明慧法会|大海の一滴が衆生の心を映し出す(二)
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文/長春の大法弟子 水滴石

 【明慧日本2012916日】

 三、機縁を大切にして確実に修め、自我を放下し法船に乗る

 前回の法会の投稿では、自分が法船に乗り、師父が岸まで渡してくださるのをただじっと待っていたことに気づかず、この難関がどのように困難であったとか、あの苦難がどのように大変だったとか、そしてそれを乗り越えることがいかに容易でなかったかということばかりを書いて、今思えば、恥ずかしい限りです。放下できない人心が多いからこそ、難関が多いのです。修煉するからこそ、その執着心を取り除くための修煉の環境があるのです。苦が大きく、難関が多いことは、まだしっかりと修めていないからなのです。法理がはっきりせず、難関を乗り越える時、だらだらしているから大変なのです。軽く転んでも痛いと思わず、ひどく転んだ時には一生懸命師父に助けを求めます。師父の法船に乗る機縁が私にはあるのですから、大切にしなければならず、さらに精進して、師父の慈悲なる済度のご恩に報いるべきです。精進している大法弟子に比べて、私は本当に慙愧に堪えません。

 母年をとり、誰かに面倒をみてもらう必要があるため、2005年から私と妻は母の家へ引っ越しました。今年の3月から私一人で母の世話をしてきました。母は今年90歳になり、耳がよく聞こえないため、煉功や法を聞く時、音をとても大きくします。母はイヤホンをしたくないのです。無理強いはできず、15年も経ち、私も慣れてきました。特に夏は窓を開けるので、朝晩煉功する時、音楽が遠くまで響き渡ります。マンションの下にはコミュニティがあるので、邪悪がまだ凶暴な今日では、どうしても恐怖心が出てきます。私は2回も連行され、迫害されて大変でした。そのため3年間住む場所も働く場所もありませんでした。

 毎回の煉功時、私は母に音を小さくするようにと促しますが、母はいつも一番大きいところに調整します。このことが原因で、母は他人の気持ちを考えないと、私はいつも母に愚痴をこぼしていました。しかし母に「私は何も怖くはないよ」と言われました。怒った私は、「お母さんのような高齢者に何ができるというの?」と言いました。このような何年にもわたるぶつかり合いを通して、私はやっと悟りました。実は私の利己心が原因なのです。私が他人の気持ちを考えず、いつも常人の視点で問題を見ていたからなのです。音声の大小にかかわらず、聞こえるものは聞こえます。聞こえないものはたとえ近くで大き音を出しても聞こえません。

 先月のある日、私が外出して帰って来ると、母が5階の窓台(窓の下の平面部分)に腰かけて、そこから下を眺めているのが見えました。「お母さん、下りてください危ないですよ」と言いました。母は何も言わず、下りもしませんでした。母が聞こえなかったのか、それともわざと下りないのかが判断できず、大声でもう一度言いました。すぐに母は怒り出し、大声で私を罵り始めました。血が一気に頭に上った感じで、私は顔が赤くなり、どうすればいいか分からず、そのままドアを閉めて、マンションから出て行きました。

 問題が起きたのが早すぎて、私は心に何の準備もありませんでした。怒りが収まらない中、妻と妻の弟に来てもらうように電話をしようとしました。何かあった時、娘婿である私が責任をとれるはずがありません。それに、息子や娘も健在なのに、娘婿である私に母の世話をさせるのは、おかしすぎます。現に私はすでに60歳を超えているのですから。

 しかし、修煉者が遭うすべての事は偶然の一念ではありません。まずは冷静になるべきです。必ずどこかに原因があるはずです。買い物から帰る途中で、自分に原因があると私は悟りました。師父は、「わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです。わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです!」(『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」)とおっしゃいました。それに、母も大法弟子で、師父が常に見ていらっしゃるので、何が起きるというのでしょうか。私にどのような権利があってあれこれ言うのでしょうか。なぜいつも悪い方へ考え、常人の念が先に出るのでしょうか。家に帰ったら真っ先に母に謝ろうと思いました。ドアを開け、家に入ると、母は笑いながら買い物を受け取り、あれこれ問いかけ、まるで先ほど何もなかったかのようでした。私も何も言わず、自分の仕事をやり始めました。

 四、大法弟子は力強く帆を揚げ、師について家に帰る

 師父が法を正されている今日、大法弟子たちはみな「三つのこと」と、衆生を救うことに全身全霊を注ぎ込んでいます。私の周りの大法弟子たちもこのために奔走しています。それに比べて私はまだまだ及ばず、とても恥ずかしく思っています。軽く言えば、条件に限りがあり、能力が適いません。重く言えば、利己心があり、問題が起きることを恐れています。もっと深く探れば、しっかり学法し、真に修めていないのです。私も真剣に230人を脱退させましたが、それはあくまで何かの任務を果たすかのよう、その場限りのことでした。実は「三つのこと」をしっかり行なうということは、脱退させた人数で測ることではなく、その中に、しっかりと法を学んでいるかどうか、慈悲心をどれくらい修めているかどうか、師父の要求に沿っているかどうかが表れてくるのです。真の修煉者は必ず精進しており、そして精進している人は必ず真の大法弟子なのだと、私ははっきりと悟りました。

 「三つのこと」をしっかり行うことについて言えば、真剣さの程度が心の中で、それに相応する面積を占めており、どのように修めているかもまた、真剣さの表れです。二つの例を挙げます。

 ある時、私はバスで同僚に会い、三退を勧めましたが、本題に入ったところで、彼はバス停に着き、降りていきました。私は後悔しながら家に帰り、妻に言いました。妻は「あなたも一緒に降りて行くべきでした。このような場合、私はいつもその人について行き、はっきりと話して脱退させてから、次のバスを待ちます。たかが1元多めに払うだけではないですか。真相紙幣を1枚多く流通できるのですよ」と妻に言われました。「私はどうして気が付かなかったのか」と頭を掻きながら言いました。

 またそれも、私がバスに乗っていた時のことでした。バスが十字路を通りかった時、かつての友達が横断歩道を渡っているのを見かけました。彼が引っ越してからずっと連絡がつきませんでした。この十字路を超えればバス停があります。しかし、そのバス停はその日私が行く所ではなかったので、少し迷っているうちに、バスは動き出しました。もしその時、すぐにバスから降りて、少し走っていれば、彼に会えたはずです。そして脱退を進めることも可能でした。私のこの遅れた反応がまたしても絶好の機会を逃してしまい、私はまたしばらく後悔しました。その後、私はその場に戻って彼を探しましたが、しかし、この人混みの中でどこへ探しに行けばいいのでしょうか。

 同じ大法弟子である妻のことを話します。ある時、私と妻はたくさんの野菜が入った袋を提げて、道を横断していました。妻は、隣の女性が大変そうに両手に荷物を持っているのを見て、片手をあけて、その女性から荷物を一つ受け取りました。彼女たちは笑いながら話し合い、しばらく歩いてから別れました。私は妻に近づき、「知り合いなの」と聞きました。「違います脱党を勧めたらもう知り合いになったのではありませんか?」と妻は言いました。私はすぐに妻との距離を感じました。この距離は普段から蓄積されたもので、衆生を救うということが心の中でどれくらいの面積を占めているかがその差であり、普段の学法の中で蓄積された修煉の基礎がその差でもあるのです。

 師父は『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』の中でこのようにおっしゃいました、「大法弟子にとって、皆さんの修煉は最も重要です。なぜなら、あなたがしっかり修めていなければ、行なおうとすることを完成することができず、人を救う力もそれほど大きくないからです。修煉の出来がさらに劣っていると、問題を見る時、考える時に常人の頭で、常人の考え方を用いてしまい、それならさらに悪くなります。ですから、皆さんはくれぐれも怠ってはならず、おろそかにしてはいけません。千万年、億万年の機縁と待ち望んだこと、歴史上に耐えてきたすべては、皆今日のためです。肝心なときに自ら行なうべきことをしっかり行なうことができなければ、将来分かるときになると、あなたにとって、あなたの生命にとってあまりにも苦痛なことになります。ですから、皆さんはくれぐれも怠ってはいけません」

 師父の法を正す道は飛ぶように早く進展しています。この一刻千金の段階では、精進している弟子たちにとって、時間はとても足りません。精進していない弟子や、大法の中でいい加減にごまかしている弟子たちにとって、この時間は苦しく、そして長いのです。私は最初の精進から、後の怠惰、そして今、精進し始めるまでの過程で、以上のことを改めて認識することができました。

 師父の法を正す道程にしっかりとついていき、合格すべき答案を提出し、大法弟子という神聖な称号に相応しい大法弟子として、慈悲で偉大なる師父に安心していだだきますように、この場を借りて、再び師父に私の決意を表明します。

 師父に感謝いたします。大法弟子に感謝いたします。合掌

 (完)

 (明慧ネット第八回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/15/249027.html)
 
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