歯痛と口を修め
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  【明慧日本2023年9月6日】私は生まれつき口が達者な方で、母によると、私はとても早くから言葉を話せるようになったそうです。子供の頃から、特におしゃべりだったので、自分のいる場所がいつもとても賑やかで、よく人ごみの中で注目の的になっていました。 幼い頃は年下の人に物語を読み聞かせるのが好きで、成長するにつれてそれが一種の "資本 "になったようですが、修煉後、私にとって大きな障害となりました。

 10歳の頃、私は母と一緒に修煉を始めました。 修煉を経て、母は話し方がさらに慎重になりましたので、よく「急いで目を開けて、ゆっくり口を開けなさい」と注意されました。 しかし、それは決して耳に入りませんでした。 大人になって、おしゃべりが大好きになったせいで、自分自身にも多くの問題があることが分かりました。

 1、(相手の先を越して)口を挟む。 他の人が言い終わるのを待たず、利口だとうぬぼれて、話し相手の意図を理解したかのように、口出しをしました。 実際に何度も相手の意図を誤解し、とても恥ずかしい思いをしました。 私も変わりたいと思っていますが、顕示心に操られ、変わろうと思っても、ついついしゃべってしまいます。また、口挟むのは失礼であり、私はそれをすべきではないことを知っていますが、それに特別な注意を払っていませんでした。 

 2、罵る言葉を言う。私はおしゃべりが好きですが、あまり上手ではありませんでした。他人を賛辞や認める言葉を述べることを好まないため、いつも言葉使いが厳しく、更には自分が大真面目な話をしていると思い込んでいました。例えば、同窓会で数年ぶりに会った高校の同級生たちはみんな変わっていました。ある女の子は、高校時代よりもずっと可愛くなっていました。彼女は高校時代に太っていましたが、今はやせておりとても均整がとれています。みんなは彼女がきれいだとほめていましたが、私はこう言いました。「高校時代は太っていたのに、今は太っていない、かなりいい......」彼女の顔色があっという間に変わりました。この時、私はまだ自分が大真面目なことを言っているだけだと思い込んでいました。

 また例えば、私はよく人を傷つけるようなことを言います。夫も同修ですが、座禅を組むとき、よく頭を下げることが多いのですが、私がいつも注意してあげても変わりませんでした。そして、時々、皮肉を込めて「頭が地面に垂れているよ」と言いました。同修が人に罵る言葉を言ってはいけない、という修煉体験を読んだことがあります。中に師父の教えがこのように説かれています。「『それがどうしたというのだ。たかが満点じゃないか。はしゃぐな! 百点はお前しか取ったことがないわけじゃないぞ!』と、隣近所はドアも開けないうちから罵声を上げているでしょう」 [1]。同修の交流文章を読んで、私がよく口にする言葉のいくつかは人を罵る汚い言葉でしたが、自分自身では理解していなかったことに気づかされました。私はよく、同修の夫に「クソ野郎」とか、 「出て行け」 とか、といった言葉を使っていました。冗談で言っていますが、本当に人を罵る言葉ばかりです。冗談で言っているとはいえ、確かに人を罵る汚い言葉です。また、刺激的な反問を含んだ言葉もありますが、これは程度が違うだけで、罵る言葉と同じ性質のものだと私は理解しました。

 3. 同修の陰口を叩く。 私は早くから修煉していたので、接触してきた同修の人数も相対的に多いです。そして、以前に何人かの同修が交流原稿を書くことを手伝っていましたので、彼らの個人的な修煉歴について知っていることが多いです。ですから、夫によく私が知っている同修の状況について話しました。さらに、話に尾ひれをつけて賑やかに話しました。私は「周りに囲まれている」という感覚がとても好きなので、名前も省略せず、自分が知っている「誰誰は、どのように」と話しました。時々、夫も「口を修めるべきだ、そんなに具体的なことを知る必要はない」などと私に注意しました。時に私は不機嫌になったり、黙って自分を見直したりしましたが、その点では大きな改善は有りませんでした。

 4、噂話を広める。時には、同修から聞いたことを考えずに他の同修に伝えてしまいました。それが同修の些細なことから、時には海外の出来事にまで及ぶことがあり、まるでニュースのようにペラペラと、本当のことのように話していました。その後、歯が痛くなったとき、夫に自分の行動を暴露したら、夫は大層驚いて、私が話していたことが全て本当のことだと思っていたそうです。

 5. 嘘をつく。 私はまるでしゃべれるようになったその時から嘘を吐けていたように思います。子供の頃から嘘をついたことで罰を受けたことが幾度もあり、しかし、悔い改めることなく嘘をついてきました。成長するにつれて、修煉においてずいぶん苦労させられました。今でも時々、自分が何気なく言った言葉が嘘である場合があります。ある日、同修が「あなたの家で足を組むと痛いが、自分の家ではそれほど痛くない」と言いました。私はすぐに物語をでっち上げました。「あるとき、私が某同修の家に行って、自分の家では座禅を組んで足が痛くないのに、その同修の家でしばらく経ってから足が痛くなりました。私が同修の家の場が良くないと文句を言いましたが、その同修は『あなたには何の関係もありません』と答えました」

 私はその話をその場限りで終わらせましたが、その夜、自分を探していると、また「嘘をついたこと」に気付きました。コンピューターのストレージをよく調べましたが、私があれほど雄弁に語ったような出来事は存在しません。翌日、私は慌てて同修にこの件を暴露しました。

 6、言わせない、よく詭弁を弄する。普段はいつも笑顔を見せていますが、心の中には言われたくないという強い思いが隠されていました。誰かが私の誤りを指摘すると、私は不機嫌になります。子供の頃はすぐに不機嫌な顔を見せていましたが、大人になってからは狡辯(こうべん)するようになりました。『そんなことじゃないんだ、あなたは当時のことを知らないんだから…』と。今でもこの癖は治っていません。時々、自分に向かって『我慢して、言い返さないで』と言い含めていますが、我慢できることもあれば、我慢できなくてついつい反論してしまうこともあります。

 7、優勢に乗じて攻めかかる、よく同修を非難する。この点は特に夫同修に対して顕著です。時に、彼が法にそぐわない行動をしたとき、常に非難し、指摘してしまいます。自分が言っていることは正しいはずだと思いますが、あなたはなぜ変わらないのかという気持ちを抱えてしまいます。相手に思いやりを持っているように見えますが、実際には同修の受け入れ可能な度合いを考慮していません。時には、言葉で相手の執着心を刺激し、互いに非難し合い、結局は気まずく終わりました。

 歯が痛み始める

 少し前、突然、歯が痛くなりました。明確な表面的な原因はなく、ただ突然痛みが始まりました。最初の日、歯の痛みは非常に奇妙でした。どの歯を触っても痛くなかったのですが、歯そのものが痛かったのです。食事をすると痛みがなくなり、または何か大事なことがあるときも痛くありませんでしたが、何もしていないと継続的に痛みがありました。痛みがそれほど強くなかったため、その日はあまり気にしませんでした。

 次の日、歯の痛みが続き、親戚が遠方から来たため、一緒にバーベキューを楽しんで、私はたくさん食べていましたが、そのときは全く痛みを感じませんでした。しかし、その夜、深夜12時の正念を発し終えた時になると、歯が再び痛み出し、余りの激しい痛みに「痛い、痛い」と声を上げずにいられませんでした。仕方なく、座って正念を発っしました。正念を発っしたことで少し楽になりましたが、まだ痛みは残っていました。

 3日目の夜、痛みのため一晩中眠れませんでした。我慢できなくなり、足を組んで第五功法煉功しましたが、痛みが非常に激しく、足を下ろさずに何とか我慢して1時間、煉功し続けることができました。その後はだいぶ楽になり、普段の成すべきことを成しました。

 4日目になると、歯の痛みだけでなく、顔全体が痙攣しているように痛み、頭のてっぺんまで痛みが広がりました。

 5日目には、ほぼ30分おきに痛みに襲われ、ベッドの上で痛みにのたうちまわりました。夫は私の状態を見て、隣で正念を発し、私に師父に助けて頂くようにお願いしてと言いました。家の他の同修も「さっさと自己に向かって探して、いつも口を修めないから、早く師父に助けてとお願いしなさい」と言いました。私は痛みに耐えられず、師父の法像の前にひざまずき、というよりも伏せて、師父の法像の前、痛みで転げ回り、泣きながら師父にお願いしました。『私は間違っていました。師父、お許しください』と、ずっと師父に言い続けました。慈悲深い師父は厳かに私を見つめ、致し方ないように見えました。私は『師父、助けてください、お願いします。私は必ず改めます。私は間違っていました、必ず改めます』しばらくして、痛みが一時的に消えました。私は再び、慈悲深い師父が私の代わりに痛みの業力を負ってくださったことを知りました。

 こうして痛みは6日目に入り、約1時間ごとに激しい痛みに襲われ、それは約30分間続きました。痛みが来るたびに、どの歯が痛いのかも正確には分からず、とにかく痛いのです。我慢できなくなると、座禅を組みました。しかし、後半では座禅をしても効かなくなりました。私は何かを求める心で座禅を行っていたため、効果がありませんでした。それからも師父の法像の前に伏せて師父にお願いしても効かなくなりました。同修は、自分に向かって探した方が良いとアドバイスをしてくれました。私は顔の半分を手で覆い、ペンを取り、普段の口を修めない悪い行為を一つ一つ書き出し、師父に対して必ず直すと誓いました。

 7日目になると、痛みは明らかに軽減しました。私は最後の少しは、師父と法に対する信仰心を試されているものだと理解し、師父と法を信頼し、痛みは偽りのものであると認識しました。最終的に歯の痛みは完全に治りました。

 師父はこのようにおっしゃいました。「私と同世代の人と私より年上の人なら分かりますが、昔の人は心が優しくて、見た目も言葉遣いも優しく、その行動から人間としての基準が分かるのです。ですから、悪役を演じるときに、悪人らしくなるように演じる必要があり、真似したり、練習したりしてやっと悪役をこなせるのです」[2]

 この法を学ぶ過程で、私はさらに深い感銘を受けました。家族や同修に対しても、優しい言葉を使うべきであり、言うべきでないことは言わない、修煉者は口を修めなけばならず、自分の要求を緩めてはいけないと気付きました。怠ると、旧勢力はそれを非常に明確に見ており、一つ一つ細かいところまですべてを記録し、たくさんのことをため込んだら、こういった状態になります。今考えてみると、私は過去に口を修めておらず、それに注意を払っていませんでしたので、師父に対して、本当に自ら恥じ入る思いばかりです。今回の歯痛を通じて、口を修めることがどれほど厳粛なことかを学びました。 今は自分の発言に気をつけ、師父をがっかりさせないよう、心から改めたいと思います。

 以上が私の教訓と心得です。何か誤りがあれば、同修の皆様からの批評や指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作: 『転法輪
 [2] 李洪志師父の著作: 『各地講法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 (責任編集者:文謙)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/18/464294.html)
 
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