文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年3月22日】今日、同修と交流していたときの話題は、家族の誰かが不清潔だとか、誰かが頑固だとか、誰かが精進していないとか、理性がないとか、娘と娘婿の文句ばかりで、他人のあれこれが気に入らないという話ばかりでした。私は、そのことを同修に指摘してあげると、すぐに認めて「そうだ、そうだ、また他人の文句を言ってしまいました。おしまいにします」と言った途端に、今度は甥のここがだめだとか、そこがよくないという話をします。ですから私は再度「あなたまた言い始めましたね。さっき『おしまい』と言ったばかりなのに…他人のことを気に入らない心は嫉妬心なのです。他人の言動があなたを刺激し、あなたの観念に符合しなかったから、この心が湧いてきます」と私は言いました。
同修はやっと目覚めました。「なるほど、人のことが気に入らない心は嫉妬心なのか? 自分はただ嫌な気分を感じているが、なぜなのかを自分では良く分かりませんでした」師父は『法輪功』の中で「嫉妬心のある人は人を軽蔑し、他人が自分を上回るのが我慢なりません」(原文ではない)と説かれた事があります。交流を通して、更に理解することができました。人のことが気に入らない、人の行いが気に入らない、自分と違うやり方や行いが気に入らない、人が何かを行う事、あるいは話などが気に入らない、甚だしきに至っては、気になるところを刺激され、自分の観念とぶつかると、相手の言動に腹が立ち、恨む心や闘争心などが現れてきます。しかしこの時「嫉妬心により心のバランスを失った」と認識することができません。時には、内に向けて探しますが、口を修めないから我慢できなくなり、外へ目を向けてしまうと分かりますが、根本にある嫉妬心を見つけることができません。嫉妬心は人が自分よりよくできる時や、自分を上回った時だけに現れてくるとは限らず、更に深く潜んでいる、他人のことが気に入らない心も、嫉妬心の一つです。
多くの時に現れてくることとして、悪い人を気に入らない、良い人でも気に入らない、友人も気に入らない、同僚も気に入らない、家族のあれこれも気に入らないという評価の基準はそれらの修めるべきよくない観念です。よくない観念がどうして評価の基準になるでしょうか? またいつも他人がよくないと思うならば、どうやって人を救い済度できるでしょうか? 話をする時、語気に不善の要素を帯びていて、人のことを気に入らないなら、内心から人を救い済度するための情報を相手に伝える事ができるでしょうか? 話がいくら上手くても、相手は受け止めてくれません。その心を取り除かないかぎり、人を救い済度する効果もよくありません。
同修は「今日の収穫は本当に大きいです。今回は木の葉を掴んだのではなく、根を掴みました。人のことを気に入らない心を取り除き、嫉妬心を取り除いたら、全てを気に入って、人との関係も良くなり、宇宙の特性に同化して、全てが順調です。嫉妬心があれば正果を得られないのですから、それは大変なことです。心性の向上はお互いに補完し合っています」と言いました。
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