【慶祝5.13】修煉して恨む心を取り除く
■ 印刷版
 

 文/西洋の大法弟子  

 【明慧日本2024年6月3日】法輪大法を修煉する前の私はとても気性の荒い若者で、周りのすべてに恨みを抱いていました。恨みは私の心に重くのしかかり、多くの苦痛をもたらしました。そのため、周りの人も私から遠ざかっていきました。

 しかし、法輪大法を修煉してからは、他人に何かを求めるのでなく自分の内側に目を向けること、そして、より高い基準で自分を律することを学びました。

 恨みに満ちた人生

 修煉をする前は、困難にぶつかると文句を言ったり、罵声を浴びせたりして、とても小さな出来事でも人のせいにしていました。また、どうしたらいいか迷ったりすると、物に恨みをぶつけました。テーブルを叩いたり、ドアを蹴ったり、パソコンのモニターを叩いたりしました。怒った時の自分は強力であり、譲ったり尊重したりしてくれるのだと勘違いしていたのでした。実際その時は、自分には自制心がなく、私が怒りを抑制するのは、「父に罰せられたくないのと、友人の前で面目を失いたくないため」だけでした。

 大人になっても、ネット世界やゲームに没頭すると憤りが解消されるどころか、むしろ深まりました。今は映画やゲームの主人公の多くは、自由奔放なキャラクターとして描かれており、いつも好きなことをし、思いついたことを何でも言い、すべての問題を拳で解決しています。私も彼らのように、「拳で問題を解決したい」と思っていたのでした。

 ソーシャルメディアで匿名が使えるため、攻撃的で無責任な発言をしたり、対立をあおる人が多くいました。そのため、気に食わない発言を目にすると、私はすぐに腹を立てました。私の感情はジェットコースターに乗っているようなもので、ネットを読んだことで一日が台無しになることもあって、他人の発言によって私の感情や思考が揺さぶられていたのでした。

 強烈な憤りと、曲がった価値観が相まって、私のわがままな性格は、よく学校の先生を泣かせました。

 母の同僚は、私のことを「正常ではない」と言いました。その言葉は長い間、母を悩ませ、心配もさせました。母は私とどう向き合えばいいのかが分からず、父はよく私を棒で叩き、弟は私のことをあまり尊敬しておらず、言うことも聞きませんでした。友人も、私が思い通りにならないとすぐキレるのを恐れて、私とボードゲームをするのをためらいました。ところが面白いことに、友人からよく宿題の間違いチェックを頼まれることがありました。私はいつも小さな間違いでも見つけるし、批判ばかりするからでした。

 私は、母の同僚も、家族も、友人も、すべての人を恨んでいたので、彼らが正しいのを見たくもないし、反省もしたくはありませんでした。そのため、健康状態も悪く、眠れないことも多くありました。

 怒りながら眠りにつくと、いつも長時間の睡眠に陥るのですが、目が覚めるととても疲れ切った感じがありました。当時は何に対してもやる気が起きず、当時の私の写真を見た友人は、「老けてみすぼらしい」と言いました。

 相手を優先に考えることを覚える

 母が法輪大法の修煉を始めてからは、さまざまな背景を持つ修煉者が、法輪大法を修煉してから良い人間になったことをよく話してくれました。理系の人も修煉していること、『轉法輪』という本には前代未聞の科学原理がたくさん書かれていることを聞いて、私は興味を持ちました。母から『轉法輪』を借りて読み始め、1年かけてやっと読み終えたのですが、本に書かれた法理に衝撃を受け、「修煉者になりたい!」と決心しました。

 「怒りを抑えること、何をするにもまず相手を思いやること」を学びました。かつての私はよくストレートに厳しいことを言うので、多くの人を泣かせていました。時には攻撃的な言葉を使いますが、自分は、「ただ真実を言っているだけだ」と思っていたのでした。

 師父はこう教えてくださいました。「道家は真・善・忍を修煉する際に、主に真を修煉します。ですから、道家は真を修め、心性を養うことを重んじ、真実のことを話し、嘘偽りのないことをし、正直な人間になって返本帰真し、最後には修煉が成就して真人になることを目指します。もちろん、それには忍もあり、善もありますが、真を重点的に修煉します」(『轉法輪』)

 道家は「真」を重点的に修めますが、「真」には「善」と「忍」も含まれています。道家は人を泣かせるような意地悪を決して言いません。もし話す前に、「相手のため」を考えていたら、自分の言葉が与える影響や、相手に受け入れられるかどうかを考えたはずです。私は、「ただ、怒りをぶつけるために、人に仕返しをして傷つけたかったのだ、最初の意図は間違っていたのだ!」と気づきました。それ以来、私はより慎重になり、口を慎むようになりました。

 法理は相手にではなく、自分に対して言い聞かせるもの

 2022年のある日、ルームメイトとチェスをしていました。対局中、敗れそうになった彼は、私がその前に「待った」をしたと言いました。どの手を「待った」をしたのかと尋ねると、彼は「覚えていない」と言って、指でボードの半分に円を描き、「この辺りだ」と主張しました。私が認めないと、彼は突然「もうあなたとチェスをしたくない、あなたの勝ちだ」と言って、自分の部屋に戻りました。これに少し腹が立ったのですが、キレたりはしませんでした。

 自分の部屋で「怒り」が頭の中を埋め尽くしたのですが、「自分は修煉者なので自制しないといけない」と思い直しました。ルームメイトの良いところを思い出そうとしたのですが、頭が真っ白になって何も思い浮かびませんでした。

 その時彼が電話で、母親に私の愚痴をこぼしている声が聞こえました。私が待ったをしたのに、それを認めない臆病者だと話していたのでした。私は自分の部屋で大声で、「なぜ変な理由で私を非難するのか」と問い詰めると、彼も言葉で反撃しました。彼は部屋から出てきて私と向き合うことを拒否しました。本当に師父がおっしゃった通りでした。

 師父は、「一つ例を挙げてみましょう。ある人が職場に行ったら、同僚の二人がそこで自分の悪口を言っているのが聞こえました。あまりにもひどいことを言われたので、ついかっとなりました。しかし、すでにお話ししたように、煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、常に高い基準で自分を律しなければなりません。そこで、彼は『煉功者は常人と違って、広い心をもたなければならない』という先生の教えを思い出し、その二人と口論をしませんでした。しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません。というわけで、彼はやはり気になってたまらず、どうしても後ろを振り向いて、その二人の様子を覗いてしまうかも知れません。振り返って見たら、二人はちょうど憎々しげに、調子に乗って悪口を言っているではありませんか。そこで、彼もついに我慢できなくなり、かっとなって相手と喧嘩してしまう可能性もあります」(『轉法輪』)と説かれました。

 その夜、私は一晩中眠れませんでした。「人はどうしてこんなにも理不尽で利己的なのだろうか」と思いました。『轉法輪』を読もうと決心した時、師父のお言葉で目を覚ましました。「この具体的問題については、わたしはとやかく言いたくありません。わたしは煉功者に法を説いているのです。常人にどう暮らせばよいのかをいい加減に教えているわけではありません(『轉法輪』)と説かれました。

 その時、「自分は修煉者であり、法理は自分に言い聞かせるもので、修煉していないルームメイトに対して言っているわけではない」と悟りました。もし私が大法を修煉していなかったら、その晩、私はルームメイトよりひどいことを言ったかもしれません。また、相手が何をしようと、それはその人自身のことであり、彼らには彼らの行動原理があります。私が法理を守るかどうか、法理を本当に信じるかどうかは私自身の選択であり、彼の言動と選択には依存しないのです。

 それを悟った瞬間、ほっとして心が軽やかになり、修煉としての喜びと感謝の気持ちを覚えました。事の具体的な正しいと正しくない中に陥るという常人的な思考回路と憎しみから、超越することができたからです! 大法の指導がなければ、私は数日もルームメイトと口論するか、永遠に深い恨みを抱いていたかもしれません。

 興味深いことに、翌朝、彼は何事もなかったかのように私に挨拶をしました。そして彼は、「そもそも最初からチェスをするべきではなかったのです」と言いました。私は微笑んで何も言いませんでした。修煉者でいられることに満足を感じていたからです!

 (明慧ネット第24回世界法輪大法デーの入選文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/5/14/476941.html)
 
関連文章