真の修煉者になろう
■ 印刷版
 

文/千載雪

 【明慧日本2013年3月21日】現在、大多数の大法弟子は厳格に師父の要求に従い、三つのことを実行し、得難いこの法を正す時期の修煉の機縁を大切にして、危難が来る前に衆生を救っています。しかし、一部の同修は師父が巨大な犠牲を払って延長された時間を大切にせず、精力を使うべき処に使わず、知らないうちに貴重な修煉の機縁を浪費し、自身に多大な損失をもたらしました。

 本来、ネットの存在は大法のためのものでした。ネットがあれば、中共邪党の情報封鎖を破ることができ、国内外の大法弟子が一体となり、共に精進することができます。しかし、一部の人は国内外のネット上で「神伝文化」というテーマのブログやウェブサイトを作り、安全の問題から直接真相を伝えず、せいぜい人に良いことをするような誘導効果を果たしています。問題なのは、多くの同修がそれに好んで参与し、更に、「神伝文化」を広めることが法を正す師を手伝うことだという錯覚まで覚えています。もちろん基点がはっきりしており、あくまでも常人が経営するメディア会社であり、常人の職業であり、大法弟子が縫製工場を開くのと同じような性質なら論外です。

 一部の人は、自分の文章が大法弟子の運営するサイト或いは明慧ネットに掲載されない時、自分の天目で見たものを上記のようなサイトに送り、「法」とはいかなるものかなど、法の一部について自分なりの「解釈」を他人に言いふらしたりしています。そして、それを密かに言い伝えることを好み、それを見て「すごく刺激される」と思っている人も結構います。

 国内のブログやウェブサイト上に、師父の法が断片的に載っていて、身の安全の問題からそれを引用した人の名前も明記されていません。ある人は神韻の演目の写真を無断でそこに掲載し、神韻のものとも言及せず、ただ伝統文化だと説明しています。更にひどいのは、丸い法輪の図を「多角形」に変形し、サイト上で自分の画像として使う人さえいます。これらの法を盗み、法を乱す行為は一、二例に留まりません。

 ある同修が交流する際、こう言ったのを覚えています。「良く分からないのですが、師父はなぜこのように法を伝えられるのでしょうか? なぜあのように伝えられないのでしょうか?」。これを聞いて私は冷や汗をかきました。彼がなぜ長年修煉しても状態が良くならないのか分かりました。彼はずっと修煉の道を自分の感覚に沿って決め、無条件に師父の要求に従うことをしなかったのです。このような心構えで、どうして真に法を得られるでしょうか? どうして真に修める弟子になれるでしょうか? 法をいかに伝えるかは一修煉者が考えるべきことでしょうか?

 再び、ネット上の数々の不正行為について考えてみましょう。一部の人は恐らく面と向かって真相を伝えることは今の中国大陸においてまだ安全に問題があると考え、近道として、ネットで神伝文化などを伝え、それをもって自己満足しています。実際それは自らを欺き、人をも欺く行為だと思います。

 私達の皆が知っていますが、中国の伝統文化は神伝文化です。しかし神伝文化の出現の目的は、神の御業を現し、人間の内包を豊かにし、人類の生存と発展を維持させると共に、最も肝心なのは、大法が伝えられる時、人間が神を認識できる文化や思想の基礎を築くと同時に、今日の中国人が持つ中共邪党の文化や観念を排除する手助けとなり、この時期に真相を分からせ、法によって救われることにあります。もし、神伝文化だけを広めることを「法を正す師を手伝うことだ」と思うのであれば、それは「根を捨てて末を追うこと」になります。神伝文化を信じても、大法の真相が分からず、中共の邪悪な本質を見抜くことができず、中共の党、団、隊組織から退出しなければ、彼に未来があるでしょうか? 「神伝文化」を広めることを、法を正す師を手伝っていると思う人達は、完全に他人と自分を欺いています。

 これらの人達は容易に一つのグループを形成し、終日その環境に浸り、甚だしきに至っては互いに昔は誰が誰だったとか、以前はいかに凄かったとかを言い散らし、自分たちの歓喜心や虚栄心を満足させています。以前、「清心論壇」が閉鎖に至った原因の一つは、真相伝えの効果を発揮するどころか、学習者内部の論壇になってしまったからです。本来ならこれを厳粛な教訓とすべきですが、一部の学習者はどうしても佛学会に意見があり、大法のウェブサイトに意見があって、人を丸め込んで別の勢力グループを作りたいようです。ある人は明慧編集部の文章を自分のサイトに掲載して、中共のスパイに攻撃の標的として提供し、彼らの意のままに中傷、妨害させています。このような内外の無分別は大法弟子の行為と言えるでしょうか?

 学法を通じて私達は師父の偉大さ、修煉の厳粛さ、法を実証する時間の貴重さを知りました。瞬く間に消えていく歴史的機縁の中で、どうして自分の意のままに修煉できるでしょうか? 誰が認めてくれるでしょうか? その背景には、多くの個人的な独りよがりや歓喜心が含まれているのではありませんか?

 修煉の過程で、誰にも不足の部分があります。しかし、自身の不足を認識して、それを改善する勇気と行動が必要です! ごまかすだけでは誰のためになるでしょうか?

 私の地区の協調人は他人に不足を指摘されると、その場で認め、すぐに改めます。彼女が言うには、「メンツを守る心も取り除くべきで、確かに自分に不足があれば、すぐに改めます」と言います。同修の皆さんも彼女に協力することを好み、全体の協調がスムーズに取れています。 

 最近の一両日、明慧ネットにも神韻のDVDの包装に関する交流文章が数篇掲載されています。私が思うには、私達が遭遇する多くの出来事は自分を放下し、明慧を円融する良いチャンスだと思います。本当に良い意見があれば言い出しても構いませんが、意見の大半は「自我」を主張しているような気がします。

 師父は、「重大な問題がある際、明慧の態度を見るように」と言われました。それなら、私達はいかに明慧の要求をより良く円融できるかを考え、この前提の下、それぞれの地方の状況に応じて、より良く真相を伝えて行くべきだと思います。「真に修煉すること」はいつも口にするのではなく、「法を正す時期の大法弟子」の称号は自らが吹聴する基準に達したものとはかけ離れ、「法を正す師を手伝う」というのも、自分の意のままに行動することの言い訳にはなりません。私達の一つの考えや一つの念、及び一切の行動は天に明確な記録があります。誰もごまかすことはできないのです。

 本当に合格した弟子になろうとするなら、無条件に師父の要求に従い、どんな気にいらないことに遭遇しても自身の問題を探し、心性の着実な向上をベースに、衆生を救い、大法のウェブサイトに協力し、それぞれの地方の同修と良く協調し、着実に衆生を救うために全力を尽くすべきだと思います。あちこちに自分の意見などを言い触らしたり、別の勢力グループを作るなどの行為は大法弟子の全体の精力を相殺 することになり、邪悪に隙を見せ、嘲笑されるだけです。 

 以上は個人の意見ですが、参考になれば幸いです。不適切な部分があれば慈悲なるご指摘をお願いします。皆さん、法を師としましょう。 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/3/16/270994.html)
 
関連文章