に向かって探し、多くの問題を見つけましたが、根本的な解決に至りませんでした。師父が私たちに何千ものメカニズムをくださり、その中には必ず肉身を修復できるものがあるので、師父は私のために新しい歯を作ってくださるとずっと思っていました。というのは、私は子供の頃から歯医者に行くのが怖かったので、食べられなくなり、歯が欠けても、痛くなって我慢しても、怖くて歯医者に行きませんでした。
また、癇癪については、私の癇癪はすべて道理にかなっていると思いました。先生も子供は厳格に教育しなければならないと言われたことがありますが、本質的には私は理性的に子供を教育するよりも自分の気分を発散したいのです。また、私は巧みに話をするのが好きで、それによって私と友人の間の人間関係をより良くすることができると思っていました。自分がユーモアのセンスを持っていて、知識が豊富で才能があると感じていますが、本質は自分を顕示するためでした。私が少しずつ口を修めることに関する執着を見つけると、天目で私の歯から、次々と怪物を片付けるのが見えました。ある時はたくさんの赤いアリ、ある時は毒蛇のような怪物でした。
私の大きな欠点の一つは、煉功したくないことです。私は法を得てから、煉功をあまり重視していませんでした。なぜなら、法を得た時、私はまだ20代前半で、健康体でしたから、気功で病気を治そうという気持ちはありませんでした。それよりも、「法」を学ぶことに重きを置いていました。私は自分に問いかけました。「私は煉功を実際に修めたでしょうか? 答えはもちろんノーです。10年以上も法を得ているのに、この問題はまだ残っています。これは実修したと言えるでしょうか? もし実修だとしたら、これほどまでに煉功を嫌がることはないはずです。これは明らかに怠惰という非常に単純な問題なのです。
私はこれまで何かと言い訳をしてごまかし続けていました。それを自覚し、それを取り除くと決心した後、ある夜、目が覚め、疲れを感じ、再び横になりたいと思ったので、私は実修しなければいけないと思いました。それから辛くても起きて煉功を始めました。第二功法の法輪を抱えている間、あくびが出たり、立ち上がるのが億劫になるほどの脱力感を覚えました。涙を流し、「手を下ろしたい」と心の中でそのような声が聞こえました。歯を抜いたばかりで、食事もしていないし、まだ体が弱いから、昼になってから煉功しよう。そんな声に何度も誘惑されたことがありました。実は昼間は2人の子どもがいて、以前、仕事をしていたので時間がありませんでした。しかし今はいつも自分の執着で寝てしまいました。実修の信念に支えられて我慢していると、体に巻きついていた網がはじけるような感覚があり、その瞬間に体の奥から悪いものが出ていき、その後、体にエネルギーが流れるような感覚があり、スムーズに煉功を終えることができました。
実修に関する問題を発見した後、やっと夢から覚めたかのように、昔から私たちの存在や心は、はっきりと周囲の人々から見えていたことを気づきました。例えば、私の娘は幼い頃から非常に反抗的で、強気で、嫉妬深いのです。彼女を教育する時、私はいつも悩んでいます。師父は子供の修煉状況は大人の修煉状況の反映だと言っていわれましたが、私は反抗的ではありません。ある日、元上司と喧嘩をする夢を見ました。目を覚ましてから、私は自分の闘争心が依然としてとても強く、娘のように自己中心的であることに気づきました。以前、私はこの上司との付き合いが、しばしばうまくいかず、憤懣や不公平を感じていました。私たちの職場の全員が彼を嫌っていて、ほとんどの人が彼にいじめられ泣いたことがあるので、私は何も悪くない、全部彼のせいだと思い、実際、その時は修煉も忘れていました。彼のせいだと思っていましたが、実はその時、私は実修を忘れていました。私も上司との関係を打開したいと思っていたのですが、大きな決心をしても、職場で彼のふるまいを見ると、また同じことをやってしまいました。今にして思えば、実修の決心がなければ、実修の基礎もなく、法の勉強もよくできなければ、当然、乗り越えられません。
私の息子はおとなしく従順ですが、彼もとてもひ弱で、苦を恐れています。この点は私の安逸を求める心の反映なので深刻です。そして、彼は勉強する時にいつも自分の得意なことをしたがり、苦手なことを避けていることに気づきました。修煉の中で、私も同じです。自分の得意なことばかりをやりたがり、自分の弱点を避けたいのですが、実は私が避けているのは自分が実修していない部分です。このように、法が人間界を正す日まで、自分の欠点を持ち続けようと考えている人がどれほどいることでしょう? 「困難なことを避けて安易に就き、既存の生活を維持しつつ、苦労して自己の執着を取除くことをせず、法が世間を正す時期が到来するときには師父がすべてを解決してくださる」ということです。少なくとも、以前の私はそう思っていました。このような明らかな執着と正法修煉に対する理解の誤りは、今日になってからやっと発見しました。
同修である母と私はよく些細なことで口論しますが、私たちは基本的に二言三言争ったらお互いに話をしなくなります。言い争ってはいけないとわかっています。でも言い争わなければいいのですか。そうではありません。忙しい日々の中で、私たちはしばしば内に向かって探すのを忘れます。昔、喧嘩をした後、私は、「次はもう、彼女とはこの話はしないようにしよう」と思いました。以前、彼女に物を買ってあげたとき、彼女はよく不満げに悪口を言っていました。私は、「今度は絶対買ってあげない。お金を使ってあげているのに、母はいい加減なことを言う」と思っていました。実修することを決心した後、以前の喧嘩は実はとてもシンプルで、それぞれが自分の視点から行動していたからだと気づきました。自分のエゴを捨てて、母の立場で考えたとき、本当は母に助けられていました。母はお金を出して、子供の世話を手伝ってくれ、とても大変だったのです。そう思った私は母に小さなプレゼントを買ってあげました。母は初めて「ありがとう」と言いました。
夫は人柄もよく仕事もすべて順調で、家族や子どもに優しく、大法が良いと信じている人です。しかし、彼の実家は田舎で、私の実家は彼の家よりずっと恵まれているため、私はいつも優越感に浸り、彼に対して強い態度をとってきました。 私は産後、義母からかなり酷いことをされました。私は口では何も言いませんが、心の中ではとても恨みがあり、彼らの家族を見下していました。 時々子どもを連れて行っても、何もすることがありません。座ったら食事をし、その後すぐ帰る、そんな状態が数年続きました。 夫との関係で実修したかと自問すると、 またしても「いいえ」です。 以前から彼に対しては、強気で厳しい性格だったのに加え、今は少し冷淡さも増しています。
義母に対して、実修したかと考えると、「いいえ、少しバランスを維持しているだけです。あなたは私を助けてくれないし、私もあなたを気にしません」でした。実修を決意した後、ある日、ベランダに立ったとき、ゴミ箱をひっくり返してダンボール箱を探している人が見えました。彼はそれを何個か見つけた後、嬉しそうに自分の貪欲にまかせて、畳んでいました。私は突然哀れな気持ちになりました。哀れな人! 昔はあんなに偉い神であった人が、今では何元かで売れる数個のダンボール箱を見つけただけで、こんなに喜んでいます。そして私は、私の義理の両親、夫、義理の姉のことを考えました。彼らはみな大法と深い縁のある人で、現世では貧しさと利己主義に堕ち、なんと哀れなことだろうと思いました! それ以来、すっかり恨みを捨て、今では、義母の家で買い替えが必要なものがあれば買ってあげようとか、中秋節が近いから何かしてあげようとか、心の底から義父母のことを考えている自分がいます。夫との関係も良くなり、彼を尊敬し、彼を思うようになりました。 ある時、カニを食べている時に、彼が先に一番大きなカニを選んだのですが、以前だったら嫌味を言っていたかもしれませんが、今は思いやりに満ちていて、一番大きなカニを食べさせてあげようという気持ちになりました。
師父は「少なからずに自省して正念を強め 、不足を明らかにして 再び精進す」[1] と言われました。
この詩は、師父が私たち弟子の修煉状態を要求されたものです。時が速く、生活が忙しく、誘惑も多いので、ついに自省を忘れてしまうのかもしれません。今日煉功する時、突然師父が『轉法輪』の中で述べられた禅宗で牛の角先に潜る法理を悟りました。もし私たちが法に基づいて実修し、法に照らして自分に要求しなければ、私たちは自分が定めた一つの修煉の枠の中で修練し、自分の牛の角先に潜っています。どうして私たちは修煉の初めの頃の楽しい感じがなくなったのでしょうか? すでにもう行き詰まってしまったのです。だんだん難しくなってきて、問題が一つ一つ露呈しているからです。従って、同修たちが本当に実修するように呼びかけ、この記事を書かなければならないと思いました。
私自身のレベルで悟ったもので、間違っているところは、ご指摘ください。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「理智醒覚」