私たちが法を得たのは偶然ではない
■ 印刷版
 

文/海外の大法弟子 熔石

 【明慧日本2012年10月20日】一部の修煉年数が長い旧い学習者の中に、物事に対する見方が長い間ずっと変わらないという現象があると、最近私は気付きました。例えば、自分が経験した苦難、同修間のトラブル、協調人に対する変わらない印象、正法修煉に対する妨害などです。修煉者にとって、これは正常な現象ではないと私は思います。

 私たちは大法を修煉しているので、次元の突破はとても速いはずです。心性の向上と容量が増すにつれて、物事に対する多くの見方も変わるはずです。いっそう包容力を増し、法に対する理解も昇華しているはずです。過去の見方を必ずしも否定するとは限りませんが、過去の見方には限界を感じるはずだと、私は言いたいのです。

 もしある問題に対する見方が、長期にわたり何の変化もなければ、自分はずっと向上していないのではないか、自分のどこが大法からずれたのかを探すべきではないかと私は思います。修煉はとても厳粛なことで、修煉者にとって向上していないならば、逆に後退している可能性もあり、それは小さな事ではありません。

 私自身を例にすると、法を得ることができて自分はとても幸運な人間だと、以前はずっと思っていましたが、今はもう、そのように思っていません。「幸運」と感じるのは、大きな偶然性があるからそう思うのです。しかし法を得るという大きな出来事に「偶然性」があり得るでしょうか? もし私たちが師父と縁を結んで、前世で師父に承諾したのであれば、師父は必ず私たちに法を得る機会をくださるはずで、法を得るのは「必然」なことです。つまり、私たちが法を正す時期の大法弟子になれることは、決して偶然ではないのです。

 しかし私たちはただ法を得るために来たわけではありません。もし単に法を得るためだったら、現世で本当に法を得られるかどうかもわかりません。私たちの本当の使命は、師が法を正すことを助けて、衆生を救い済度することです。師父は私たちに法を伝えられたので、使命を果たすことが出来るかどうか、どの程度果たせるかどうかは私たち次第です。師父は私たちのために心を尽くされたのですが、私たちは師父に申し訳が立つでしょうか?

 法を正す時期の大法弟子として、皆が各自の使命を「必ず」やり遂げられることを、私は望んでいます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/10/6/263703.html)
 
関連文章